継体天皇(読み)けいたいてんのう

精選版 日本国語大辞典 「継体天皇」の意味・読み・例文・類語

けいたい‐てんのう ‥テンワウ【継体天皇】

第二六代天皇。応神天皇の五世の孫彦主人王(ひこうしのおおきみ)の子。母は振媛(ふるひめ)。名は男大迹尊(おほどのみこと)、彦太尊(ひこふとのみこと)。五〇七年、大伴金村らに迎えられて河内で即位。のち山城の筒城(つつき)、さらに大和磐余(いわれ)の玉穂宮(たまほのみや)に皇居を移す。(四五〇‐五三一

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デジタル大辞泉 「継体天皇」の意味・読み・例文・類語

けいたい‐てんのう〔‐テンワウ〕【継体天皇】

[?~531?]記紀で、第26代天皇。名は男大迹おおど武烈天皇没後嗣子がなく、大伴金村・物部麁鹿火あらかびらに越前から迎えられて河内かわちで即位したと伝えられる。

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改訂新版 世界大百科事典 「継体天皇」の意味・わかりやすい解説

継体天皇 (けいたいてんのう)

6世紀初めころの第26代に数えられる天皇。名はヲホドで,《古事記》に袁本杼命,《日本書紀》に男大迹王,《上宮記》の逸文に乎富等大公王などと書かれているが,隅田(すだ)八幡人物画像鏡の銘文にみえる男弟王を天皇の名に当てることには,音韻の上で難がある。上の諸書によれば,天皇は応神天皇5世の孫で父は彦大人(ひこうし)王,母は父の異母妹で垂仁天皇7世の孫に当たる振媛(ふりひめ)。近江の高島にいた父が越前の三国にいた母を召し納れて天皇を生んだが,父が早く死んだため,母は天皇を伴って越前の生家に帰った。その後,《日本書紀》によれば天皇57歳のとき,武烈天皇が死んで後継者がなかったので,大連の大伴金村が主唱して天皇を越前から迎えて皇位に即け,仁賢天皇の女の手白香(たしらか)皇女を皇后とした。そこで天皇は河媛内の樟葉(くすは)宮から山背の筒城(つつき)宮,同じく山背の弟国宮などを経て,20年後に初めて大和に入って磐余(いわれ)の玉穂宮に都したという。天皇の治世は朝廷は終始朝鮮対策に追われ,任那4県の割譲,北九州の筑紫国造磐井の乱などもあって,朝鮮の形勢はますます非となっていったが,天皇は531年ころに世を去り,摂津の三嶋の藍野陵に葬られた。記紀では天皇の死後,天皇の即位以前の子である安閑,宣化両天皇が順次即位し,そのあとに手白香皇后が生んだ欽明天皇が即位したことになっているが,実は天皇の死後直ちに欽明天皇も一方で即位し,宣化天皇の死までの約8年間は両朝分立の状態だったとする見方が今日では有力となっており,その場合には天皇の死はなんらかの重大な事変によるものだったとする推測説もある。また天皇の即位については,天皇が応神天皇の5世の孫という遠い皇親であること,大和に入るまで長年月を要していることなど,きわめて異例の点が多いので,天皇が別系から出て実力によって旧権力を倒し,新王朝を開いたとする王朝交替説も一部に出されている。
王朝交替論 →継体・欽明朝の内乱
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「継体天皇」の意味・わかりやすい解説

継体天皇
けいたいてんのう
(?―531)

記紀に第26代と伝える天皇。没年は527年、534年の説もある。応神(おうじん)(誉田(こんだ))天皇の5世孫とされ、名は男大迹(おおど)(『古事記』では袁本杼命(おおどのみこと))、またの名を彦太尊(ひこふとのみこと)という。6世紀初頭に越前(えちぜん)(福井県)あるいは近江(おうみ)国(滋賀県)から大和(やまと)(奈良県)の磐余宮(いわれのみや)に入って新しい王統(王朝)を築いた天皇として有名。『日本書紀』によれば、武烈(ぶれつ)(小泊瀬(おはつせ))天皇に継嗣(あとつぎ)がなかったので、大伴金村大連(おおとものかなむらのおおむらじ)が中心となって越前の三国(みくに)(福井県坂井(さかい)市。『古事記』では近淡海国(ちかつおうみのくに))から迎え入れたとある。この天皇の出自については、遠く越前から入ってきたこと、大和に入るまで20年を経ていること、応神5世孫とされているがその間の系譜が明示されていないことから、地方の一豪族で、武烈亡きあとの大和王権の混乱に乗じて皇位を簒奪(さんだつ)した新王朝の始祖とする見解が有力である。

 しかし、記紀編纂(へんさん)よりも古くさかのぼる『上宮記(じょうぐうき)』には、天皇の父系・母系の詳細な系譜が明示されていること、仁賢(にんけん)天皇の女(むすめ)手白香(たしらか)皇女を皇后としていること、継体を受け入れた大和王権自体はなんら機構的にも政策的にも質的転換をみせていないことから、継体を大和王権内部に位置した王族と考える見解もある。

[小林敏男]

『黛弘道著「継体天皇の系譜について」(『論集日本歴史1 大和政権』所収・1973・有精堂出版)』

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朝日日本歴史人物事典 「継体天皇」の解説

継体天皇

生年:生没年不詳
6世紀前半の第26代に数えられる天皇(大王)。諱は男大迹。応神天皇の5世孫という。『日本書紀』によれば,彦主人王が近江国高嶋郡の三尾(滋賀県高島町)の別宅に越前国三国の坂中井(福井県三国町)から振姫を迎えて継体天皇が誕生。彦主人王の死後,振姫は郷里に帰り継体天皇を養育した。武烈天皇の死去でその王統が絶えたため,大伴金村らによって継体天皇が越前から迎え入れられ,樟葉宮(枚方市)で即位し,仁賢天皇皇女の手白香皇女を皇后とした。しかし,筒城宮(京都府綴喜郡),弟国宮(向日市)と移り,即位後20年にしてようやく大和の磐余玉穂宮(桜井市)に入ったという。その即位事情は極めて異常で,実は,前王統とは血縁関係がなく,その人格,資質により大王となったと考えられる。継体天皇の后妃となった氏族(息長,三尾,茨田,尾張の各氏など),および継体天皇と擬制的血縁関係を持つ氏族は,近江国諸郡と越前国を中心に美濃(岐阜県),尾張(愛知県),河内国(大阪府)に広がる地域の諸首長であり,琵琶湖,淀川の水上交通により結び付いたこれらの首長たちが天皇を支えていたとみられる。 即位後の継体天皇はふたつの大きな課題に直面した。ひとつは新羅,百済に侵攻される伽耶諸国をめぐる国際情勢への対応で,基本的には百済と結び,近江毛野の派遣など軍事的援助などさまざまな介入を行った。もうひとつは磐井の乱(527)に象徴されるように,強い政治権力の形成をめざす地方首長の台頭によって引き起こされる秩序の動揺への対応であった。この動揺は克服されず,継体天皇の死後,「辛亥の変」(王権争い)を生じさせることとなった。没年は『日本書紀』によれば,継体21(531)年,すなわち辛亥の変の年。陵墓は茨木市の太田茶臼山古墳に比定されるが,時代的に合わず,高槻市の今城塚古墳が有力視される。<参考文献>林屋辰三郎『古代国家の解体』,岡田精司「継体天皇の出自とその背景」(『日本史研究』128号),平野卓治「ヤマト王権と近江・越前」(新版『古代の日本』5巻)

(平野卓治)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「継体天皇」の意味・わかりやすい解説

継体天皇
けいたいてんのう

第26代に数えられる天皇。名はオオドノミコト。応神天皇の 5世の孫。父は彦主人王(ひこうしのおう)。母はフルヒメノミコト。大伴金村らに越前国から迎えられて河内国で即位した。河内国の樟葉宮,山背国(山城国)の筒城宮,山背国の弟国宮と移り,さらに大和国の磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)に都した。この継体朝の頃から国際関係が変化し,朝鮮半島における日本の勢力が任那 4県の割譲などによって衰えてきた。また仏教渡来人によって伝えられ普及し始めた。筑紫国造(→国造)による磐井の乱もこの継体朝で起こり,大和朝廷の支配が内外ともに大きく動揺した。継体天皇ののち,安閑朝,欽明朝が並立したとする説もある。陵墓は大阪府茨木市の三嶋藍野陵(みしまのあいのみささぎ)。

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百科事典マイペディア 「継体天皇」の意味・わかりやすい解説

継体天皇【けいたいてんのう】

6世紀前半の天皇。名はヲホド。応神天皇5世の孫。武烈天皇が死んで後継者がなかったため,北陸地方から大和(やまと)に入って皇位を継いだという。このころ朝鮮半島における日本の勢力は衰え,筑紫(つくし)では磐井(いわい)の乱が起こった。
→関連項目磐余息長忍坂越国

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「継体天皇」の解説

継体天皇
けいたいてんのう

記紀系譜上の第26代天皇。6世紀初頭の在位という。男大迹(おおど)天皇・彦太(ひこふと)尊と称する。「古事記」「日本書紀」は応神天皇5世孫と伝え,父を彦主人(ひこうし)王,母を垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)とする。近江国高島郡に生まれ,父の死後は,母の故郷である三国(現,福井県坂井市三国町)で育ったが,武烈天皇の死後,後継者として擁立され即位したと伝える。在任中,朝鮮半島南西部のいわゆる任那(みまな)4県についての百済(くだら)の支配を承認する問題が生じ,また筑紫では新羅(しらぎ)と結んで大和政権に反抗した磐井(いわい)の反乱がおこった。死亡年に異説があることから,天皇の死後,安閑・宣化両天皇と欽明天皇との異母兄弟間に対立がおこり,2王朝の並立または内乱の可能性を主張する説もある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「継体天皇」の解説

継体天皇 けいたいてんのう

?-531 記・紀系譜による第26代天皇。在位507-531。
父は彦主人(ひこうしの)王。母は振媛(ふるひめ)。「日本書紀」によると,応神天皇の5世の孫。武烈天皇に子がなく,その死後越前(えちぜん)三国から大伴金村らにむかえられて即位するが,大和入りにその後20年かかった。筑紫(つくし)の磐井(いわい)の乱をおさめ,朝鮮の新羅(しらぎ),百済(くだら)などの争いに,近江毛野(おうみの-けの)を派遣した。継体天皇25年2月7日死去。82歳。28年没説もある。墓所は三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ)(大阪府茨木市)。別名は男大迹天皇(おおどのすめらみこと),彦太尊(ひこふとのみこと)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「継体天皇」の解説

継体天皇
けいたいてんのう

450〜531ごろ
5〜6世紀の天皇(在位507〜531)
応神天皇5世の孫。武烈天皇の没後越前(福井県)から大伴金村らに擁立されて即位。在位中に大伴金村が任那 (みまな) 4県を百済 (くだら) に割譲した事件や筑紫国造磐井の乱があった。

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世界大百科事典(旧版)内の継体天皇の言及

【王朝交替論】より

…さらに〈継体新王朝論〉がある。これは継体天皇が越前あるいは近江から迎えられたのは,近江の息長(おきなが)氏に代表される北方勢力が,武烈天皇で断絶した〈応神王朝〉のあとをうけて,大和の王朝を簒奪したとみる説で,継体を応神5世孫としたのは,その正統性を作為したにすぎないとするものである。この説は,林屋辰三郎などによって唱えられ,ことに継体の死後,安閑・宣化という,いわば〈畿外勢力〉と,欽明に代表される〈畿内勢力〉の対立抗争があり,2王朝が一時併存したとする主張によって裏づけられた。…

【大伴金村】より

…仁賢天皇の死後,大臣の平群(へぐり)氏を滅ぼして武烈を即位させたとされるが,《古事記》では平群氏はこれより前,清寧天皇の死後,意祁(仁賢)・袁祁(顕宗)両皇子によって討たれたことになっている。武烈の死後,金村は群臣とはかり,応神天皇5世の孫の男大迹(おほど)王を越前から迎えて継体天皇とした。5世紀初めの継体朝には,朝鮮南部の任那(加羅)諸国への百済,新羅の進出をめぐって外交が複雑な動きを示し,金村は百済の要請に応じて任那4県――上哆唎(おこしたり),下哆唎(あるしたり),娑陀(さた),牟婁(むろ)の百済による領有を承認した。…

【息長氏】より

…《古事記》などの系譜・伝承の中において,息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)や息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)(応神天皇妃)など息長の氏名を冠する皇妃を輩出し,大王家との姻戚関係を伝える。また近江・越前を基盤として大王位についた継体天皇の擁立にあずかったとする説が有力であり,このころから中央氏族としても進出していった。舒明天皇の和風諡号(しごう)も息長足日広額天皇であり,642年その喪のときに息長山田公が日嗣(ひつぎ)の誄(しのびごと)を奉った。…

【億計天皇・弘計天皇】より

…《万葉集》巻三には来目(久米)氏の伝えた流離譚らしい,来目稚子を歌った作がある。雄略の血統を伝える仁賢天皇の娘の手白髪郎女が,継体天皇の皇后であったとなっていることを参考にすると,この2王の話は,6世紀の継体の新皇統と,5世紀の履中系,雄略系の皇統とを結ぶために,来目稚子の伝承を基として作為された公算が強く,2王の実在もまた疑問である。【吉井 巌】。…

【継体・欽明朝の内乱】より

…6世紀前半の継体朝末年に皇位継承をめぐって勃発したと想定されている内乱。《日本書紀》では継体天皇の死をその25年辛亥(531)のこととし,安閑天皇1年(534)までの2年間は空位とされる。一方,仏教公伝を《日本書紀》が壬申年(552)とするのに対し戊午年(538)として伝える《上宮聖徳法王帝説》や《元興寺縁起》によれば,欽明天皇の即位は辛亥年となって先の継体没年とつながり,その間に安閑・宣化2天皇の治世をいれる余地がない。…

【出稼ぎ】より

…とりわけ山石屋は,木地屋などと同様に漂泊的性格が強く,職業始祖神(職業神)にまつわる特許状をもつ場合がある。たとえば福井県の笏谷石(しやくだにいし)産地の山石屋たちは,継体(けいたい)天皇を石山開発の祖とし,天皇から石材採掘免許状を賜ったと伝え,笏谷石の採掘権は明治維新まで彼らが独占したという。 大工,とりわけ親方大工の下で使役される下級大工には出稼ぎ大工が多かった。…

【誉津別命】より

…ホムツワケはここで6世紀の新皇統の始祖と記述されている。26代の継体天皇が15代応神天皇の血統に結ばれる前に,ホムツワケは継体皇統の始祖として存在し,その始祖伝承の残像がこの物語だったのである。【吉井 巌】。…

※「継体天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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