米子(市)(読み)よなご

日本大百科全書(ニッポニカ) 「米子(市)」の意味・わかりやすい解説

米子(市)
よなご

鳥取県西部の中心をなす都市で、日野川流域の北部と弓ヶ浜半島の南半部を占める。1927年(昭和2)市制施行。1935年住吉(すみよし)村、1936年車尾(くずも)村、1938年加茂、福生(ふくいけ)、福米(ふくよね)の3村、1953年(昭和28)尚徳(しょうとく)、五千石の2村、1954年彦名(ひこな)、崎津、大篠津(おおしのづ)、和田、富益(とみます)、夜見(よみ)、巌(いわお)、成実(なるみ)の8村、1956年春日(かすが)村、1968年伯仙(はくせん)町を編入。2005年(平成17)淀江町(よどえちょう)を合併。JRの山陰本線・境(さかい)線・伯備(はくび)線、米子自動車道、山陰自動車道、国道9号、180号、181号、431号が結節する交通の要地で、北部の境港市との境界には米子空港があり、東京、韓国のソウル、香港(ホンコン)、上海(シャンハイ)への定期便が就航する。

 縄文早期末以降の中海(なかうみ)低地遺跡の目久美(めぐみ)遺跡や、火山灰台地遺跡の福市(ふくいち)遺跡、青木遺跡など、古墳を含めて約530の遺跡があり、日野川流域には条里遺構もみられる。1601年(慶長6)中村一忠(かずただ)が吉川(きっかわ)氏にかわって伯耆(ほうき)18万石の領主として入り、米子城(久米(くめ)城)を築き城下町が形成されたが、中村氏が断絶し、1617年(元和3)には因伯(いんはく)領主の池田光政(みつまさ)一族の池田氏の、1632年(寛永9)以後は鳥取藩の家老荒尾(あらお)氏の支配地となった。海と陸の交通に恵まれ、日野山地の鉄や弓ヶ浜の木綿浜絣(はまがすり)の集散地として栄えた。明治中期以降は鉄鋼製糸国鉄や専売局の工場などが立地し、山陰の大阪といわれたが、近年の経済成長力は停滞ぎみである。城跡付近は中海の夕日で有名な湊山(みなとやま)公園、鳥取大学医学部・同附属病院、市役所、山陰歴史館などの公共地区となり、旧城下町の北縁には港で栄えた灘(なだ)町を隔てて寺町がある。旧外堀沿いの商店街には、東倉吉(くらよし)、西倉吉、法勝寺(ほっしょうじ)、岩倉などの町名があり、近世初期の商人たちの出身地名をしのばせる。

 1966年の中海新産業都市の指定でその中核となり、中海東岸の米子港周辺に食品工業、日野川東岸にパルプ、木材、北東の夜見地区に鉄鋼などの工場が立地する。製造品出荷額はパルプ・紙、飲料・たばこ・飼料、電子部品・デバイスの順(2014)。農業は米作のほか葉タバコ、ニンジン、白ネギ栽培などが行われる。商圏は西伯耆一円から島根県安来(やすぎ)市付近に及ぶ。

 美保(みほ)湾岸の皆生(かいけ)温泉は山陰屈指の名湯として知られ、南郊の安養寺(あんようじ)は隠岐配流(はいる)の後醍醐(ごだいご)天皇の皇女が安養尼となって没した寺。国指定史跡の福市遺跡は弥生(やよい)時代中期から古墳時代後期前半の住居跡や墳墓群からなり、竪穴(たてあな)住居が特色で、福市考古資料館もある。同じく国指定史跡の青木遺跡は縄文時代後期の落し穴からおもに古墳時代中期末にわたる大集落跡と墳墓群からなる。国指定重要文化財の後藤(ごとう)家住宅は江戸時代中期の問屋(といや)建築。車尾の深田氏庭園は国指定名勝。尾高には旧式内社の大神山(おおがみやま)神社がある。また、弓ヶ浜半島の彦名町には国立米子工業高等専門学校がある。面積132.42平方キロメートル、人口14万7317(2020)。

[岩永 實]

『『米子市史』復刻版(1973・名著出版)』『野田久男・清水真著『日本の古代遺跡 鳥取』(1983・保育社)』『『新修米子市史』全15巻(1996~2010・米子市)』


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