紫宸殿(ししんでん)(読み)ししんでん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「紫宸殿(ししんでん)」の意味・わかりやすい解説

紫宸殿(ししんでん)
ししんでん

「ししいでん」とも読む。平安宮内裏(だいり)の正殿。南殿(なでん)、前殿(ぜんでん)ともいう。元日(がんにち)、白馬(あおうま)などの節会(せちえ)や天皇・皇太子元服など大小各種の儀式や公事(くじ)が行われ、天皇が病気であったり、大極殿(だいごくでん)の焼失などの特別の場合には、即位式が行われることもあった。

 内裏の南中央に位置し、入母屋造(いりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶ)きで、東西9間、南北2間の母屋の四面に廂(ひさし)、周囲に簀子(すのこ)(縁(えん))がある南向きの建物。母屋は天井を張らない化粧屋根裏になっている。儀式のときには母屋の中央に帳台(ちょうだい)や倚子(いし)を置き、天皇の座とした。母屋と南廂東廂との間は間仕切りがなく、西は壁で、北廂との間には儀式のときに賢聖障子(けんじょうのしょうじ)が立てられた。これは絹張りの襖(ふすま)障子で、高御座(たかみくら)の真後ろにあたる1間には動物の絵が、残りの左右各4間には諸葛亮(しょかつりょう)、太公望(たいこうぼう)、蘇武(そぶ)ら計32人の中国の名臣の肖像が描かれていた。

 南廂はやはり儀式の場で、東廂は通路、北廂は御後(ごご)ともいわれ儀式の際に装束や食事などを調える準備室となり、西廂は御膳を納めておく御膳宿(おものやどり)であった。南廂中央には「紫宸殿」の額が掲げられ、その下に、儀式の場となる南庭に続く18段の階があり、南庭には東に左近桜(さこんのさくら)、西に右近橘(うこんのたちばな)が植えられていた。

 平安遷都当時の紫宸殿は、約160年後の960年(天徳4)に焼失し、以後の火災で規模は順次縮小された。また平安中期から発生した里内裏(さとだいり)では、寝殿が紫宸殿にあてられたが、清涼殿を兼ねる場合もあった。本来の内裏は1227年(安貞1)焼亡したのちは再建されず、紫宸殿も里内裏に残るのみとなる。南北朝期以後、内裏として固定した土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)(現在の京都御所)でも、紫宸殿の形は造営のたびに変化したが、江戸後期の1790年(寛政2)平安内裏を復原した形で造営され、火災後も同じように再建されて現在に至っている。

[吉田早苗]


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