織田信長(読み)おだのぶなが

精選版 日本国語大辞典 「織田信長」の意味・読み・例文・類語

おだ‐のぶなが【織田信長】

戦国大名。幼名吉法師または三郎。信秀の子。美濃の斎藤道三(どうさん)の娘と結婚。永祿三年(一五六〇今川義元を桶狭間(おけはざま)に破り、斎藤氏をも滅ぼして勢力を拡張。足利義昭を立てて上洛し室町幕府を再興させる。のち義昭を退け、安土城を築いて国内の征討にあたる一方、関所を廃し、楽市、楽座を行なうなど統一政権樹立の基礎を固めたが、雄図半ば、京都本能寺で明智光秀に襲われ自刃。天文三~天正一〇年(一五三四‐八二

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デジタル大辞泉 「織田信長」の意味・読み・例文・類語

おだ‐のぶなが【織田信長】

[1534~1582]戦国・安土桃山時代の武将。信秀の子。桶狭間おけはざま今川義元を討って尾張一国を統一。のち、京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭あしかがよしあきを追放、武田勝頼を三河の長篠ながしのに破ったのち、安土に築城。中国出陣の途中、京都本能寺明智光秀の謀反にあって自殺。

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百科事典マイペディア 「織田信長」の意味・わかりやすい解説

織田信長【おだのぶなが】

戦国・安土時代の武将。織田信秀の子。幼名は吉法師。1551年家督を継ぐ。1560年桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元を倒し,1562年三河(みかわ)の松平元康徳川家康)と同盟,天下統一への手始めとして1567年美濃(みの)の斎藤氏を滅ぼし稲葉山城岐阜城と改め,翌年足利義昭を擁して入京。しかし義昭との不和から1573年彼を追放。一方,姉川の戦で浅井・朝倉両氏を破り(1570年),延暦寺を焼き打ち(1571年),長島の一向一揆(いっき)や興福寺を討ち,1575年長篠(ながしの)の戦で武田軍を破った。1576年安土城を築いて安土桃山文化の基礎を固めキリシタン文化をも摂取,統一政権樹立を進めたが,功業半ばにして明智光秀のため本能寺で自刃(じじん)。楽市楽座の設置や関所の撤廃,検地などの新政策は豊臣秀吉に継承された。→本能寺の変
→関連項目芥川城浅井氏浅井長政朝倉始末記朝倉義景朝妻足利義栄足軽安土宗論安土桃山時代穴山梅雪荒木村重飯盛城伊賀惣国一揆石山合戦石山本願寺一向一揆今井宇治橋恵林寺延暦寺焼討織田氏織田有楽斎小谷城織田信雄織田信忠快川紹喜加賀一向一揆家臣団狩野永徳加納市カブラル亀山神崎観音寺城清洲会議清洲城久多荘国友鉄砲鍛冶検地近衛前久雑賀雑賀一揆雑賀孫市堺奉行斯波氏朱印状荘園(日本)織豊政権信長公記建勲神社多気城武田氏田辺田丸千草街道天王寺鳥羽藩長島一揆名越善正西村道仁日本日本史根来衆百済寺府中保内商人前田玄以松代藩松永久秀曲直瀬道三厩橋美濃三人衆宮津三好三人衆室町幕府森蘭丸六角氏六角義賢

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「織田信長」の意味・わかりやすい解説

織田信長
おだのぶなが
(1534―1582)

戦国・安土桃山(あづちももやま)時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。

[脇田 修]

家系

織田氏は近江(おうみ)津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波(しば)氏に仕え、越前(えちぜん)(福井県)織田荘(おだのしょう)を根拠とし織田劔神社(つるぎじんじゃ)を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る。のち上・下尾張に織田氏も分かれるが、信長の家は下四郡守護代家の家老であった。信長の父信秀(のぶひで)が勢力を伸ばし、勝幡(しょばた)・那古野(なごや)を中心に尾張南部などを支配する。信長は信秀の三男。幼名は吉法師(きちほうし)。1546年(天文15)元服して三郎信長。翌年三河へ初陣、ついで美濃(みの)斎藤道三(さいとうどうさん)の娘と結婚、1551年信秀の死とともに家督を嗣(つ)いだ。初め藤原氏を称したが、室町幕府が源氏であるため、源平交替思想から、のち平氏を称す。上総守(かずさのかみ)、上総介(かずさのすけ)と署名するが、入洛(にゅうらく)を前に弾正忠(だんじょうのちゅう)と中央官職に変える。若いころの行状は奔放で異様な風体を好み「うつけ」と評された。老臣平手政秀(ひらてまさひで)が諫死(かんし)する事件もあり、信長は、政秀寺(せいしゅうじ)を建立して菩提(ぼだい)を弔っている。舅(しゅうと)道三との対面に正式の服装をして人々を驚かせる。家紋は窠(か)(木瓜(もっこう))、将軍足利義昭(あしかがよしあき)より桐(きり)の紋を許される。旗差物(はたさしもの)は永楽通宝(えいらくつうほう)。馬印(うまじるし)は南蛮笠(なんばんがさ)。朱印は「天下布武(てんかふぶ)」などを用いる。

[脇田 修]

戦闘

信長の生涯は戦闘に明け暮れたが、まず、1555年(弘治1)清洲城(きよすじょう)織田信友を討ってここを居城とし、1557年弟信行らの反乱を抑え、1559年(永禄2)岩倉城主織田信賢(のぶかた)を追放して尾張を統一した。翌1560年桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(いまがわよしもと)を倒して武名をあげ、ついで徳川家康と同盟した。のち、小牧山を居城として美濃(岐阜県)攻めに力を入れ、1567年稲葉山井ノ口城攻略、斎藤龍興(さいとうたつおき)を追放、これを岐阜と改め居城とする。尾張、美濃をあわせた信長は、1568年9月足利義昭を奉じて上洛の途につき、これを阻もうとする近江(おうみ)六角義賢(ろっかくよしかた)を追い、入洛、畿内(きない)を鎮定。義昭は将軍となり、信長は天下の実権を握るが、戦国群雄、本願寺との戦いが激化する。翌年、信長は北伊勢(きたいせ)北畠(きたばたけ)氏を屈伏させ、二男信雄(のぶかつ)を養子に入れ、1570年(元亀1)北近江浅井、越前(えちぜん)朝倉と姉川(あねがわ)に戦い、摂津で三好三人衆(みよしさんにんしゅう)を迎え撃ち、石山本願寺との合戦も起こる。1571年比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を焼討ち。このころ、先に不和となっていた将軍義昭との対立が激しくなり、1573年義昭を追放、室町幕府を滅亡させた。ついで朝倉・浅井両氏をも滅ぼした。1575年(天正3)甲斐(かい)武田勝頼(たけだかつより)と長篠合戦(ながしのかっせん)があり鉄炮隊(てっぽうたい)の威力で撃破。畿内では松永久秀、荒木村重の離反を押さえ、もっとも頑強であった石山本願寺との対決は、伊勢長島、越前、雑賀(さいか)と一揆(いっき)の拠点をつぶしたのち、1580年本願寺と和睦(わぼく)、石山から退城させた。これにより畿内は平定され、信長は、摂河泉和(兵庫県、大阪府、奈良県一帯)で城破りを行う。その間にも明智光秀(あけちみつひで)の丹波(たんば)・丹後(たんご)(兵庫県、京都府一帯)平定、柴田勝家(しばたかついえ)による加賀平定、羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))の中国毛利(もうり)攻めが進み、ついに1582年には宿敵武田氏を滅ぼす。信長の晩年には、東は甲斐(山梨県)、信濃(しなの)(長野県)、北は越中(えっちゅう)(富山県)、能登(のと)(石川県)、西は伯耆(ほうき)(鳥取県)、備中(びっちゅう)(岡山県)と、ほぼ本州の中央部を征服し、中国毛利氏との決戦を前に天正(てんしょう)10年6月2日未明、家臣明智光秀の謀反により京都本能寺(四条西洞院(にしのとういん))で倒れた(長男信忠(のぶただ)も、このとき二条御所にあって自刃)。紫野(むらさきの)大徳寺(北区)総見院に葬る。法号総見院泰巌安公。信長父子の骨灰を集めて葬ったという墓が阿弥陀寺(あみだじ)(上京(かみぎょう)区)にもあり、本能寺(中京(なかぎょう)区、変後移転)には信長本廟(ほんびょう)がある。

[脇田 修]

武家権力

信長の直属分国は尾張、美濃、近江(滋賀県)で、家督を信忠に譲ったとき、尾張、美濃も渡している。中央権力としては、入洛直後は室町幕府が再建され、畿内では幕府関係者が守護となったように、信長の正規の権限はあまりなく、実力支配体制をとった。義昭と不和になり、数年の暗闘ののち、幕府を滅亡させた。その後、信長は将軍権力を継承し、名実ともに天下を握り、京都所司代(しょしだい)に村井貞勝(むらいさだかつ)を任命、守護などの地域支配権を掌握し、摂津に荒木、山城(やましろ)・大和(やまと)に原田直政(はらだなおまさ)らを任命した。ついで柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益(たきがわかずます)らの武将が各地に封じられ、それが織田家の支配圏をゆだねられるとともに、軍団を率いた。家臣団組織は、おとな・宿老に先の有力武将がなり、奉行(ぶぎょう)が安土などの都市と、軍事・行政単位に置かれた。軍事力は親衛隊として馬廻(うままわり)の士、弓・槍(やり)・鉄炮の組が存在した。とくに鉄炮隊は優れていた。軍事動員は相対(あいたい)契約で決めた人数を率いて家臣が参陣した。また、当面の司令官たる武将の直属軍事力に、与力(よりき)として他の武将の軍事力を組み合わせて軍団を構成した。

[脇田 修]

朝廷・寺社との関係

信長は初め朝廷の官職を辞退したが、1575年(天正3)従三位(じゅさんみ)権大納言(ごんだいなごん)兼右近衛大将(うこんえだいしょう)となり、家督を信忠に譲り、その後、天下人として行動、安土城にいる。内大臣次いで1577年に従二位右大臣となるが、やがて辞官、最後まで辞退した。これは、天下平定ののち顕職につくとの理由であり、朝廷との関係では正親町天皇(おおぎまちてんのう)の東宮誠仁親王(さねひとしんのう)を猶子(ゆうし)(相続を目的としない養子)とし馬揃(うまぞろ)えを天皇にみせ、安土城(1576年着工、1579年完成)に行幸の間をつくるなどした。公家(くげ)・寺社とは、反抗した延暦寺などを焼討ちはしたものの、一般には、有力な寺社・公家が現に知行(ちぎょう)している土地や座の権益は安堵(あんど)し、徳政を行って知行の回復を図り、新地を進めるなど、一定の保護を行った。

[脇田 修]

経済政策

土地政策では指出(さしだし)・検地(けんち)を行い土地把握に努めた。伊勢、尾張、美濃は貫高制、畿内近国は「石(こく)」高(だか)制であり、統一されていなかった。しかし、一国単位で土地の高表示を一元化し、その年貢収量を把握して、知行の基礎を固め、年貢負担責任者としての百姓を確定したことは注目しうる。これを秀吉の太閤検地(たいこうけんち)に比べると、「石」高も稗(ひえ)などを含んでいて米に統一されていないこと、高は年貢高を表示し、生産高を前提にしていないこと、検地帳に給人知行(きゅうにんちぎょう)が記されるものがあり、兵農分離が不徹底であること、名主百姓(みょうしゅびゃくしょう)の中間搾取は否定されず、「内徳小物成(ないとくこものなり)」を認められていること、などの違いがあった。都市商業政策では、分国における関所を撤廃して流通を円滑にし、金銀貨をも含む広い視野から撰銭令(えりぜにれい)を出して通貨整備を行おうとした。また城下町安土では楽市(らくいち)・楽座(らくざ)、公事免許(くじめんきょ)などの優遇策を実施して繁栄に努めた。都市については上京(かみぎょう)、尼崎(あまがさき)を焼き、堺(さかい)などの武装を解除したが、都市自治権は全面的には否定せず、寺内町(じないまち)の特権は認めたりしている。全般的にいえば関所撤廃、城下町政策など戦国大名のなかでも、もっとも進んだ政策を実施した。また領国尾濃では伊藤宗十郎(いとうそうじゅうろう)を商人司として商人統制を行い、城下町以外では座組織を認め、流通仲間など積極的に利用した。ここでも京七口(きょうななくち)の皇室領率分関(りつぶんぜき)を残し、座を認め、寺内町の建設すら認めたのは、公家・寺社との関係を尊重したためであった。都市の経済力に注目し、今井宗久(いまいそうきゅう)、津田宗及(つだそうきゅう)ら堺の豪商と結び付いたことも知られる。

[脇田 修]

文化政策

信長は禅宗であるが、無神論者といわれるようなところがあり、なによりも政治権力を宗教勢力の上に置いた。浄土宗、日蓮宗(にちれんしゅう)の宗論を安土城で行わせ、日蓮宗を非としたことはそれを示している。比叡山延暦寺や槇尾寺(まきのおでら)焼討ち、高野聖(こうやひじり)斬殺(ざんさつ)、一向一揆(いっこういっき)の徹底的弾圧など、抵抗する者には容赦しなかった。キリスト教については、ヨーロッパ文化への興味と一向一揆との対抗のために保護を加え、安土にセミナリオ、京都に南蛮寺(なんばんじ)の建設を認めている。また相撲を好み、芸能では幸若舞(こうわかまい)をたしなみ、桶狭間合戦に赴く朝、かねて好む『敦盛(あつもり)』の一節「人間五十年、下天(げてん)の内をくらぶれば夢幻(ゆめまぼろし)の如(ごと)くなり……」と舞ったのは有名。小歌も口ずさみ、「死のふは一定(いちじょう)、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの」の歌詞を愛誦(あいしょう)したという。茶の湯では千利休(せんのりきゅう)、津田宗及、今井宗久らを茶道(さどう)として召し抱え、名物をも集めたが、茶の湯を政治に利用し、功績のある家臣に茶の湯を許す栄誉を与え、茶道具を与えたりした。

[脇田 修]

歴史的位置

中世から近世への変革期に現れ、戦国動乱を平定する直前で信長は倒れた。その意味で、彼が近世統一権力の先頭走者であったことは確かである。しかし、織田政権の評価については意見が分かれている。従来は、織豊政権(しょくほうせいけん)と一括されるように、織田政権を近世権力と考え、豊臣政権と連続してとらえる説が有力であった。最近の研究では、織田政権を戦国大名段階の中央権力と規定し、室町幕府よりもはるかに新しいが、豊臣政権のような近世権力とは異なると考えられている。

[脇田 修]

『鈴木良一著『織田信長』(岩波新書)』『今井林太郎著『織田信長』(1966・筑摩書房)』『脇田修著『近世封建制成立史論』(1977・東京大学出版会)』


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改訂新版 世界大百科事典 「織田信長」の意味・わかりやすい解説

織田信長 (おだのぶなが)
生没年:1534-82(天文3-天正10)

安土桃山時代の武将。尾張守護代織田大和守家の奉行の家に生まれた。織田氏は越前丹生郡織田荘が本貫で藤原氏を称したが,本姓は忌部氏といわれる。信長も初めは藤原氏を称した。のち平氏になったのは源平迭立(てつりつ)の思想によるという。曾祖父は信良,祖父は信貞といったらしいが,父の信秀は傑出した武将で尾張勝幡(しよばた)城に拠り,津島の経済力や天王社の信仰を背景に一族間に優越し,美濃・三河を攻略,信長を那古野城に置き,斎藤利政(道三)の女をめとらせた。しかし一族との対立,今川氏との対決という課題を残して1551年(天文20)急逝したので信長は孤立し,家臣団は動揺した。だが親族衆と連携しつつ敵対する一族を各個に撃破した信長は,55年(弘治1)清須城を奪い,57年老臣に擁立された弟信行を殺し,59年(永禄2)岩倉城の織田信賢を追って尾張を統一し,60年5月西上する今川義元を桶狭間の戦でたおし,62年岡崎の徳川家康と同盟して態勢を安定させた。そして65年墨俣(すのまた)に砦を築き美濃への攻撃を強め,67年ついに斎藤竜興を追って美濃を征服し,井之口を岐阜と改称して拠点とし〈天下布武〉の印判使用を開始した。そして68年足利義昭を擁して上洛,三好三人衆を追って幕府を再興,実質的な畿内支配を実現した。そして将軍のため二条城を造営する一方,殿中掟・事書五箇条を定めて将軍権力を牽制し,70年(元亀1)浅井・朝倉軍を近江姉川の戦に破り,ついで河内に進出したところ石山の本願寺顕如が決起して浅井・朝倉軍に呼応したため退却し,天皇の権威をかりて講和した。ついで将軍の失政を責め,73年(天正1)ついに幕府を倒し,宿敵浅井・朝倉両氏を滅ぼし,翌年伊勢長島の一向一揆を鎮圧,75年には三河長篠の戦に武田勝頼の精鋭を破って鉄砲隊の威力を示し,また丹波・丹後の征服を開始,8月越前の一向一揆を鎮定し,柴田勝家ら直属部将を分封,国掟を与えて専制支配の姿勢を明らかにした。そして濃尾両国を嫡子信忠に譲り,76年近江に安土城を築き,77年羽柴秀吉に西国征伐を命じた。一方足利義昭の策謀により本願寺顕如・上杉謙信・毛利輝元らが信長を敵として連合し,松永久秀・荒木村重らの部将も背いた。しかし信長は77年紀伊雑賀(さいが)を圧迫し,翌年鉄甲船によって毛利水軍を破り,また上杉謙信も78年病没,荒木一族も翌年鎮圧されたので石山城の顕如は80年ついに屈服し,加賀の一向一揆も柴田勝家により平定された。そこで信長は宿老の佐久間信盛や林秀貞を追放して専制的体制を誇示し,翌年京都で盛大な馬揃を挙行,行幸を仰ぎ,整備された軍容を天下に示した。そして翌82年木曾義昌の来属を機に甲斐・信濃に侵入,武田勝頼を田野に敗死させ,信濃・甲斐・上野に部将を分封して国掟を与えた。ついで神戸信孝らに四国征伐を命じ,6月中国征伐の指示を与えるため上洛し本能寺に宿泊したところを明智光秀に急襲されて2日朝自殺,信忠も二条城で敗死した(本能寺の変)。

 織田政権の軍事的特質は加地子(かじし)領主として農業経営から分離しうる濃尾地方の地侍・有力名主層を中核に軍団を編成し,鉄砲・長槍で武装,専業武士団として機動性を与えたところにあった。しかもこの軍団は長期遠征に耐え,城下集住が可能であったため征服戦が有利に展開し,中央支配を早期に実現できたのである。またこの政権は土地の一職支配に基礎を置く過渡的存在であるといわれるが,一向一揆の鎮圧以後は大和や和泉に指出(さしだし)を徴して複雑な土地所有関係を固定明確化し,播磨では事実上の太閤検地といわれる検地が,柴田氏領内では刀駈(かたながり)が,大和では城破り(しろわり)が実施され,そして楽市・楽座,関所撤廃などの政策がとられた。もっとも最近では楽市・楽座令を都市振興政策の一環として限定的に理解するむきもあるが,これらの政策は豊臣秀吉により近世的統一政権の基礎として実現してゆくものである。また信長は律令制的支配を象徴する朝廷を保護し,内裏の修造,廷臣門跡の窮乏を救済する徳政の実施,皇大神宮・石清水八幡宮の保護など国家的支配に関与し,朝廷でも太政大臣か将軍の地位を贈る意向があった。信長はまた宗教の世俗的権威を否定し,1571年浅井・朝倉軍に荷担した延暦寺を,81年指出を拒否した槙尾寺を焼き,罪人を隠匿した金剛峯寺制裁のため多くの高野聖を斬り,82年甲斐恵林寺の快川紹喜を焚殺した。そして惣村や渡りの商工業者集団を基盤とする一向一揆には鏖殺(おうさつ)(みな殺し)戦術をもって臨み,町衆を信仰受容層とする日蓮宗には79年安土宗論を行わせてこれを弾圧した。しかしキリスト教宣教師は優遇し,69年ルイス・フロイスの在京を許し,79年オルガンティーノに安土教会堂の,81年巡察使バリニャーノに学校の建設を許した。そして宣教師を通じてキリシタン大名を動かし,また仏僧を牽制した。なお宣教師は信長の資質を的確にとらえて報告している。信長は茶の湯の愛好者として知られるが,茶会を通じて堺や博多の豪商と接し,家臣には茶器を与え,茶の湯興行の特権を付与して褒賞するなど,茶道を商業資本家や家臣団の統制に利用している。
執筆者:

織田信長の人間像は,同時代の武将たちとともに,いわゆる〈太閤記の世界〉のなかでは,必ず顔をだすが,徹底して善良な人間像を獲得し,それゆえに活躍の場の多い豊臣秀吉(真柴久吉),あるいは屈折した悪役を割りふられ,独自の個性を作りあげた明智光秀(武智光秀)などに比べると,信長の場合は小(尾)田春永という名の単純な赤面(あかつつら)の暴君以上のものではなく,おもしろみに欠ける印象を否めない。また多くが脇役にとどまり,信長を主人公に扱う作品はみられない。江戸時代にははなはだ人気のない人物であった。しかもその悪役としての性格も,むしろゆたかな光秀像の形成にともなって,光秀を侮辱する役として浮上したふしが濃厚である。現代の日本人が抱くニヒルで悽惨な信長のイメージは,どちらかといえば近代文学のものというべきであろう。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「織田信長」の意味・わかりやすい解説

織田信長
おだのぶなが

[生]天文3(1534).尾張,那古野
[没]天正10(1582).6.2. 京都
戦国時代の武将。信秀の子。幼名吉法師または三郎。元服して信長。天文 20 (1551) 年父信秀が没して家督を相続して以来,一族内部の抗争に奔走,永禄2 (1559) 年には岩倉城の織田信賢を破り,尾張一国を統一,次いで駿河の今川義元を桶狭間で奇襲して敗死させた (→桶狭間の戦い ) 。そののち三河の徳川家康と同盟して後顧の憂いを除き,美濃に進出を企て,永禄 10 (1567) 年斎藤龍興を滅ぼして美濃をくだし,稲葉山城を岐阜と改名して,尾張清洲より移った。翌 11年足利義昭を奉じて上洛,義昭を将軍職につけたが,のち義昭が信長の勢力拡大を喜ばなかったため元亀2 (1571) 年信長は義昭に内通していた比叡山の焼き打ちを決行した。天正1 (1573) 年には朝倉氏,さらに浅井氏を滅ぼし,義昭を河内に追放して室町幕府を滅亡させ,天正3 (1575) 年,武田勝頼を三河長篠に破り (→長篠の戦い ) ,翌年には近江安土に築城した (→安土城 ) 。やがて中国経略を志して毛利氏と対立したが,一方では石山本願寺を降伏させて畿内一円を支配。天正 10 (1582) 年には甲斐武田氏を滅ぼし,信濃の北口を平定。しかし同年6月2日,本能寺の変明智光秀のために殺され,その統一事業は中絶した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「織田信長」の解説

織田信長
おだのぶなが

1534.5.12/28~82.6.2

戦国期~織豊期の武将。父は信秀。幼名吉法師。1546年(天文15)元服。信秀没後,本家の清須(洲)(きよす)・岩倉両織田家を滅ぼし尾張を統一。60年(永禄3)桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元を破り,67年美濃斎藤氏を降して岐阜に居城を移す。この頃から天下統一を意識して「天下布武」の印章を用いた。翌年,足利義昭とともに上洛し,義昭を将軍に擁立したが,その政治行動を牽制,ほどなく両者は不和となった。義昭に呼応する近江浅井・越前朝倉両氏をはじめ,比叡山延暦寺僧徒,甲斐武田氏,一向一揆などの包囲をうけて苦戦したが,73年(天正元)義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼした。75年長篠の戦で武田勝頼に大勝し,同年越前の一向一揆を鎮圧。翌年近江に安土城(現,滋賀県近江八幡市安土町)を築いて移った。80年石山本願寺を攻め降し,畿内を平定。82年春甲斐に遠征して武田氏を滅ぼし,つづいて中国・四国制圧を期して上洛中,本能寺で明智光秀の謀反にあい自害した(本能寺の変)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「織田信長」の解説

織田信長
おだのぶなが

1534〜82
戦国・安土桃山時代の武将
尾張(愛知県)の生まれ。性質は剛腹で人の意表をつく行動が多く,傅 (もりやく) の平手政秀の諫死 (かんし) によって改まったといわれる。父信秀の死後織田一族を統一し,清洲城に移った。1560年ごろ尾張を平定。駿河の今川義元の侵入を桶狭間 (おけはざま) で反撃,'67年美濃の斎藤氏を破り岐阜稲葉城に移った。'68年足利義昭 (よしあき) を奉じて入京し,大和などを平定。'71年浅井・朝倉氏を討ち(姉川の戦い),翌年比叡山延暦寺の焼打ちを敢行して,美濃と京都との連絡を確保した。'73年には義昭を追放して室町幕府を名実ともに滅ぼし,ついで武田氏を討ち,38カ国を支配下にいれた。征服と並行して検地を行い,道路をととのえ,撰銭令・楽市楽座などの政策を実施し,安土城を築いた。'82年中国の毛利氏を攻めるため,京都本能寺に宿泊したところを,家臣明智光秀の謀反により自刃(本能寺の変)。天下統一の事業は挫折したが,封建的統一の基盤をつくった意義は大きい。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「織田信長」の解説

織田信長 おだ-のぶなが

1534-1582 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)3年生まれ。織田信秀の子。永禄(えいろく)2年尾張(おわり)(愛知県)を統一。3年桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元を破る。徳川家康と同盟し,10年美濃(みの)を征服して岐阜を拠点とする。11年足利義昭を擁立して京都にはいるが,のち対立。天正(てんしょう)元年義昭を追放し,室町幕府をほろぼす。浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いで勝利し,伊勢(いせ)長島の一向一揆(いっき)を鎮圧,武田軍との長篠の戦いにも勝利。4年近江(おうみ)に安土城をきずく。天下統一を目前にして,明智光秀の謀反にあい,天正10年6月2日京都本能寺で自刃(じじん)した。49歳。尾張出身。幼名は吉法師,三郎。官名は上総介(かずさのすけ)。
【格言など】人間五十年,下天の内をくらぶれば,夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか(「信長公記」)

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デジタル大辞泉プラス 「織田信長」の解説

織田信長

山岡荘八の長編歴史小説。1955年刊行。

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世界大百科事典(旧版)内の織田信長の言及

【安土宗論】より

…1579年(天正7),織田信長の命令で安土城下で行われた浄土宗と法華宗の宗論。当時,信長の本拠だった新興都市の安土では,折伏(しやくぶく)の談義僧でならした普伝日門の布教によって法華宗が猛烈にのびていた。…

【安土城】より

…滋賀県蒲生郡,琵琶湖東岸安土山にある城址。織田信長が1576年(天正4)から築城を開始し,普請奉行には丹羽長秀があたった。石垣普請には11ヵ国から労働者を集め,坂本穴太(あのう)の石工らが動員された。…

【安土桃山時代】より

…織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭を擁して入京した1568年(永禄11)から,関ヶ原の戦によって徳川家康の覇権が確立した1600年(慶長5)までの約30年間を指し,織田・豊臣時代(織豊政権)ともいう。時代区分のうえでは江戸時代と合わせて近世(幕藩体制)にあたり,封建社会が成立・展開する時期である。…

【敦盛】より

…謡曲《敦盛》,《形見送(経盛)》(廃曲)も同材だが,本曲は発心譚的色彩が濃い。織田信長は田楽狭間の合戦に際し,本曲の一節〈人間五十年,下天の内をくらぶれば,夢幻のごとくなり,云々〉を舞って出陣した(《信長公記》など)と伝えて有名。また,室町期の物語草子や古浄瑠璃に敦盛の遺児を主人公とする《小敦盛》があり,謡曲に《生田敦盛》がある。…

【石山本願寺一揆】より

…1570年(元亀1)から80年(天正8)まで織田信長と戦った一向一揆。石山合戦ともいうが,本願寺の所在地摂津国石山で11年間絶えまなく戦闘があったわけではない。…

【和泉国】より

…しかしこの堺幕府も,三好氏ら阿波国人と畿内国人の対立から晴元と元長の反目を招き,一向一揆の大軍に包囲されて崩壊する。49年まではまがりなりにも守護細川氏の支配がかろうじて続いたが,三好長慶が畿内に覇を唱えるや,当国は岸和田城に長慶の一族十河一存(そごうかずまさ)が入部し,一存の没後は三好義賢,安宅(あたぎ)冬康が相次いで同城主となり,68年(永禄11)の織田信長入京まで,三好氏の支配が続くのである。 信長入京後の和泉は,三好義継の部下が家原城その他に分封されたが,堺は依然三好三人衆側に属し独立の態度をとった。…

【一向一揆】より

… 戦国大名と一向一揆の全面的対決は,63年秋から翌年にわたって西三河で行われる。松平(徳川)家康は,桶狭間の戦以後今川氏の支配下から独立して織田信長と結び,矢作川流域の西三河の領国支配に着手した。このころこの地域は三河三ヵ寺(佐々木上宮寺,針崎勝鬘(しようまん)寺,野寺本証寺)や一家衆寺院の土呂本宗寺などを中心に,商工業・運輸業者,農民,武士たちの強力な門徒集団が形成されており,家康家臣団の中にも門徒武士が多かった。…

【延暦寺焼打】より

…1571年(元亀2)9月12日,織田信長が比叡山延暦寺の根本中堂,山王二十一社をはじめとする諸堂社をことごとく焼き払った事件。前年9月,三好三人衆,本願寺顕如に呼応して南近江に兵を進めた浅井・朝倉軍の一部は叡山に拠って信長に対抗した。…

【近江国】より

…義晴,義輝も近江に逃れたことがあり,義晴は滋賀郡穴太(あのう)で没した。室町幕府最後の将軍義昭も,甲賀郡和田の和田惟政の館にいたことがあるが,結局68年(永禄11)織田信長に迎えられた。信長は義昭を奉じて上洛し,義昭を将軍職につけた。…

【織田氏】より

…近世大名。姓ははじめ藤原で,のち平姓を称するようになった。古く越前国丹羽郡織田荘に拠り,織田を称するようになったと考えられる。越前守護斯波氏に仕え,斯波義重が尾張守護を兼ねると,織田常昌が尾張守護代となる。斯波氏の分裂抗争とともに,織田氏も春日井郡清須城に拠り下四郡を領する一家と,丹羽郡岩倉城において上四郡を領する一家とに分裂し互いに争う。天文年間(1532‐55)になると,清須織田家の三奉行の一人織田信秀がしだいに力を強め,主家をしのいで隣国にまで勢力をのばすようになる。…

【織田神社】より

…中世では織田寺と総称される多くの坊舎が延暦寺末となっていた。戦国時代には朝倉氏より社領の保護をうけたが,朝倉氏を滅ぼした織田信長の先祖はこの織田の出身といわれ,信長も織田神社を氏神と仰いで,多くの社領を与えている。古来,魔よけ,厄よけ,交通安全などの神として知られ,10月9,10日に例大祭がおこなわれる。…

【尾張国】より

…現在瀬戸では500以上,常滑では1300以上の中世窯跡が確認されており,その製品は全国的に市場をもっていたことが,各地の発掘調査から知られている。【上村 喜久子】
【近世】
 織田信長は父信秀存生中の1549年(天文18)重要拠点の熱田8ヵ村に禁制を下した。信長時代の開幕である。…

【岐阜城】より

…おそらく,1509年(永正6)ころ守護土岐政房がその居城を革手から福光(鷺山城)に移したのにともなって,斎藤利隆(持是院妙全)の居城となったものと思われる。斎藤道三も父のあとをついでここを居城とし,義竜・竜興と継承されたが,1567年(永禄10)9月,織田信長が占領し,その居城となった。信長は,稲葉山城,およびその城下の井口(いのくち)を岐阜と改称し,大規模な改修,城下町の整備につとめた。…

【堺[市]】より

…さらに堺鉄砲,織物,医術など技術の面も高度の発達をとげた。 1568年(永禄11)織田信長は待望の入洛を果たすと,堺に矢銭(屋銭)2万貫を要求してきた。会合衆たちは,これを拒絶し信長と一戦を構える準備をした。…

【下京】より

…この年の下京の状況を《耶蘇会士日本通信》は〈此等市街は,緞子其他の織物を製造加工し,又金属其他当地に用ひらるゝ品を作る商人の家及び事務所の在る所にして〉と記しており,当時の下京の産業がよくわかる。戦国時代の覇者である織田信長は1568年(永禄11)入京,京都を実力で圧迫しようと試み,さまざまな施策をとる。71年(元亀2)には禁裏に献上する費用を調達するため京中に貸米の制度を実施するが,それについて下京では中組,牛寅組,川ヨリ西組の3町組約50町が史料上にみえる。…

【織豊政権】より

…1568年(永禄11)織田信長の入京に始まり1603年(慶長8)江戸幕府の成立に至る安土桃山時代,戦国の争乱を統一し近世社会の基礎を築いた織田・豊臣両氏の安土,大坂を拠点とする武家政権。信長は室町幕府を滅ぼすとともに,畿内とその周辺の惣結合に基づく一揆勢力,とくに石山本願寺を中心とする一向一揆を徹底的に弾圧することにより,集権的権力を確立した。…

【信長公記】より

太田牛一が〈日記〉に基づいて記録した織田信長の軍記。16巻16冊。…

【戦国時代】より

…日本史時代区分の一つで室町後期に一致する。
[始期と終期]
 通常,応仁の乱の始まった1467年(応仁1)から,織田信長が足利義昭を奉じて入京した1568年(永禄11)までをさす。しかしこれには始期・終期ともに異説がある。…

【摠見寺】より

…山号は遠景山。織田信長が安土城築城に伴い創建した。開山は正仲剛可。…

【建勲神社】より

…京都市北区に鎮座。織田信長をまつり,子の信忠を合祀する。一般に〈けんくんさん〉と呼ばれる。…

【天下】より

…全国,全国政権(あるいは中央政権)の所在地,全国(中央)政権,そしてその支配者個人という同心円状に重層した意味構造が成立したのである。例えば〈天下布武〉の印判を愛用した織田信長は,上洛後自分への協力は〈天下の為〉〈天下に対して大忠〉であると主張し,一方将軍義昭には〈天下の褒貶〉や〈執沙汰〉を論拠に非難を浴びせ,ついにはみずから〈天下を申し付くる〉と称するなど,天下の権威と多義性をしきりに利用している。 とくに最高権力者を端的に天下と呼ぶ用法は,おそらく,元来関白などを指す〈殿下〉の当て字としての天下とも交錯しつつ,足利時代以後しだいに広がった。…

【時桔梗出世請状】より

…1808年(文化5)7月江戸市村座初演。先行の浄瑠璃《祇園祭礼信仰記》《三日太平記》《絵本太功記》などに拠りながら武智光秀(明智光秀)が主君小田春永(織田信長)を本能寺で討つまでの経緯を主軸に脚色した作品(太閤記物)。序幕は祇園社拝殿から饗応仮御殿までの5場で,光秀が蜘蛛の振舞いを見て怪しむくだりは饗応仮屋の木戸前の場,春永が蘭丸に鉄扇で光秀の眉間を割らせるのが饗応仮御殿の場。…

【徳川家康】より

…60年大兵を率いて上洛を図った義元の先鋒として三河に入り,織田勢力の包囲に孤立していた大高城の兵糧入れに成功して初陣をかざった。 翌々日5月20日桶狭間の戦での義元の敗死を機に岡崎に入城して今川氏から自立し,61年織田信長と和睦(1563年1月尾張清須で信長と会見),63年7月名を家康と改めた。直後に譜代の家臣団をも巻きこんだ三河一向一揆が起きたが,翌年の春ごろにはこれを鎮定,結果として三河一国は家康によって統一されることになった。…

【髑髏】より

…近代にもどくろ杯を使用するアフリカの部族の例などがあり,チベットのラマ僧たちは今も宗教的儀式のおりにどくろ杯を用いているという。日本では,織田信長が浅井久政・長政父子や朝倉義景のどくろで酒を飲んだと伝えられている。 どくろには故人の霊や魔力がひそむと考えられたことから,さまざまな風習や伝承が生まれたが,それらはみなキリスト教布教以前か,その影響が及ばなかった地域のものである。…

【長篠の戦】より

…1575年(天正3)5月21日に織田信長,徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を三河の設楽原(したらがはら)(現,愛知県新城市)で破った合戦。武田信玄の没後,家康が長篠城を取り返したので,勝頼は前年に遠江高天神(たかてんじん)城を陥れた勢いに乗り,75年4月21日約1万(兵員数には諸説がある)の軍勢で長篠城を囲んだ。…

【長島一揆】より

…濃尾三川(木曾川,長良川,揖斐川)の下流域のいわゆる輪中地帯には,15世紀中葉以後真宗本願寺派の教線が進展し,1501年(文亀1)には蓮如の六男蓮淳を住職とする一家衆寺院長島願証(がんしよう)寺が創建された。70年(元亀1)本願寺顕如が諸国に反織田信長の蜂起を指令すると,尾張南西部,美濃南部,伊勢北部の門徒は反信長の武士と連合して願証寺を主将として蜂起し,11月に信長の弟信興を尾張小木江城に攻めて自殺させた。信長は翌年5月に5万の兵で3方面から攻撃したが,部将氏家卜全は戦死,柴田勝家も負傷して大敗した。…

【平手政秀】より

…戦国期の武家で,織田信秀の老臣。初名は清秀,中務丞と称した。1533年(天文2)公家飛鳥井雅綱・山科言継一行の勝幡(しよばた)城滞在中の接待に当たる。44年に信秀の命で上京,皇室に献金の役を果たす。このころ,林通勝らとともに那古野(なごや)の新城を与えられた信長に付けられて信長の育成に当たり,蔵入領支配を担当。47年の美濃大柿(大垣)攻撃後,斎藤道三の女と信長の婚約を献策し,成立させて和睦に導いた。…

【本能寺の変】より

…1582年(天正10)6月2日,明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自殺させた事件。羽柴(豊臣)秀吉の備中高松城攻防をめぐって織田・毛利両軍が全面的に対決する局面を迎えた信長は,とりあえず堀秀政を派遣するとともに明智光秀に出陣を命じ,みずから近臣を伴って5月29日上洛した。…

【升∥枡】より

…それと同時に単位間の不規則累進にかわってしだいに十進法が復活し,〈十合斗〉と呼ばれる枡が京都,奈良を中心に多用されるようになった。1568年(永禄11),将軍足利義昭を奉じて入京した織田信長は,京都の経済を掌握するために,当時の京都において中心的な商業枡である十合斗を公定枡に指定した。十合枡は信長の後継者豊臣秀吉によって継承され,とくに太閤検地において石盛(こくもり)の基準枡に採用された関係から,その使用は全国に及んだ。…

【矢銭】より

…すでに軍用米・金としては兵粮料(ひようろうりよう)があったが,これは恒常化する傾向にあり,そこで新たに臨時賦課の矢銭ができた。織田信長が入洛したとき,摂津・和泉に矢銭をかけ,とくに堺に2万貫,石山本願寺に5000貫を課したことは著名。また都市の特権として矢銭・兵粮米銭の免除があげられている。…

【楽市令】より

…ひとつは,15,16世紀に新しく登場した地方市場で,寺内町(じないちよう)に代表されるような,すでに,楽市場として存在していた市場に,その楽市の機能を保証した,いわば保証型楽市令である。この型に属する楽市令としては,織田信長の永禄10年(1567)美濃加納あて楽市令,元亀3年(1572)近江金森あて楽市令,後北条氏の天正13年(1585)相模荻野あて楽市令などがある。もうひとつは,このような既存の楽市場の形態を前提にして,新城下町,新市場の楽市化による繁栄を目的に発布した政策型楽市令である。…

※「織田信長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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