細井平洲(読み)ホソイヘイシュウ

デジタル大辞泉 「細井平洲」の意味・読み・例文・類語

ほそい‐へいしゅう〔ほそゐヘイシウ〕【細井平洲】

[1728~1801]江戸中期の儒学者。尾張の人。名は徳民。あざなは世馨。米沢藩上杉鷹山うえすぎようざんに招かれて藩校興譲館で教え、のち、尾張藩藩校明倫堂で藩内教化に努めた。著「嚶鳴館遺稿」「詩経古伝」など。

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精選版 日本国語大辞典 「細井平洲」の意味・読み・例文・類語

ほそい‐へいしゅう【細井平洲】

江戸中期の儒者。尾張の人。名は徳民。字は世馨。号平洲、如来山人など。通称甚三郎。名古屋で中西淡淵に学び、江戸に出て家塾嚶鳴館を開く。学風は新注と古注を折衷する。明和八年(一七七一米沢侯上杉鷹山に招かれ、安永五年(一七七六)藩校興譲館がなって、その学規学則制定に尽力した。後に尾張藩儒となり、明倫堂の督学となった。温柔敦厚人格を存して、庶民教化にも大きく貢献した。著「嚶鳴館遺稿」「嚶鳴館詩集」「詩経古伝」など。享保一三~享和元年(一七二八‐一八〇一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「細井平洲」の意味・わかりやすい解説

細井平洲
ほそいへいしゅう
(1728―1801)

江戸後期の折衷(せっちゅう)学派の儒者。尾張(おわり)(愛知県)の農民の子として生まれる。名は徳民、字(あざな)は世馨(せいこう)。通称甚三郎、別名を如来山人といった。名古屋の折衷学派の実学者中西淡淵(なかにしたんえん)(1709―1752)に師事、師の没後その門弟を指導。1745年(延享2)長崎に遊び、唐人から華音を学んだ。1759年(宝暦9)江戸に私塾嚶鳴館(おうめいかん)を開いた。著書に『詩経古伝』(1759)『嚶鳴館詩集』(1764)、遺著に『つらつらふみ』(1802)『嚶鳴館遺稿』(1809)『嚶鳴館遺草』(1835)『平洲先生感懐詩』がある。平洲は諸藩の経世の実践者として優れ、また教育的感化力に富んだ。西条藩世子のちの徳川治貞(とくがわはるさだ)(1728―1789)、米沢(よねざわ)藩藩主上杉治憲(うえすぎはるのり)の賓師(ひんし)として有名。『嚶鳴館遺草』は彼の教育的実践を基礎として書かれたもので教育論として優れている。晩年には尾張藩の明倫堂総裁となり、藩の行政と教育に参画した。

[源 了圓 2016年7月19日]

『『平洲全集』(1921・隆文館)』

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朝日日本歴史人物事典 「細井平洲」の解説

細井平洲

没年:享和1.6.29(1801.8.8)
生年:享保13.6.28(1728.8.3)
江戸中期の折衷学派の儒者。名は徳民,字は世馨,通称甚三郎,平洲は号。如来山人とも号した。豪農細井正長の次男として尾張国知多郡平島村(愛知県一宮市)に生まれる。延享1(1744)年,中西淡淵の学徳を慕って入塾,その後長崎に遊学して唐音を学ぶ。24歳,江戸に出て私塾嚶鳴館を開く。平洲の両国橋での辻講釈を米沢藩士藁科松柏 が聞き深く感銘を受け,これが機縁となって米沢藩主上杉鷹山の賓師となり(37歳),米沢藩の文教に与り藩校興譲館の創設(1776)に尽力した。53歳尾張徳川家の侍講に招聘され,間もなく藩校明倫堂の学館総裁を命じられ,継述館(史館)の総裁も兼務。庶民教育にも熱心で,郡村における巡回講話は平易で人の心を捉え,岐阜では5日間で総計5万人の聴衆があったという。鷹山は彼から「学問と今日と二途にならざるよう」にと日ごろ教誡されたという。<参考文献>鬼頭有一『中西淡淵 細井平洲』(叢書日本の思想21巻)

(小島康敬)

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百科事典マイペディア 「細井平洲」の意味・わかりやすい解説

細井平洲【ほそいへいしゅう】

江戸中期の儒学(折衷(せっちゅう)学)者。名は徳民,字は世馨(せいけい),尾張(おわり)の人。中西淡淵(たんえん)に学ぶ。経世実用の学により出羽(でわ)米沢藩主上杉治憲(はるのり)(鷹山)に招かれ,藩校興譲館を創立。のち尾張名古屋藩の侍講,藩校明倫(めいりん)堂の督学となった。また名古屋藩内各地で講学し,温雅荘重,教化の実をあげた。著書《嚶鳴館(おうめいかん)詩集》《嚶鳴館遺草》《嚶鳴館遺稿》など。
→関連項目林述斎

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改訂新版 世界大百科事典 「細井平洲」の意味・わかりやすい解説

細井平洲 (ほそいへいしゅう)
生没年:1728-1801(享保13-享和1)

江戸中期の儒者。折衷学派。名は徳民,字は世馨,通称は甚三郎。平洲のほか如来山人とも号した。尾張の農家の生れで,中西淡淵に学び,江戸に塾を開く。米沢藩の上杉治憲(鷹山)に推挙されて藩校の設立や藩政改革に参与し,1780年(安永9)には尾張藩主の侍読,ついで藩校明倫堂督学となる。禄400石。庶民教化にも努めた。著作に《嚶鳴館(おうめいかん)遺草》《嚶鳴館遺稿》《詩経古伝》などがある。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「細井平洲」の解説

細井平洲 ほそい-へいしゅう

1728-1801 江戸時代中期-後期の儒者。
享保(きょうほう)13年6月28日生まれ。尾張(おわり)(愛知県)の豪農の次男。中西淡淵(たんえん)にまなび,江戸に嚶鳴(おうめい)館をひらく。明和元年出羽(でわ)米沢藩(山形県)の世子(せいし)上杉鷹山(ようざん)の師となり,藩政改革,藩校興譲館の創設にかかわる。安永9年名古屋藩の侍講,天明3年藩校明倫堂総裁。農村をまわって講話をおこない,庶民教育にもつくす。享和元年6月29日死去。74歳。名は徳民。字(あざな)は世馨。通称は甚三郎。別号に如来山人。著作に「詩経古伝」「嚶鳴館詩集」など。
【格言など】直(すぐ)なる木をたてて正しき影を求めんとすれども,日月の光なくしては影はささぬものなり(「嚶鳴館遺草」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「細井平洲」の意味・わかりやすい解説

細井平洲
ほそいへいしゅう

[生]享保13(1728).6.28. 尾張,平島
[没]享和1(1801).6.29.
江戸時代中期の儒学者。本姓は紀。名は徳民,字は世馨,小字は外衛。通称は甚三郎。平洲または如来山人と号した。名古屋で折衷学者中西淡淵に学び,18歳で長崎に出,唐人に接して見聞を広めたが,母の病死にあって帰郷。翌年江戸に出て塾を開き,経世実用の学を教えた。 44歳で米沢藩主上杉治憲に聘せられ,興譲館創設にたずさわり,のち尾張藩主徳川宗睦の侍講ともなり,明倫堂総裁を兼ねた。自然を尊重し,それに基づく教育を主張し,習いを重んじた。著書『詩経古伝』 (10巻) ,死後門人が編んだ『嚶鳴館詩集』と『嚶鳴館遺草』 (1835) ,『平洲小語』『遊松島記』『つらつらふみ』『塵芥録』などもある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「細井平洲」の解説

細井平洲
ほそいへいしゅう

1728〜1801
江戸中・後期の折衷学派の儒学者
尾張(愛知県)の豪農に生まれ,京都・長崎に遊学し,江戸に塾を開いた。出羽(山形県)米沢藩主上杉治憲 (はるのり) (鷹山)に招かれ,藩校興譲館の設立と藩政改革に協力。のち尾張藩に招かれ藩校明倫堂の督学となった。

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367日誕生日大事典 「細井平洲」の解説

細井平洲 (ほそいへいしゅう)

生年月日:1728年6月28日
江戸時代中期;後期の尾張藩儒
1801年没

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世界大百科事典(旧版)内の細井平洲の言及

【東海[市]】より

…洋ラン栽培にも力を入れ〈鉄とランのまち〉で活性化が進められている。江戸時代中期の儒者細井平洲の出生地としても知られる。名鉄常滑線・河和線,国道247号線が通じる。…

※「細井平洲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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