デジタル大辞泉 「自由民主党」の意味・読み・例文・類語
じゆうみんしゅ‐とう〔ジイウミンシユタウ〕【自由民主党】
ドイツの中道右派政党。1948年設立。以来、キリスト教民主同盟か社会民主党のどちらかと組み、連立与党である期間が長い。
英国の中道政党。かつての二大政党の一翼ながら衰退していた自由党が、労働党を離脱した社会民主党と1988年に合同し、社会自由民主党として結成。翌年に改称。小選挙区制のため得票率の割に議席数は伸び悩むが、2010年に保守党と連立しキャメロン政権の与党となった。
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日本の保守党。略称自民党。1955年11月15日に結成された。自民党は敗戦の1945年以降,昭和20年代を通じ離合集散を繰り返した保守諸党が合同した保守単一政党であった。時を同じくして左右両派を統一した日本社会党と二大政党制(政党制)を形成し,〈55年体制〉と呼ばれた。しかしその実質は,11/2政党制であり,自民党は以後38年間,単独政権の座を保持し長期支配を続けた。この間,93年の分裂,野党への転落にいたるまでに,76年に小分裂が起こり新自由クラブが結成されたが,83年12月,自民党はその新自クと結成以来初の小連立を成立させ,やがて86年には新自クを解消させ吸収した。
昭和20年代の末期,保守政治勢力は吉田茂の自由党と鳩山一郎の民主党の対立に二分された。吉田長期政権が退陣して鳩山民主党内閣となり,自由党総裁は緒方竹虎に代わって,保守合同の機運が強まった。熱心な推進者は三木武吉であったが,その背景には,再建から発展過程にはいった日本資本主義を支える保守政治勢力の結集を望み,同時に左翼勢力の伸張傾向に危機感を強める財界の強い意向があった。このため,保守合同-自民党結成は,自由,民主両党の対立感情を残したまま,理論的にも組織的にも急造・速成の弊を免れなかった。そうした経緯と体質が,その後の自民党の歩みにさまざまな影響を及ぼすことになった。さらに党結成の際導入された総裁公選制が,衆院の中選挙区単記制と相まって,激烈な総裁争いと派閥政治を生み出したことも指摘しておく。
党綱領は次の3項から成る。〈一,わが党は,民主主義の理念を基調として諸般の制度,機構を刷新改善し,文化的民主国家の完成を期する 一,わが党は,平和と自由を希求する人類普遍の正義に立脚して,国際関係を是正し,調整し,自主独立の完成を期する 一,わが党は,公共の福祉を規範とし,個人の創意と企業の自由を基底とする経済の総合計画を策定実施し,民生の安定と福祉国家の完成を期する〉。文化的民主国家,自主独立,福祉国家の3本柱は,きわめて常識的かつ抽象的な表現である。しかしこの綱領を受けた〈党の政綱〉は,策定当時も難航し,その後も論議の的となってきた。(1)国民道義の確立と教育の改革,(2)政官界の刷新,(3)経済自立の達成,(4)福祉社会の建設,(5)平和外交の積極的展開,(6)独立体制の整備--の6項目であるが,最大の問題点は第6項で,その内容は〈平和主義,民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ,現行憲法の自主的改正をはかり,また占領諸法制を再検討し,国情に即してこれが改廃を行う。世界の平和と国家の独立及び国民の自由を保障するため,集団安全保障の下,国情に相応した自衛軍備を整え,駐留外国軍隊の撤退に備える〉となっている。
この項目は結党当時,改憲-再軍備を強く主張した鳩山,重光葵(まもる),岸信介らの民主党と,改憲に消極的で経済再建の政治路線をとった吉田自由党との妥協の産物であった。ようやく最終項にはいったとはいえ,政綱に掲げられた以上,憲法改正が自民党の大きな政治目標となったことは間違いない。党発足後の数年間,鳩山,岸両政権のもとで,改憲の企て,その準備としての小選挙区制,警察官職務執行法改正などの努力が続けられ,また新日米安全保障条約が締結されたのは,この政綱線上のものであった。
しかし60年安保後,吉田直系の池田勇人,佐藤栄作が相次いで党総裁となり政権を担当すると,護憲勢力と国論二分の激突を招く憲法改正の試みは棚上げされ,自民党は軽軍備,経済発展優先の政治路線をとってひたすら経済大国への道を走った。といっても政綱に掲げた党の改憲志向は根強く,今後も機を見て改憲の動きが表面化する可能性は十分ある。
自民党は,長く保守単一政党,最大の資本主義政党として,いわゆる財界の強力な支持を基盤としてきた。また戦後の農地改革によって,有産化,保守化した農業者の伝統的支持も強力な票田である。1960年代から70年代前半にかけての高度経済成長と,それに伴う急激な人口移動,農村人口の都市流入によって,自民党の農村優位はやや揺らいだが,現在は小康状態にある。また自民党単独の政権が長期化するにつれ,官僚機構と党支配の癒着が進行し,農業補助金や公共事業費などの予算配分を通じて,いわゆる〈票とカネ〉の循環による自民党支配が定着していったのも事実である。政官財三位一体の癒着といわれる現象である。
一党支配の長期化,政権交代のない議会政治は,必然的に歪曲され腐敗する。一党支配が逆にその腐敗を覆い隠すという面もあったが,20年余を経て自民党の金権腐敗はロッキード事件という形で76年に一挙に暴露された。この大ショックにもかかわらず,自民党の長期政権,野党の分裂,多党化がなお10年余も続いた原因の一つは,自民党が党内派閥による擬似政権交代を巧みに演じてきたことによるとみられる。
自民党の派閥はなぜ生まれ,しかも党中党の観を呈するようになったか。第1に,党結成が急造・速成で,自由,民主両党の対立はもとより,右から左までの雑多な保守理念が持ち込まれたこと。第2に,総裁公選制の導入が,長く続いた中選挙区制と相まって党中党の派閥形成を促進したことが原因であろう。3~5人の中選挙区制では,同じ選挙区で同じ自民党の複数候補が争うことになる。資金や支持票を求めて,甲候補が党のA実力者に頼れば,乙候補は対抗上B有力者の支援を仰ぐ。党のA,B,Cの有力指導者は,総裁公選で多数議員の支持を得て総裁の座を獲得するため,子分議員の育成に狂奔しなければならない。親分と子分の利害が一致してここに党内派閥が誕生する。
自民党の派閥は,1956年12月の第1回総裁公選で,岸,石橋湛山,石井光次郎の三つどもえの激戦から石橋第2代総裁(初代総裁は鳩山)の誕生,57年2月,石橋病気退陣のあとの岸第3代総裁の登場にかけて形成された。岸信介,池田勇人,佐藤栄作,河野一郎,三木武夫,石井光次郎,大野伴睦,石橋湛山の各実力者が率いるいわゆる8個師団であった。以来約30年の離合集散を経て,1985年ごろには,岸-福田赳夫,池田-鈴木善幸,佐藤-田中角栄,河野-中曾根康弘,三木-河本敏夫の五大派閥となっていた。他の群小派閥はすでに消え去ったが,五つの派閥のみごとな系譜継承といえよう。しかも,岸から池田第4代,池田から佐藤第5代と,60年安保から巧みに高度経済成長政策に転換し,池田-佐藤合計12年の自民党黄金時代を築いた。その後も,第6代田中,第7代三木,第8代福田,第9代大平正芳,第10代鈴木,第11代中曾根と,党首交代による局面転換の妙を演じて自民党の命脈を保ってきた。
しかし,中曾根政権5年のあとの第12代竹下登総裁下の88年,リクルート事件が暴露されるに及んで自民党政権は崩壊の道を辿った。翌89年(平成1年)以降,第13代宇野宗佑,14代海部俊樹,15代宮沢喜一に至り,佐川急便事件など腐敗の連続,政治改革を求める世論のなかで,ついに党の分裂を招き,93年総選挙で過半数を割り,38年間の長期政権に終止符を打った。ただし,後継の細川護煕,羽田孜の両非自民連立政権は,内紛と弱体のため1年足らずの短命に終わり,94年7月,自民党は村山富市社会党委員長首班の連立政権に参加し,96年総選挙の結果,橋本竜太郎総裁のもと単独政権として復活した。
この動揺の数年間,派閥政治の弊はやや薄れたが,橋本政権以後復活の気配がある。また自民党の金権政治体質もなお根強い。
執筆者:内田 健三
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(星浩 朝日新聞記者 / 2007年)
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1955年(昭和30)11月15日,自由党と日本民主党の合同により結成された保守政党。55年体制のもとで一貫して政権党の地位にあった。党の基本路線として安保体制維持と経済成長優先策をとった。70年代初めには,公害問題の深刻化に二つのニクソン・ショックが重なったこともあり支持率が低下したが,補助金政策と派閥指導者の交代で乗り切った。80年代には,行財政改革を進めたことと,経済の活況に支えられたことによって長期政権を維持できた。衆議院の多数を支配してきた巨大政党であるので党内には多数の派閥があり,ハト派とタカ派,官僚派と党人派などの抗争がつきなかったが,反面派閥実力者による党首交代によって長期的な一党支配が可能となった。国際化にともなう外国からの圧力,70年代半ば以来次々と暴露される田中金脈問題・ロッキード事件・佐川事件などの構造汚職に対する批判が高まるなかで,93年(平成5)分裂し,はじめて野党となった。94年村山内閣で与党に復帰し,96年には自民党を主軸とした橋本連立内閣が成立。2009年に民主党に政権を交代したが,12年末に安倍晋三内閣が成立。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…1955年(昭和30)秋に,左右両派社会党の統一によって再発足した日本社会党と,日本民主党と自由党の保守合同によって結成された自由民主党の2党を軸として成立した政党制をいう。
[背景]
1951年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の締結への賛否をめぐって左右両派の対立が激化,分裂してから4年ぶりに統一した社会党と,戦後の保守勢力の離合集散に終止符を打って誕生した自民党によって,政治勢力が2極的に配置される形となり,この体制は,二大政党制の幕開けとして広く歓迎された。…
…それは,〈公的公式集団の中に形成された私的非公式集団で,閉鎖的な同調性をもち〉(石田雄),〈権力を私的に把握し,あるいは把握せんとして,他者あるいは他集団と対立抗争し,集団成員に対しては私的な庇護の恩恵を与える〉(安田三郎)ものである。しかし現在狭義には,〈派閥〉という言葉は,1955年の結党以来ずっと日本の支配政党である自由民主党の,いわば本質的属性としてほとんど国際的にも認知された用語といえるであろう。 自民党の派閥が〈権力の私的な把握〉と,〈その内部で“親分”の私的庇護と“子分”の従属〉という典型を形づくった原因は二つある。…
※「自由民主党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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