糸居 五郎(読み)イトイ ゴロウ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「糸居 五郎」の解説

糸居 五郎
イトイ ゴロウ


職業
ディスクジョッキー

生年月日
大正10年 1月17日

出生地
東京市 小石川区音羽(東京都 文京区)

学歴
東京府立三商〔昭和13年〕卒,和田英学院〔昭和15年〕卒

経歴
末っ子の五男として生まれ、6歳で父を亡くす。昭和13年東京府立第三商業を卒業すると、兄が満州国官吏として同地に赴任したため同行、新京の和田英学院で英語を学んだ。15年徴兵検査を受けるが、第二乙種で不合格となった。16年満州電信電話(満州放送)のアナウンサー試験に合格、8年先輩に森繁久弥がおり、マイクの使用法の講義を受けた。20年大連で敗戦を迎える。22年に引き揚げると東京・神田小川町で食料品店を開店。26年開局を控えた京都放送(KBS京都)にチーフアナウンサーとして入社。27年「アルファベット・ジャズ」を担当し、民放初の本格的DJ番組とした。第1回放送第1曲目にかけたのはアル・ジョルスン「アニバーサリー・ソング」。29年ニッポン放送の深夜部門を担当するニッポン深夜放送に転じ、「深夜のDJ」を担当、ワンマンDJを始める。34年同局が日本初のオールナイト放送を開始、深夜2〜4時の「オールナイト・ジョッキー」を生放送で週4回担当。38年には同番組の中でビートルズのデビューシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」を日本で初めて流した。42年「オールナイト・ニッポン」開始に伴い、月曜日を担当。同年ニッポン深夜放送とニッポン放送が合併。46年50歳を迎え、誕生日から2日間をかけて「50時間マラソン・ジョッキー」を成功させた。海外への取材旅行もたびたび行い、49年には米国「ビルボード」誌主催の第7回国際ラジオ・プログラミング会議の席上で、第1回国際最優秀エア・パーソナリティー賞を受賞した。56年ニューヨーク・WBNX局で在留邦人向けのラジオ番組「糸居五郎のニューヨーク・トーキョー・ウィークリー」を開始。同年「オールナイト・ニッポン」を降板。「Go Go Go」「Go Go Go & Goes On!」という名フレーズで知られた我が国のディスクジョッキーの草分けで、強いプロ意識を持ち、選曲係・ミキサー・台本なしで、自ら曲を選んでレコードをかけてアドリブで話し、“日本唯一のディスクジョッキー”を自任した。著書に「電波塔に乗ったキングコング」「僕のDJグラフィティ」がある。

受賞
日本放送作家協会賞(大衆芸能賞 第11回)〔昭和46年〕,国際最優秀エア・パーソナリティー賞(第1回)〔昭和49年〕,ニッポン放送ゴールデンマイク大賞〔昭和51年〕

没年月日
昭和59年 12月28日 (1984年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「糸居 五郎」の解説

糸居 五郎
イトイ ゴロウ

昭和期のディスクジョッキー



生年
大正10(1921)年1月17日

没年
昭和59(1984)年12月28日

出身地
東京

経歴
戦前の中国大陸や戦後京都でのアナウンサー生活後、昭和29年にニッポン放送に入り、「オールナイト・ニッポン」「オールナイト・ジョッキー」などの深夜放送の名DJとして27年間も活躍。46年には50歳を記念して50時間のマラソン・ディスク・ジョッキーを行っている。晩年はニューヨークの在留邦人向けのラジオ番組を担当していた。著書に「僕のDJグラフィティ」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

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