空海/弘法伝説(読み)くうかいこうぼうでんせつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「空海/弘法伝説」の意味・わかりやすい解説

空海/弘法伝説
くうかいこうぼうでんせつ

弘法信仰のあるところに弘法伝説は生まれ、弘法伝説の生まれたところに弘法信仰は、より広く深く、庶民の心に浸透していった。弘法信仰と弘法伝説は分かちがたく、ない交ざっており、弘法伝説の弘法大師すなわち「弘法さん」「お大師さん」は、民俗神としての弘法大師であるといえる。弘法伝説は、北は北海道から南は鹿児島県まで、さらに中国大陸にまで広く分布しており、その数はおよそ3300前後もあるといわれる。そのほかにも弘法伝説と称するものは非常に多い。民俗学者たちが努力して全国の諸伝説を収集し文献にまとめたものをうかがってみると、諸伝説の4分の3ほどのものが弘法伝説とよばれてよいものだという。それほど多い弘法伝説のなかから代表的なもの、古来、人口に膾炙(かいしゃ)してきたものを選んで紹介しよう。なお、弘法伝説の数の多いのは内容が類型的であることに起因するといえよう。


入定留身信仰(にゅうじょうるしんしんこう)
 弘法大師空海は和歌山県高野山(こうやさん)の奥の院御廟(ごびょう)に祀(まつ)られているが、現在もこの世に肉身を留めており、56億7000万年ののちに弥勒菩薩(みろくぼさつ)がこの世に出現するまでの間、衆生(しゅじょう)救済のために精進(しょうじん)されているという信仰がある。この大師の入定留身信仰は、921年(延喜21)醍醐(だいご)天皇より弘法大師の諡号(しごう)が贈られ、時の東寺長者観賢(かんげん)の勅使少納言(しょうなごん)平惟扶(これすけ)が、檜皮(ひわだ)色の法衣(ほうえ)を捧持(ほうじ)して、高野山に登り、石室(いしむろ)の中の大師を拝したところ、大師の御髪は1尺(約30センチメートル)ばかりも伸びていたので、観賢がこれを剃(そ)り、新しい法衣に着替えさせた、というのに始まる。1023年(治安3)藤原道長の高野山参詣(さんけい)のころから、この信仰は急激に盛んになる。

お衣替え(おころもがえ)
 大師の入定留身信仰に伴って、高野山では毎年、旧3月21日の正御影供(しょうみえいく)にお衣替えの法要が営まれる。徳島県の山間部では、11月23日(霜月二十三夜)をお大師さまのお衣替えの日といって、小豆粥(あずきがゆ)を煮て仏壇に供え、家族もともに食べる風習がある。他の地方では、大師は人民救済のため諸国を巡歴しているので衣の裾(すそ)が傷むと信じられている。この夜、訪ねてくるお大師さまを接待するため、ある寒村の老婆が隣の畑の大根を盗みに行ったが、その老婆の足跡を隠すために11月23日の夜にはかならず雪が降ると伝えている。霜月二十三夜の行事は民間の新嘗祭(にいなめさい)とオーバーラップしたものである。

我拝師山捨身嶽(がはいしざんしゃしんがだけ)
 四国霊場讃岐(さぬき)(香川県)第72番曼荼羅寺(まんだらじ)と第73番出釈迦寺(しゅつしゃかじ)の奥の院に我拝師山捨身嶽という山がある。ここは大師が7歳のとき、「我が師釈迦如来(にょらい)に逢(あ)わしめ給(たま)え」という誓いとともに山頂より投身したところ、黄衣の僧が現出して中空で大師を受け止めたという。しかし、これは、青年空海の四国修行における捨身の修行が、のちにこのように伝説化されたものである。阿波(あわ)(徳島県)第21番舎心山太龍寺(たいりゅうじ)も、舎心山ではなく、本来は修行場の捨身山であった。

五筆和尚(ごひつわじょう)
 唐の都長安の宮中に、2間にわたる壁面があり、王羲之(おうぎし)の書が揮毫(きごう)されていた。その一部が破損したが、だれも王羲之の筆勢に押されて筆をとって修復に応ずる者がいなかった。そこで憲宗皇帝が在唐中の大師に命じたところ、大師は両手両足と口にそれぞれ筆をもち、墨を含ませて一気に「樹」の一字を書いた。皇帝はいたく大師を賞嘆して五筆和尚と号したという(大江匡房(まさふさ)『本朝神仙伝』)。

三鈷の松(さんこのまつ)
 高野山の御影(みえい)堂と根本大塔の中間あたりに、有名な三鈷の松がある。806年(大同1)大師が唐から帰朝する際に、唐の岸から、帰朝後に密教を広めるにふさわしい聖地を求めて祈誓し、三鈷杵(さんこしょ)を日本に向かって投げたところ、三鈷杵は沖の雲間に消えていった。818年(弘仁9)大師は嵯峨(さが)天皇から高野山を下賜され、大師が帰朝後初めて高野山に登ると、三鈷杵は高野山の松に落ちかかっていた。『本朝神仙伝』では、高野山、京都の東寺、土佐の室戸(むろと)岬にも三鈷杵は落ちていたという。

神泉苑の祈雨(しんせんえんのきう)
 平安京の神泉苑に善如(ぜんにょ)という竜王が棲(す)んでおり、霊験(れいけん)あらたかな僧が修行祈願すれば、善如竜王が姿を現し、所願成就(じょうじゅ)の霊験があると信じられていた。あるとき旱天(かんてん)のため天皇はもとより人民が非常に苦しんでいるのをみて、大師が神泉苑で祈雨の修法(しゅほう)をしたところ、長さ9尺(約2.7メートル)ばかりの金色の竜が姿を現し、雨が降った。その竜を見た者は大師と、実慧(じちえ)、真済(しんぜい)、真雅(しんが)といった大師の高弟たちで、余人は見ることができなかった(『今昔物語』)。

守(修)円僧都の茹栗(しゅうえんそうずのゆでぐり)
 天長(てんちょう)年間(824~834)守円僧都が参内して、天皇の御前で呪力(じゅりょく)をもって生栗を茹栗にし甘味を調えて天皇に進めた。後日、大師が参内すると、天皇は守円のことを語り、大師にも、呪力による茹栗を上進しないのか、といった。大師は、天皇と私の前で守円の法力を見せてほしいと申し上げた。守円は宮中に招かれ、例のごとく、否、以前より熱心に生栗を加持したが、弘法大師の威徳に押されてか、法験を失い栗は変色さえしなかった(『大師行状集記』『今昔物語』)。

清涼殿の八宗論(せいりょうでんのはっしゅうろん)
 嵯峨天皇のとき、宮中に諸宗(南都六宗、天台法華(ほっけ)宗、真言(しんごん)宗)の大徳が集まって、おのおの習うところを唱えた。大師は即身成仏(そくしんじょうぶつ)の義を述べたところ、天皇から、教えは見事であるが、即身成仏の現証を見たいものだ、とのことばがあった。大師がそこで五相三摩地観(ごそうさんまじかん)に入ると、たちまち大師の頭頂から五仏の宝冠が湧(わ)き、五色の光明を放った。天皇は思わず大師を礼拝(らいはい)し、天台の円澄(えんちょう)その他の僧、群臣もことごとく立って、威光赫々(かくかく)たる仏の姿を拝した(『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』)。

大師と遍路の元祖衛門三郎(だいしとへんろのがんそえもんさぶろう)
 昔、伊予国(愛媛県)浮穴(うきあな)郡荏原(えばら)の庄(しょう)に衛門三郎という豪族がいた。非常な強欲者で、神仏も敬わず慈悲心のかけらもなかった。ある日、衛門三郎の門前に1人の旅の僧(実は大師)が托鉢(たくはつ)に立った。衛門三郎は接待をするどころか、持っていた鍬(くわ)で旅の僧に打ちかかり、僧の持っていた鉄鉢(てっぱつ)は八つに割れてしまった。その翌日から衛門三郎の家では8人の子が次々に死亡し、8日にしてことごとく死に果てた。さすがの衛門三郎もおのが強欲を懺悔(ざんげ)し、財宝ことごとく社寺や貧しい人に寄進して、発心(ほっしん)して四国遍路の旅に出た。これが遍路の元祖であるという。弘法伝説が信賞必罰よく祟(たた)るのは、超越的な神力を示すもので、いってみれば、高圧の電力のように、よく効くものほど祟りも霊験もあらたかだという民間信仰の反映である。

焼山寺の麓の一本杉(しょうさんじのふもとのいっぽんすぎ)
 衛門三郎は順逆21度の四国遍路のすえ阿波第12番焼山寺の麓(ふもと)の山中で行き倒れとなり、そこへ通りかかった大師に「われは伊予の河野(こうの)の一族なり、願わくば来世に伊予一国の領主河野氏の世嗣(よつぎ)に生まれしめ給(たま)え」と懇願した。大師は衛門三郎の手に「鉢塚衛門三郎」と書いた小石を握らせて往生させた。後年、伊予の領主河野息利(おきとし)に一子息方(おきかた)が生まれたが、左手に「鉢塚衛門三郎」と書いた小石を握っていたという。また、衛門三郎が焼山寺の麓で他界するとき、彼の遍路杖(づえ)を大師が墓標として土に突き刺した。それが根づいて杉の大木に成長し、いまもそこは杖杉庵(じょうさんあん)とよばれ、杉の大木と衛門三郎の墓がある(『石手寺縁起』)。

機織る女房(はたおるにょうぼう)
 土佐(高知県)の高岡郡仁井田(にいだ)の庄に弥助(やすけ)という男がいた。貞享(じょうきょう)年中(1684~1688)のことであるが、その女房が布を織っていたところへ遍路の僧が通りかかった。女房は貧しくて接待するものがなにもなかったので、手拭(てぬぐい)などの御用にもと、織りかけていた布を切って接待したところ、それからのち、その布はいくら切っても尽きることがなく、弥助夫婦は生涯、大師によく仕えたという(『四国遍礼(へんろ)功徳記』)。

母川のうなぎ(ははがわのうなぎ)
 徳島県海部(かいふ)郡に母川という川がある。そこに長さ1丈(約3メートル)にも余る大ウナギが棲んでいた。あるとき、在所の母親が娘を連れて母川で洗濯に夢中になっていると、あっという間にウナギの主(ぬし)が現れて、母親をさらって、淵(ふち)の中へ沈んでしまった。娘はそれから毎日、川のほとりで泣いていたが、そこへ大師が通りかかり、娘の悲しみを聞き、「拙僧が二度と大ウナギが出ないようにして進ぜよう」と祈祷(きとう)をすると、大音声(だいおんじょう)とともに淵の洞穴がつぶれてしまった。そして、これで母親も成仏(じょうぶつ)したから安心するがよいと娘を慰めて立ち去った。現に母川には、大師に封じ込まれたとき、大ウナギが暴れて割れた跡だという、せり割り岩というのがある。

弘法清水(こうぼうしみず)
 栃木市大森に、弘法水という清水がある。大師がここを通りかかり水を所望されたところ、老婆が汗をいっぱいかいて、遠いところまで水を汲(く)みに行き、大師に接待した。このあたりは水がなくて村人たちが苦しんでいるのを知った大師は、持っていた錫杖(しゃくじょう)を岩に突き立てると、清水がこんこんと湧き出るようになった。

半渋柿(はんしぶがき)
 三重県鳥羽(とば)市堅神(かたかみ)町に、半分渋くて、半分甘い半渋柿があり、全部食べることができない。昔、大師が巡ってこられたとき、柿を所望されたのに、半渋だといって与えなかったところ、その後は毎年、半渋の柿しか実がならなくなった。

十夜が橋(とよがはし)
 愛媛県大洲(おおず)市徳森にある橋で、昔、四国修行中の大師が、宿もないまま土橋の下で一夜を明かされた。冬であったので、一夜が十夜にも大師には感じられた。いまも橋の下には大師の寝姿の石像があり、いつも新しい布団がかけられている。付近で病人が出ると、大師の布団を借りてきて病人に着せかけ、治るとまた別の新しい布団をこしらえて大師の石像にかけるのだという。

[宮崎忍勝]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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