稲葉氏(読み)いなばうじ

改訂新版 世界大百科事典 「稲葉氏」の意味・わかりやすい解説

稲葉氏 (いなばうじ)

江戸時代の大名家。伊予にあって越智(おち)氏を称したが,1464年(寛正5)美濃に移り,守護土岐成頼に仕え,のち稲葉と改姓した。土岐氏没落の後は,斎藤氏,織田氏,豊臣氏と主を変え,貞通は1588年(天正16)美濃国郡上(ぐじよう)八幡4万石の城主となった。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦では,当初西軍,合戦前に東軍に加わった。戦後,豊後臼杵5万石に転封。江戸時代を通じて領地は変わらず明治維新を迎えた。外様。正成は,豊臣秀吉に仕え,のち小早川秀秋の老臣となり,関ヶ原の戦では,秀秋の東軍への寝返りに関与。1607年美濃で1万石を得た。2代稲葉正勝は母(春日局)が将軍徳川家光の乳母となったため寵用され,老中・相模小田原城主となった。5代正知のとき山城淀城主となり明治維新を迎えた(淀藩)。譜代。ほかに淀稲葉氏から分流した安房館山藩主家がある。譜代。3家とも維新後は子爵
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「稲葉氏」の意味・わかりやすい解説

稲葉氏
いなばうじ

江戸時代の大名。先祖は代々美濃国土岐(とき)氏に属し、土岐氏没落後斎藤、織田氏と主家をかえ、良通(よしみち)(稲葉一鉄)のとき豊臣秀吉に仕え、美濃郡上八幡(ぐじょうはちまん)城主となった。

(1)良通の子貞通(さだみち)は関ヶ原の戦で東軍に属し、戦後豊後国(ぶんごのくに)臼杵(うすき)に移り(4万石)、同地で15代続いた(臼杵藩(うすきはん))。

(2)貞通の庶兄重通(しげみち)の子正成(まさなり)は関ヶ原の戦の功により、1607年(慶長12)美濃で1万石を賜り、その子稲葉正勝は老中を務め、1632年(寛永9)相模国(さがみのくに)小田原で8万5000石を領した。1723年(享保8)正知(まさとも)のとき、山城国淀(よど)10万2000石となり代々同地を領した(淀藩)。最後の藩主稲葉正邦は老中となった。

(3)稲葉正勝の嫡子正則(まさのり)の三男稲葉正員(まさかず)は、1683年(天和3)3000石を分与され幕府寄合(よりあい)に列し、1781年(天明元)正明(まさあき)のとき安房国(あわのくに)館山(たてやま)で1万石を領し、5代続いた(館山藩)。

小池 進]

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世界大百科事典(旧版)内の稲葉氏の言及

【成田[市]】より

…1590年(天正18)徳川家康の領有に帰し,92年(文禄1)佐倉藩領となり維新期まで同領。藩主稲葉氏は新勝寺を保護し,1705年(宝永2)に寺領50石を寄進した。同寺の最初の江戸出開帳は1703年(元禄16)で,以後,出開帳や居開帳などを通じて,近郷近在だけでなく江戸町人の信仰を得て,村もしだいに門前町化した。…

【淀藩】より

…石川憲之は畿内大名として延宝(1673‐81)の畿内総検地では山城検地を担当し,また元禄(1688‐1704)の国絵図作成でも山城国を担当して,永井氏とは異なる意味で幕府政治に直接関与した。1711年(正徳1)戸田光熙が,17年(享保2)松平乗邑(のりさと)が入封したが,23年稲葉氏が入封し,幕末・明治まで淀藩主として続いた。稲葉氏は徳川譜代で石高10万2000石の大名であり,正諶(まさのぶ),正邦ら歴代藩主で所司代や老中となり幕政を担当するものも出た。…

※「稲葉氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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