紅巾の乱(読み)こうきんのらん

精選版 日本国語大辞典 「紅巾の乱」の意味・読み・例文・類語

こうきん【紅巾】 の 乱(らん)

中国、元代末期、白蓮教、彌勒教などの秘密宗教結社によって起こされた大農民反乱。紅色の頭巾をまとったところから名付けられた。一三五一年、韓山童の子、林児を奉じて挙兵。六六年平定された。明の太祖朱元璋はこの乱の一部将から台頭している。

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デジタル大辞泉 「紅巾の乱」の意味・読み・例文・類語

こうきん‐の‐らん【紅巾の乱】

中国、末期の1351~1366年、異民族王朝の元を倒し、漢民族王朝を復活するきっかけとなった農民の反乱。白蓮びゃくれん教徒などの宗教的結社が中心勢力となり、紅色の頭巾ずきんを用いた。反乱鎮圧後の内乱状態の中で、紅巾軍の武将であった朱元璋しゅげんしょう明朝を興した。

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改訂新版 世界大百科事典 「紅巾の乱」の意味・わかりやすい解説

紅巾の乱 (こうきんのらん)

中国,異民族王朝元の支配を倒し,漢民族王朝明の成立のきっかけとなった宗教的農民反乱。1351-66年。白蓮(びやくれん)・弥勒(みろく)教徒が勢力の中心で,紅布で頭を包み標識としたので〈紅巾の賊〉ともいう。河北省本拠をおく白蓮教会の会首韓山童は弥勒仏下生(げしよう)の説をもって布教し,河南,安徽地方で反元の反乱を企てたが失敗した。あとを遺児の韓林児が継ぎ,長江(揚子江)流域では徐寿輝らが呼応し全国的反乱となった。このなかから朱元璋が出て反乱軍の群雄を倒し,天下を統一した。

執筆者: 中国の紅巾軍は高麗にも侵入した。1358年元の上都開平の攻撃に向かった彼らは,反撃されて遼陽に逃れ,そこから59年,61年の2回高麗に侵入した。1回目は4万の兵力で,西京(平壌)を翌年まで占領。2回目は10万の大軍で,開城を翌年初めまで占領,さらに江原道原州にも侵入し,恭愍王(きようびんおう)は福州(慶尚南道安東)まで避難した。2回とも,安祐,李芳実,崔瑩(さいえい)等を中心とする高麗側の反撃で撃退されたが,南方海上からの倭寇と並んで,高麗王朝に大打撃を与えた。また,有力地方豪族が参戦,活躍し,とくに,やがて李朝の始祖となる李成桂はその後の台頭の端緒を開いたといえる。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「紅巾の乱」の意味・わかりやすい解説

紅巾の乱
こうきんのらん

中国、モンゴル民族の王朝元(げん)の支配を倒し、漢民族王朝明(みん)の成立のきっかけとなった宗教的農民反乱(1351~66)。白蓮(びゃくれん)・弥勒(みろく)教徒がその勢力の中心で、紅布で頭を包み同志の標識としたので「紅巾の賊」ともいう。元朝の圧政下で、欒城(らんじょう)(河北省)に本拠を置く秘密宗教結社、白蓮教会の会首韓山童(かんさんどう)は、早くから弥勒仏下生(げしょう)の説をもって布教し、華北各地で広く信者を獲得していた。おりしも1351年、大氾濫(はんらん)をおこした黄河の修理のため元朝は多数の農民を役夫として徴発したが、山童はこの役夫のなかに扇動者を送り込み、民心の動揺に乗じて「宋(そう)の徽宗(きそう)八世の孫」と称し、反乱に立ち上がった。紅巾軍は最初の弾圧で山童を失ったが、教徒の劉福通(りゅうふくつう)らはその遺児韓林児(かんりんじ)を奉じて安徽省に逃れ、亳州(はくしゅう)(安徽省)で彼を帝位につけ、「小明王(しょうみょうおう)」と称し、宋国を建てて元朝打倒の檄(げき)を四方に発した。これを機に湖北の徐寿輝(じょじゅき)、安徽の郭子興(かくしこう)、朱元璋(しゅげんしょう)(明の太祖)や河南の布王三(ふおうさん)らが相次いで反乱を起こした。57年には、韓林児政権は諸軍を3路に分け、元朝に対して北伐軍を送るなど、紅巾軍の勢力は一時、華北、華中一帯に及んだ。彼らは菜食主義や、宗教的戒律、厳正な軍規をもち、至る所で腐敗した元軍を破った。しかし明確な政治的プログラムをもたず、部将間の内部対立などにより勢力が分裂し、元軍と地主の武装団による反撃にあい、本拠も壊滅した。こうしたなかで朱元璋は南京(ナンキン)を占領すると自立し、着実に地盤を固め天下平定に成功した。

[谷口規矩雄]

『谷口規矩雄著『朱元璋』(1966・人物往来社)』

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百科事典マイペディア 「紅巾の乱」の意味・わかりやすい解説

紅巾の乱【こうきんのらん】

中国,元末の1351年―1366年に起こった農民反乱。紅色の頭巾(ずきん)を標識とした。白蓮(びゃくれん)教や弥勒(みろく)教などの教徒が中心となり,元朝の支配をゆさぶる。この中から朱元璋(洪武帝)が現れ,明を建国。また,紅巾軍は高麗にも侵入,討伐に大きな功績をあげた李成桂はのちに朝鮮李朝を開いた。
→関連項目元(王朝)

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旺文社世界史事典 三訂版 「紅巾の乱」の解説

紅巾の乱
こうきんのらん

元末期の1351年白蓮教徒などが起こした反乱。紅い頭巾を目印としたので,こう呼ばれる
元が黄河の治水工事に多数の農民を酷使したことから,韓山童(白蓮教主で元に捕らわれ殺された)の子韓林児を中心とする白蓮教徒は,黄河・准水 (わいすい) 下流の周辺で反乱を起こし,開封を占領して宋国復興を宣言,韓林児は小明王と称した。多数の流民,農民の下層階級を結集し,一時は山東・山西・陝西 (せんせい) から内モンゴルまでを荒らし,元の上都を攻略したが,元軍に反撃されて分裂した。しかし,元はこれを契機に内乱状態となり,紅巾軍の部将であった朱元璋(明の太祖)は1366年韓林児を暗殺し,68年明を建国した。また紅巾軍は朝鮮にも侵入し,高麗に大打撃を与えた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「紅巾の乱」の解説

紅巾の乱(こうきんのらん)

元末の宗教的農民反乱(1351~66年)。標識に紅色頭巾(ずきん)を用い,紅頭の賊,紅寇(こうこう)などともいう。弥勒教(みろくきょう)白蓮教(びゃくれんきょう),明教などの宗教的結社が指導。乱は弥勒下生(げしょう)説で農民を動かした白蓮教の明王韓山童(かんざんどう)に続き,子の小明王韓林児(かんりんじ)らが起こした。結局乱は失敗したが,代わって首領となり紅巾の性格を克服して帝位につき,元を退けたのが明の太祖朱元璋(しゅげんしょう)である。

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世界大百科事典(旧版)内の紅巾の乱の言及

【洪武帝】より

…彼は濠州(安徽省鳳陽県)の貧農の子に生まれ,若くして親,兄弟をなくし,一時僧侶となった。ちょうどこのころ,韓林児を首領とする紅巾の乱が起こり,その一党であった郭子興も濠州を占領して反乱にたちあがった。彼は意を決して郭子興軍に投じ,紅巾軍の一兵士となったが,たちまち頭角をあらわし一方の部将となった。…

※「紅巾の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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