総裁政府(読み)そうさいせいふ(英語表記)Directoire フランス語

精選版 日本国語大辞典 「総裁政府」の意味・読み・例文・類語

そうさい‐せいふ【総裁政府】

フランス革命期、共和国第三年の憲法によって成立し、翌一七九五年に発足した政府財政破綻(はたん)に苦しみ、九九年、ナポレオンクーデターによって打倒され、執政(統領)政府と交代した。都督政府。

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デジタル大辞泉 「総裁政府」の意味・読み・例文・類語

そうさい‐せいふ【総裁政府】

フランス革命末期のブルジョア共和政府。1795年、共和暦第3年憲法によって成立。行政を担当する5人の総裁と、立法府としての二院制議会によって構成された。1799年、ナポレオンブリュメール18日クーデターによって崩壊。執政政府。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「総裁政府」の意味・わかりやすい解説

総裁政府
そうさいせいふ
Directoire フランス語

1795年10月27日から99年11月7日まで存続したフランスの政府。ロベスピエール没落後の国民公会により準備された。95年8月「共和暦三年の憲法」が制定され、ブルジョア共和主義の眼目の下に、制限選挙により選ばれる五百人会(議案提出権をもつ衆議院)と元老院(議案採択権をもつ上院)の二院が構成され、行政府には5人の総裁が指名される。5人の総裁は大臣として、各自が独自の権能をもつとされた。この新憲法に基づき、最初の総裁にはバラスカルノー、ルーベル、ルトゥルヌール、ラ・レベイエール・レポーが選ばれた。総裁政府は成立早々、左翼の山岳派ジャコバン派右翼王党派から挟撃された。おりしもインフレーションが最悪の状態を告げ、アッシニャ紙幣の暴落とともに、物価が暴騰した。一部の実業家や投機師や金融家の繁栄、驕奢(きょうしゃ)をよそに、多くの市民が苦窮を訴え、社会情勢が険悪化した。革命末期の統制こそ解除されたが、革命戦争はなお継続中とあって、物資が相対的に不足し、生活の危機が最初から政府の土台を揺さぶった。バブーフの平等主義的反乱の陰謀は未然に防がれたが、右翼の王党派が財界の支持を受けて、年ごとに勢威を強め、97年4月にはバルテルミーのような札付きの復古王政派を総裁に選出した。バルテルミーは97年9月4日のフリュクティドールの政変により逮捕されて失脚した。が、総裁政府の無策と無力感は依然回復されず、政権はいずれ超党的な覇者の手にゆだねられかねない宿命を暗示した。97年にオーストリア軍を屈服させ、独力でカンポ・フォルミオ条約を結んだ凱旋(がいせん)将軍ナポレオンは、まさにフランス国民の希望の星の観があった。その分、彼は総裁政府から警戒されて、翌98年エジプト遠征へと飛び立つ。しかも彼の不在中にヨーロッパ諸国がふたたび結集し、フランス軍は彼らの攻勢の前にドイツ、イタリア、スイス戦線で後退を余儀なくされた。国内では右翼の追放後、ジャコバン派が息を吹き返し、バラスのほかゴイエ、デュコス、ムーランら旧革命戦士が総裁政府の大臣に就任した。このときナポレオンがエジプトから突然帰国した(99年10月)。彼を迎えて、政局はにわかに緊張し、政界の老練シエイエスやタレーランはナポレオンを中心に新体制の樹立を構想する。ナポレオンは99年11月「ブリュメールのクーデター」を敢行し、議会から反対派を駆逐、総裁政府の命脈を絶ったのである。

[金澤 誠]

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百科事典マイペディア 「総裁政府」の意味・わかりやすい解説

総裁政府【そうさいせいふ】

フランス革命の最終段階の政権。1795年,国民公会が制定した〈1795年憲法〉により成立。普通選挙制を廃し,5人の総裁と元老会・五百人会の二院制議会を中心にブルジョア的安定を図ったが,王党派と山岳派の均衡を保てず次第に軍部の発言権が増大し,1799年ナポレオンのブリュメール18日のクーデタで崩壊。
→関連項目エジプト遠征シエイエス執政政府ナポレオン[1世]バブーフ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「総裁政府」の意味・わかりやすい解説

総裁政府
そうさいせいふ
Directoire

フランスにおいて 1795年10月26日の国民公会の解散から 1799年11月9日にいたるまで存在した 5人の総裁からなる政府。政体は 1795年に成立した共和暦第三年憲法を規範とし,普通選挙の廃止,五百人会元老会からなる二院制議会(→両院制)の設立などによって,民主的共和政と革命政府に代わるブルジョアジーの寡頭支配を行なった。これに対抗して,1796年フランソア=ノエル・バブーフの陰謀が計画されたが鎮圧され,王党派の勢力拡大に伴う脅威も 1797年9月4日フリュクティドール(実月)18日のクーデターで事なきを得たが政権はきわめて不安定であった。こうした状況のなかで,ブルジョアジーと農民は自己の強力な防衛者として,軍隊とその指導者ナポレオン・ボナパルト(→ナポレオン1世)にすべてをゆだねるようになった。エジプト遠征中のナポレオンは情勢を察してパリに戻り,1799年11月ブリュメール十八日を断行して総裁政府を打倒した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「総裁政府」の解説

総裁政府(そうさいせいふ)
Directoire

執政政府とも訳される。フランス共和暦第3年憲法(95年憲法)により成立した共和政の政治体制。1795年10年27日から99年11月9日(ブリュメール18日)まで続いた。5人の総裁と元老会,五百人会の2院制議会を中心に革命後社会のブルジョワ的安定を目標にしたが,王党派とジャコバン派の間に均衡を保ちえず,特にフリュクティドール18日のクーデタ(97年9月4日)以後,軍部の発言権を増大させた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「総裁政府」の解説

総裁政府
そうさいせいふ
Directoire

フランス革命末期の1795年10月27日,国民公会の解散後成立したブルジョワ共和政府
1795年の革命暦第3年憲法(5人の総裁に行政権,制限選挙による二院制議会に立法権を与えた)により成立。独持の均衡政策をとってブルジョワ的安定と自由主義経済の確立につとめたが,バブーフの陰謀,王党派の反乱,インフレーションなどに苦しみ,政権は弱体で社会不安を克服できず,1799年ナポレオン1世のブリュメール18日のクーデタで崩壊した。

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世界大百科事典(旧版)内の総裁政府の言及

【フランス革命】より

…経済統制は直ちに廃止され,国民公会の左翼議員は追放され,ジャコバン・クラブは閉鎖され,復活した右翼によって報復的な〈白色テロル〉が荒れ狂った。95年8月に制定された新憲法では,普通選挙制も廃止されて,二院制の議会と5人の総裁から成る総裁政府が樹立された。しかし,この総裁政府は左右両翼からの脅威にさらされていた。…

【ブリュメール18日】より

…1799年11月9日,フランスでナポレオン・ボナパルトが総裁政府を倒して権力を掌握したクーデタをいう。その日が,当時行われていた共和暦では共和第8年ブリュメール18日に当たるので,この名がある。…

※「総裁政府」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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