糞置荘(読み)くそおきのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「糞置荘」の意味・わかりやすい解説

糞置荘 (くそおきのしょう)

東大寺領の古代荘園。越前国足羽郡糞置村にあり,現福井市南部,二上町・帆谷町地域に比定されている。759年(天平宝字3)および766年(天平神護2)の開田地図が残存し,初期荘園研究上の重要な史料である。この荘園の成立時期・事情は不明であるが,759年には15町1段余の荘域をかかえ,うち開田面積は2町5段余であった。766年には荘域15町8段余でほとんど変化はないが,荘域内の口分田・墾田を改正・買得・相替によって排除し,一円化を図った。当時の開田面積は4町2段余である。開田地図は越前国司と東大寺の派遣した検田使が共同で荘域の検田を行い,その結果を絵図にしたものであるが,とくに759年のものは荘園の周辺の景観を大和絵風に,墨,茶,緑等の色彩を用いて入念に描いてある。その後951年(天暦5)には足羽郡庁が〈糞置庄田は曾て聞かざる所なり〉と東大寺諸荘収納使に報告しており,荒廃に帰していたことが知られる。
東大寺開田図
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百科事典マイペディア 「糞置荘」の意味・わかりやすい解説

糞置荘【くそおきのしょう】

越前国足羽(あすわ)郡にあった東大寺領の初期荘園。現在の福井市南部の二上(ふたがみ)町・帆谷(ほだに)町付近に比定される。759年の開田地図では糞置村として合計15町1反余,うち開田2町5反余・未開12町5反余。766年の開田地図では合計15町8反余とあまり変化はないが,口分田(くぶんでん)・墾田を改正・相替・買得によって排除し,荘域の一円化を図っており,また開田面積は4町2反余であった。951年足羽郡庁は東大寺に糞置荘の田地の所在を知らないと報告しており,すでに実体を失っていたことが知られる。開田地図は越前国司と東大寺の検田使が検田を行い,その結果を描いたもので,759年の地図には荘周辺の景観が色を用いて大和絵風に描かれている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「糞置荘」の意味・わかりやすい解説

糞置荘
くそおきのしょう

越前国足羽郡(あすわぐん)にあった東大寺領の荘。現在の福井市二上(ふたがみ)・帆谷(ほだに)・太田の各町に比定される。759年(天平宝字3)と766年(天平神護2)の2つの開田図(かいでんず)が正倉院伝存する。前者で、開田2町5段316歩、未開田12町5段288歩とあるのが、後者(正確には開田図ではなく「改定その他の図」)では、開田4町2段11歩、未開田11町6段257歩となっており、開田部分は1町6段55歩の増、未開地の部分は9段31歩の減となっている。また、荘域内に存在する口分田(くぶんでん)、墾田(こんでん)の一円化が図られているのもわかる。この荘の実態は、政府の支援のもとに地域振興策が図られたものである。しかし951年(天暦5)の足羽郡庁牒によれば、平安中期には荒廃していたことがうかがわれる。

[奥野中彦]

『奥野中彦著『荘園史と荘園絵図』(2010・東京堂出版)』

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