秋月種殷(読み)あきづき・たねとみ

朝日日本歴史人物事典 「秋月種殷」の解説

秋月種殷

没年:明治7.3.18(1874)
生年:文化14.6.9(1817.7.22)
幕末日向(宮崎県)高鍋藩10代,最後の藩主。通称栄之助。父は先代種任,母は種任後妻四品中務大輔脇坂安董の娘雅子。30年におよぶ治世は,経済もさることながら,文治重点が置かれ,武芸遊学の制,藩校明倫堂教授の定年制など,現実的政策を敷いた。弘化1(1844)年,明倫堂に医学館を,嘉永6(1853)年には明倫堂に寄宿舎切偲楼を設けて藩学振興を,また領内各地に椎木御学を設け,教育の普及を図ったことで知られる。安政4(1857)年編纂の『東匪犯境聞見録』は海外事情への関心の高さを示すものである。明治2(1869)年版籍奉還後,高鍋知藩事となる。<参考文献>『高鍋藩史話』

(後藤重巳)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「秋月種殷」の解説

秋月種殷 あきづき-たねとみ

1817-1874 江戸時代後期の大名
文化14年6月13日生まれ。秋月種任(たねただ)の次男天保(てんぽう)14年父の跡をつぎ,日向(ひゅうが)(宮崎県)高鍋(たかなべ)藩主秋月家10代となる。藩校明倫堂の改革,洋式兵制の採用,砲台築造,砂糖黍(きび)の栽培などをおこなう。明治7年3月18日死去。58歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android