石河正竜(読み)いしかわまさたつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「石河正竜」の意味・わかりやすい解説

石河正竜
いしかわまさたつ
(1826―1895)

紡績技術の開拓者。通称確太郎。大和(やまと)国(奈良県)高取藩の儒者の子に生まれる。江戸に出て杉田成卿(せいけい)に学び、長崎遊学島津斉彬(なりあきら)にみいだされ、1855年(安政2)薩摩藩(さつまはん)に仕える。藩校教授として洋学を教えたが、藩主の殖産興業策に従い、初めて洋式水車を動力として火薬製造に成功、また紡績所建設を担当した。1868年(慶応4)堺紡績所(さかいぼうせきじょ)設立を命ぜられ、1870年(明治3)に完成。官営になるに伴い明治政府に出仕富岡製糸場の機械据え付けなどを含め、愛知紡績所などいわゆる十基紡の設営や、その後の実地指導にもあたった。日本の紡績業育成上の大功労者である。

石山 洋]

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朝日日本歴史人物事典 「石河正竜」の解説

石河正竜

没年:明治28.10.16(1895)
生年:文政8.12.19(1826.1.26)
幕末から明治前期における紡績技術者。大和国高市郡畝傍の石川村(奈良県橿原市)に生まれる。父は光美,母は貞子。楠木正季の末裔と伝えられる。弘化3(1846)年,江戸の杉田成卿の下で漢学を学んだのち長崎に遊学。開港時の新知識導入期に当たったため複数の藩から招聘されるが,安政3(1856)年,鹿児島藩に出仕。御庭番,諸方交易方,開成学校教授などを歴任,また島津斉彬の遺志を継ぎ鹿児島紡績の建設を計画,国産会所の建設,蒸気船を建造するなどの鹿児島藩の殖産事業に参画。明治1(1868)年,鹿児島藩堺紡績所の建設と運営に当たる。正竜の「堺紡績所建設建議書」には,綿糸の増産こそが経済政策の第一義であるという紡績工場建設への熱意と,近代企業家としての精神を読みとることができる。5年,堺紡績所が大蔵省の管轄に移り,勧農寮8等出仕,のちに租税寮雇となり,富岡製糸場などにおいて機械据え付けなどに従事した。2000錘紡績建設に当たっては,勧農局および工務局雇として,各地で設計や機械据え付けに尽力,当時貴重であった紡績技術者として活躍した。19年,奉任4等技師,20年退職。以後,複数の紡績会社に関係したが,天満紡績在勤中に死去。<参考文献>絹川太一『本邦綿糸紡績史』1巻,堀江保蔵「近代日本の先駆的企業家―石河正竜と大島高任―」(『経済論叢』84巻3号)

(松本貴典)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石河正竜」の解説

石河正竜 いしかわ-せいりゅう

1826*-1895 幕末-明治時代の洋学者,紡績技術者。
文政8年12月19日生まれ。江戸で杉田成卿(せいけい)に蘭学をまなび,長崎に遊学。安政3年鹿児島藩につかえて反射炉築造にかかわり,同藩堺紡績所の設立,運営にあたる。維新後は大蔵省にはいり,各地に紡績工場を建設した。明治28年10月16日死去。71歳。大和(奈良県)出身。前名は山田正太郎。通称は確太郎。

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