聖聡(読み)しょうそう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「聖聡」の意味・わかりやすい解説

聖聡
しょうそう
(1366―1440)

南北朝・室町時代浄土宗高僧大蓮社酉誉(たいれんじゃゆうよ)ともいう。下総国(しもうさのくに)(千葉県)千葉氏胤(ちばうじたね)(1337―1365)の子として生まれる。初め密教を学んだが、1385年(元中2・至徳2)浄土宗に転宗し、以後聖冏(しょうげい)のもとで浄土宗義を研鑽(けんさん)する。1393年(明徳4)奥義(おうぎ)を相伝し、独立して布教活動を開始。当時武蔵(むさし)貝塚(東京都千代田区)にあった古義真言(しんごん)宗光明(こうみょう)寺を復興改宗し、増上寺を創建した。師聖冏が体系化した五重伝法(ごじゅうでんぼう)を実際に運用し、浄土宗の後継者養成に大きく貢献した功績は看過できない。また師の聖冏教学の継承・発展に努め、対外的には他宗派からの浄土宗寓宗(ぐうしゅう)説に対して反論し、対内的には三祖良忠門下の異流、名越(なごえ)派に対して白旗(しらはた)派の正統性を主張した。師聖冏とともに浄土宗の中興の祖といわれる。著述は『三経直談要註記(さんぎょうじきだんようちゅうき)』48巻、『當麻曼荼羅鈔(たいままんだらしょう)』48巻をはじめとして26部百数十巻を数える。その門弟酉仰(ゆうごう)(1418―1459)、良肇(りょうちょう)(1359―1439)、了暁(りょうぎょう)、慶笠(けいりゅう)、存冏(そんげい)などがいる。

[廣川尭敏 2017年8月21日]

『玉山成元著『中世浄土宗教団史の研究』(1980・山喜房仏書林)』『宇高良哲編『関東浄土宗檀林古文書選』(1982・東洋文化出版)』

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朝日日本歴史人物事典 「聖聡」の解説

聖聡

没年:永享12.7.18(1440.8.15)
生年貞治5/正平21.7.10(1366.8.16)
室町前期の浄土宗の僧。浄土宗鎮西派の第8祖。父は下総国(千葉県)千葉氏胤。明見寺で出家し,密教を学ぶが,20歳のころに常陸国(茨城県)常福寺の聖冏の教えを聞き,門人となる。明徳4(1393)年に五重血脈を受けて,鎮西派の8代の法統を継ぎ,武蔵国の各地を布教した。武蔵国貝塚にあった真言宗寺院を復興し,浄土宗に改め,増上寺の基礎を築いた。千葉氏,佐竹氏から寺領の寄進を受けていた。増上寺を中心にして布教,著述に活躍し,多くの著作を残した。聖冏の作った五重相伝を実際に活用して,僧侶の養成に尽力しつつ,名越派に対抗しながら関東における浄土宗鎮西派の発展の基盤を作った。門弟には,のちの増上寺2世となる酉仰,知恩院21世になった慶竺などがいた。<著作>『三経直談要注記』『当麻曼陀羅鈔』<参考文献>玉山成元『中世浄土教教団の研究』

(林淳)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「聖聡」の解説

聖聡 しょうそう

1366-1440 南北朝-室町時代の僧。
貞治(じょうじ)5=正平(しょうへい)21年7月10日生まれ。千葉氏胤(うじたね)の次男。浄土宗鎮西派の第8祖。聖冏(しょうげい)が体系化した五重相伝の普及につとめ,おおくの弟子を養成。明徳4年武蔵(むさし)貝塚(東京都)にあった真言宗光明寺を浄土宗にあらため,増上寺を創建した。永享12年7月18日死去。75歳。下総(しもうさ)千葉出身。俗名は千葉胤明(たねあき)。号は大蓮社酉誉(ゆうよ)。

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普及版 字通 「聖聡」の読み・字形・画数・意味

【聖聡】せいそう

天子の聡明。

字通「聖」の項目を見る

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367日誕生日大事典 「聖聡」の解説

聖聡 (しょうそう)

生年月日:1366年7月10日
南北朝時代;室町時代の浄土宗の僧
1440年没

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