精選版 日本国語大辞典 「自由」の意味・読み・例文・類語
じ‐ゆう ‥イウ【自由】
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中国の古典に見える自由の語には,思うままにふるまう専恣横暴の意味(《後漢書》五行志)と,他から制約・拘束をうけないという意義(《魏志》)との二様の語義があった。日本の古代においてはなお外来語の性格が強く,ほぼ前者の義で用いられているが,中世に入ると〈自由狼藉(ろうぜき)〉〈自由濫吹(らんすい)〉等々,法令・訴陳状・日記などにおいては〈我欲を逞しくし,慣例に背き,不法を行い,専恣横暴の振舞いがある〉というマイナス評価の強い前者の語義が支配的になる。しかし中国においてもその後,唐詩や《臨済録》のような禅宗の僧の間では,後者の意味で自由の語は使われており,日本でも《正法眼蔵》《沙石集》等の法語・仏教説話に同じ用例を見いだすことができる。戦国時代に入るころ,《鶴岡放生会歌合》に〈自由ならずして自由を得たり〉とあるほか,〈不自由〉という語が頻出しはじめ,自由の語はプラス評価の意味で用いられるようになる。これは禅宗,キリスト教で,〈自由解脱(げだつ)〉のような積極的な意味で使われたことの影響もあろうが,江戸時代になると庶民の世界の中で,〈自由〉は便利と同じ意味にも用いられるようになった。しかし一方,法令をはじめ専恣横暴の意味の〈自由〉も依然として通用しており,自由の語には最後までマイナス評価がまつわりついていたのである。
libertyあるいはfreedomの訳語に〈自由〉をあてたのは江戸時代にさかのぼり,19世紀後半の辞書に見いだされるが,明治初年には自由の語のマイナス評価を意識的に避け,自主,自在などの訳語をあてる試みもなされた。しかし庶民の中に浸透していた〈自由〉の語は,中村正直の《自由之理》(1872)の普及と相まって,結局,その訳語として定着していく。このようなマイナス評価を多少ともともなった〈自由〉の語が,liberty,freedomの訳語となったことが,日本の近代における自由・自由主義に対する評価に微妙な影響を与えつづける結果になっている点は,見逃すわけにはいかない。
ひるがえって,liberty,freedomの語義についてもさまざまな論義があるが,その語源が共同体の成員権を意味するという説に立つならば,日本の場合も,古代の平民(公民),中世の平民百姓,近世の百姓はみな自由民ということも可能であり,この場合の自由は私的な隷属を拒否し,みずからを奴隷-不自由民から区別する自由ということになる。またそれを共同体からの自由と解するならば,日本の中世においても,身寄りのない貧しさを意味する語として広く使われた〈無縁〉という言葉は,転じて親子・主従等の縁を積極的に切った自由な境地を示す語となり,私・内証(ないしよう)に対する公・世間を意味する〈公界(くがい)〉の語は,私的な縁・保護を断ち切る自由を示す言葉として用いられ,戦国時代に用いられている〈楽〉〈十楽(じゆうらく)〉も,同様な意味をもったといってよい。しかし江戸時代に入ると,無縁は貧困を意味するもともとの語義にもどり,公界は苦界に,〈らく〉は一部地域の被差別民の名称となっていった点に,さきの〈自由〉の語義のマイナス評価とも関連する日本の社会の問題がひそんでいるといえよう。
執筆者:網野 善彦
自由という言葉はきわめて多義的に用いられており,定義することは困難であるが,一般的にいえば,あるものが他のあるものによって拘束や制限を受けることがなく,その性質にしたがって活動をなしうる状態を指すといえよう。これらの諸自由のうち,とりわけ問題になるのは人間における自由である。人間は環境に適応するとともにそれを変革していく動物であるとすれば,人間と環境との相互関係はたえず変化するものであり,したがって,いかなる行為ないし行為しないことがどの程度において自由であるのかは,時代と社会と個々人とによって異なるのであって,自由の概念をその内容によって一義的に定義することはできない。さらにいえば,人間と環境との相互関係においては,人間は自由であると同時に自由ではありえないのであって,それは古くから〈自由意志〉論と〈奴隷意志〉論との間で論争が繰り返されてきたことに示されるとおりである。そして,自由がこのような論争的な概念であるとすれば,人間の自由について考えてみるためには,それを思想史の文脈において検討してみることが必要であろう。
なお,語源的には,英語のlibertyは主人-奴隷関係のきずなからの解放を意味するラテン語のlibertasに,またfreedomは親愛関係を示す古い英語frēoに由来するが,近代以降の用語法においては,互換性をもったものとして使われているといえよう。
liberty,freedomの翻訳語としての〈自由〉という語は,アメリカ人宣教師E.C.ブリッジマンが上海で出版したアメリカの歴史書《聯邦志略》(1857)に収められた〈アメリカ独立宣言〉の中に見られる。また,《英和対訳袖珍辞書》(1862)ではlibertyが〈自由,掛リ合ノナキ事〉,freedomが〈免許,免(ゆる)シヲ受タル事,自由〉となっている。このように幕末ころには翻訳語としての自由が定着したかにみえたが,必ずしもそうではなかった。福沢諭吉は《西洋事情》(1866)で〈本文,自主,任意,自由の字は,わがまま放盪にて国法をも恐れずとの義にあらず,すべてその国に居り人と交わりて気兼ね遠慮なく自力だけ存分のことをなすべしとの趣意なり。英語にこれをフリードムまたはリベルチと言う。いまだ適当の訳字あらず〉としている。〈未だ原語の意義を尽すに足らず〉として旧来の自由の意との混合を案じていた。この自由の語を定着させたのは前述の中村正直がJ.S.ミルの《On Liberty》を《自由之理》と翻訳し,この書物が広く読まれたことをとおしてであった。しかし,この時にいたっても中村自身にとって確定した訳語であったわけではない。このように明治初期の啓蒙思想家(ほかに西周,津田真道,加藤弘之など)にとって,翻訳語の〈自由〉は注意深く扱われたのである。
自由の概念が,思想史のうえで自覚的に問題にされ,論争の対象にされるようになったのは,最初に個人意識の確立をみた西欧の近代においてである。中世身分制社会では,自由とは基本的には特権(たとえば貴族の自由,都市の自由など)を意味したのであり,このような身分的諸特権との闘争過程から,自由で平等で自律的な個人という観念が,理念的に形成されてきたのはそれほど古いことではない。宗教改革期にルターは〈キリスト者の自由〉として個人の自由を主張したが,それはあくまでも信仰の世界に限定されたものであり,しかも彼は〈奴隷意志〉論者であった。エラスムス,カステリオなどの人文主義系の〈自由意志〉論者には,個人の自由への萌芽がみられるが,それもまた,身分制社会の壁をのりこえるほど強力な主張ではありえなかったといえよう。
人間の自由の問題が具体的に提起されるのは絶対王政期においてであり,絶対王政的権力が,一方において伝統的身分制社会を切り崩し,他方において宗教を手段として個人の内面を侵そうとするとき,特権諸身分は,中世立憲主義の基盤のうえに,特権としての自由,さらには自由の抑圧に対する抵抗権の主張を強めるし,宗教的自由の主張はまずもって個々人に対する宗教的寛容の要求として提出され,そこから思想・信条の自由,さらには言論・出版の自由などの主張が展開されることになった。これら二つの自由の要求は,方向においてはまったく相反するものであったが,ともにその制度的保障を自然法を基礎とした〈法〉に求めたのであり,このことによって自由は権力から守られるべき〈個人の自由〉として一般化されることになった。ここに〈権力と自由〉という周知の対抗概念が形成されたのであるが,そこでの自由とは,被治者の側からみれば民事的な領域に限定された消極的なものにとどまったし,また治者にとってはその権力への制約を意味するものであった。
しかし,絶対王政期から近代市民社会への展望が開かれるとともに,このような消極的な自由の概念は,より積極的なものへと転換することになる。すなわち,自由は自由権として展開され,〈……からの自由〉とともに〈……への自由〉が強調されるようになるのである。伝統的な価値秩序に代えて新しい秩序を構成しようとしたホッブズは,自由とは〈障害の存在しないこと〉であると定義したが,それは自然権としての消極的自由とともに,契約による秩序の構成という積極的自由をも含意するものであった。そして,この第2の側面は,ロックにおいては,私有財産権の保障を基礎に,政治社会の構成員として秩序を自発的に形成することが〈人間の自由〉であるとされるようになるし,またルソーはよりラディカルに,政治社会の再構成の担い手になることこそが自由を意味するとし,さらに〈自由であるように強制する〉ことまで説くのである。このような自由概念の展開は,君主主権論から国民主権論ないしは人民主権論への転換と表裏をなすものであったといえよう。
ブルジョア革命を経過し,いわゆる近代市民社会が形成されるにしたがって,経済的自由主義(レッセフェール)が強く主張されるようになり,自由はしだいに広範な制度化による保障を受けることになる。19世紀の西欧においては,法と政治との再構成によって,個々人の権利が公的制度の中で機能する体制がほぼできあがったのである。そこで保障された個々人の権利は,次の3種に分類して考えることができるであろう。すなわち,第1は精神の自由であり,それは各自が自己の信仰や意見を抱く自由であるとともに,それを互いに交換する自由でもある。第2は諸自由として表現される物質的自由であり,経済活動の自由,社会的移動の自由,法による〈安全〉の保障などが含まれる。第3は政治的自由であり,それはいわば政治に参加する権利のことであるが,原理的には,代表制をとおして公的な制度を統御する政治権力が,国民に与えられる。そして,これらの諸権利が憲法体系に組み込まれることによって,自由の保障には具体的な形態が付与されたのである。日本国憲法も,国民生活の諸分野における自由を,侵すことのできない権利として保障しているが,それはこのような思想的系譜のうえに立つものといえよう。
近代市民社会を基礎に国民国家が形成されたとき,制度的には,個人の自由は憲法体制をとおしてほぼ完全に保障されることになった。しかし,このような体制のもとでも自由についての問題がなくなったわけではない。すなわち,この体制が,実質的には代表制によるブルジョアジーの支配を意味したとすれば,法の下の平等の原則にもかかわらず,無産者階級の人びとは実は自由から疎外されていたのであり,彼らは個人意識の担い手でさえなかった。いいかえれば,秩序を自発的に構成する公民としての自由と,個人生活を私的に享受する自由とは分裂にさらされ,しかも圧倒的に多数の人びとは,前者に関心を寄せることはほとんどなかったのである。マルクスは,このような疎外された状況からの人間解放によって,真の自由の実現をめざす社会主義を主張したが,この運動のその後の展開,さらには社会主義国の実現によっても,このような傾向が変化することはなかったといえよう。
さらに20世紀に入って,いわゆる大衆社会化状況が進展するとともに,自由の観念はますます拡散していくことになる。すなわち,一方における社会の組織化と集団化,他方における個人の原子化と部分化の進行は,個人と環境との隔たりを拡大させ,これにともなって環境の変革主体としての個人の自由の意識はしだいに失われて,大衆は個人生活に閉じこもるとともに,変革の対象としての公的な環境に対する関心さえも失うようになる。自由の概念は消極的な〈……からの自由〉のみに局限され,E.フロムのいわゆる〈自由からの逃走〉ないしは〈自由であることへの恐れ〉が一般化してくるのである。ナチズムやファシズム,さらにはスターリン主義は,こうした自由の意識についての病理現象の,もっとも極端な表現という側面をもっていたといえよう。
第2次世界大戦における〈デモクラシーの勝利〉は,このような思想状況に変化をもたらすかにみえ,事実,それまで西欧世界に限定されていた立憲的体制による自由の保障は,いっきょに全世界的規模に拡大された。しかし,それは大衆社会化状況の拡大をもともなっていたのであり,したがって,自由の意識における危機を深化させるものでもあった。今日,消極的自由を守るためにも積極的自由の重要性が強調され,また住民自治の運動や自発的集団への積極的な参加が説かれているが,それは環境の変革を指向する個人の自由の再構成をめざすものといえよう。
個人意識の成育をみなかった非西欧社会においては,自由の観念の展開がおくれ,そのことによって問題をはらむことになった。多少とも後進的であったドイツにおいてさえ,自由は〈内面的〉自由の問題に局限される傾向がみられたが,明治維新後に立憲的な体制を輸入した日本においては,それは各個人が積極的に構成していくべきものとしてよりは,むしろ天賦人権的なものとして,したがってまた自足的な個人の自由として把握される傾向が強かった。この伝統は戦後にも及び,しかもそれが大衆社会化状況と重なることによって,自由を保障する制度を自発的に形成していこうとする態度は,あまりみられないといえよう。
また今日,大衆社会化状況の急展開を免れているのは,いわゆる第三世界だけであろうが,ここでも自由の問題は深刻である。これらの国々においては,人間の自由が圧殺されたのは植民地支配のためであるとされ,自由の回復のためにも,国家の統一と独立とをめざすナショナリズムが強調される。しかし,その結果個人意識の成長は妨げられ,しかも強権的・独裁的統合が強行されることになる。したがって,これらの諸国においては,個人の自由の実現は,意識においても制度においても,今後果たされるべき課題として残されているといえよう。
このようにみてくると,今日,自由の観念は危機の様相を深めているが,それは,西欧世界たると第三世界たるとを問わず,避けてとおることのできない問題であることも事実である。
執筆者:有賀 弘
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自由とはまず第一に、強制や束縛を受けずに気ままにふるまえることを意味する。旅に出て自由を味わうといった場合の自由は、こうした「……からの自由」であるが、これは動物や事柄にも適用され、たとえば籠(かご)の鳥は不自由だといったり、韻律に束縛されない詩を自由詩とよんだりする。憲法では、さまざまな事柄に関して個人の自由が保障されているが、これもそうした事柄に関して国家や他人からの不当な干渉を排除するという意味では、強制、束縛からの自由とみることができる。
だが自由には、もう一つ、消極的な「……からの自由」ではなくて、積極的な「……への自由」という意味もある。哲学において選択や決断の自由とよばれるもので、古来この自由は自由意志の問題として論議されてきた。だが「自由意志」については別項で扱うとして、ここで選択や決断の自由を環境や状況との関連でとらえる哲学説に触れると、たとえばシェーラー(1874―1928)は、動物の行動はその環境世界の体制によって一義的に決定されているが、人間は逆に世界に対して無限に公開的に働きかけることができ、ここに人間に独特な自発的自由がみいだされるとする。またニコライ・ハルトマン(1882―1950)によると、人間もまた彼が位置するそのつどの状況によって制約されており、その限りでは人間はまったくの自由ではない。とはいえ、状況は人間をある一つの行為へと決定するのではなく、あれやこれやといった特定のいくつかの行為に関してその選択、決断を強いる。つまり人間は決断へと強制されているが、決断もまた一つの自由である。ハルトマンは、そこで、選択、決断の自由は状況による束縛、拘束と両立しうると考えた。
視点は異なるが、状況内での自由という考えは、サルトルにもみいだされる。サルトルによると、人間はそのつどの状況において時々刻々自らの実存を自由に創造していかなければならない。つまり自由は状況のうちにのみ存し、また状況は自由によってのみ存在する。また選択、決断の自由を本来の自己への自由とみるヤスパースによると、人間の根源的にして実存的な自由は、人間各自がその現存在において自己自身であろうと決意することのうちに存する。「決意のうちで私は自由を経験し、この自由のうちでは選択と自我との分離は不可能であって、私自身がこの選択の自由である」という。なおマルクス主義は人間の疎外からの自由と解放を説くが、その場合にもその根本には人間の全能力の開花を目ざした本来的人間への自由が置かれているといえよう。
[宇都宮芳明]
人間が人間らしく生きていくうえでもっとも基本的な条件は、精神的にも身体的にもいかなるものからも拘束を受けないということである。したがって、自由とはホッブズも述べているようにまず第一にこの「拘束の欠如」と定義づけることができよう。そして、自由が制限されたり侵害されたりすれば、人間はけっして幸福な状態にあるとはいえないのである。
自由が、人間の生存にとって重要であるという考えはギリシア・ローマの時代にもあったが、人間が真に自由を獲得できたのは近代に入ってからである。すなわち、17、18世紀の市民革命期に、ホッブズ、ロック、ルソーなどが、人間は生来、自由で平等な存在であるとして、人間の自由を確保できるような政治社会をつくるように提案して以来、自由の重要性が人々の間で認識されるようになった。
このため近代民主主義国家においては、憲法上、さまざまな人間の自由を保障している。たとえば、「言論・思想の自由」とか「宗教の自由」とかは人間にとってきわめて重要なものであるから、国家権力といえども、それらの自由を制限したり侵害したりできない権利であるとして憲法において保障している。また人を逮捕したり拘禁したりする、つまり人の身体を拘束して自由を奪うような場合には慎重に行われなければならないから、憲法では、「人身(身体)の自由」としてこれらの権利を保障している。さらに、人が労働して形成した財産を国家権力や他人が奪うようなことがあっては社会の安定性は保たれない。憲法において「財産権の保障」という規定が設けられているのはこのためである。これによって人は、自分の労働の成果を自由に処理したり利用したりして快適で安全な生活を送ることができるのである。憲法では、以上に述べたさまざまな自由を「自由権」(「自由権的基本権」)と名づけ、国家権力といえども侵害できない自由として、これらの自由のことを「権力からの自由」ともよんでいる。
ところで、以上に述べた自由も、専制者や独裁者が現れると侵害される危険性がある。そこで、そうした危険性を防止するためには、政治社会に住んでいる人々が自分たちの意志で代表者や政府を選出し自由や権利を守る必要がある。そのため憲法では、人々に「政治に参加する権利」つまり「政治的自由」を保障している。これらの権利は「参政権」ともよばれるが、人々は、この参政権を行使して真に国民の意志を表明できる代表者を選び、彼らに全成員の利益を実現するような法律をつくらせたり、政治を行わせることによって、人々の自由を保障し、そればかりか、新しい自由さえも獲得しようとするのである。この意味で、政治的自由・政治的権利は、人間が自由で快適に生活していくうえできわめて重要なものであるといえよう。そして、このような権利・自由は、「自由権」を補強するものとして、19世紀の30年代から20世紀の中ごろにかけてしだいに各国憲法において確立されてきたのである。
ここで、自由を考えていくうえで見落としてならないものは平等との関係である。フランス革命の旗印に「自由・平等・博愛」というスローガンが掲げられたのはなによりもそのことを物語っている。ところがその後、資本主義経済が発展し高度化していく過程で、少数者に富が集中し、また恐慌や不景気が周期的に繰り返されるなかで、大多数の者が失業・貧困などの悪条件に苦しめられ、ここに経済的・社会的弱者の救済という問題が資本主義国家にとって緊急の課題となった。
マルクスやエンゲルスのような社会主義者たちは、少数者が多数者を組織して生産させ、その利潤や果実を独占的に所有する私有財産制を廃絶し、生産の果実を社会的に共有する経済制度に変えて人間の平等を達成することなしには、人間の自由を真に確立することにはならないと主張した。大多数の者が貧困な状態に置かれ、不安定な生活を強いられていては、本来、自由が目的にしている快適で安全な人間らしい生活は保障されないからである。こうして、第二次世界大戦後、ソ連のほかに、十数か国の社会主義国家がこの地球上に出現したが(もっとも1989年の「冷戦終結宣言」以降、東欧諸国やソ連が社会主義国であることをやめたが)、これらの国々は、マルクスやエンゲルスの唱えた社会主義によってその国づくりを行い、それぞれの憲法においては、自由権や参政権の規定のほかに、とくに平等に関する規定が多数盛り込まれているのが特色といえよう。
これに対し資本主義国家においては、経済制度は変更しないが、その欠陥を修正しつつ自由と平等のバランスを図りながら政治的・経済的安定を実現する方向をとっている。そしてこれらの国々は今日「福祉国家」とよばれている。
では、これらの国々においては、近代的自由の考えをどのように転換させて「福祉国家」への道を歩むことになったのだろうか。これについては、19世紀中葉から末にかけて活躍したイギリスの哲学者トマス・ヒル・グリーン(1836―82)の思想が重要である。当時イギリスでも貧富の差が拡大し、労働者階級は悲惨な状態に置かれていた。そこで弱者救済のために国家や政府が積極的な施策をとることが強く望まれた。その場合、高額所得者に累進税をかけ、それを財源として公立学校を設けたり、さまざまな社会保障政策をとることなどが論議された。しかし、そのような措置は、自由の重要な柱である個人の財産権を不当に制限するものであるとか、政府が経済活動に介入するのは伝統的な自由放任主義に反するものであるとか、主として有産者の側からさまざまな反対論があった。
グリーンはこうした状況において、人間にとってもっとも重要なことは「人格の成長」にあるとし、自由はそのための手段である、と述べた。「人格の成長」とは要するに「人間が人間らしく生きる」、ということである。ところが、今日の社会では、自由を目的とすることによって、かえって多くの人々の自由が阻害されている。しかし、目的は手段に優先するから、「人格の成長」を実現するためには、「自由」が制限されることもやむをえない、というのがグリーンの提言であった。このグリーンの「コロンブスの卵」的な「自由」の観念の転換によって、以後、イギリスの政治は福祉国家の方向へと大きく前進した。
今日、世界の国々の憲法において、社会や公共の利益のためには個人自由の制限もある程度やむなしとする「社会権」(「社会権的基本権」)的規定が盛り込まれているのはそのためである。そして、こうした社会権的考え方を最初に規定した憲法は1919年の「ワイマール憲法」であった。そこでは、たとえば、「経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障する目的をもつ正義の原則に適合しなければならない。この限界内で、個人の経済的自由は、確保されなければならない」(151条1項)、続いて「所有権は義務を伴う。その行使は、同時に公共の福祉に役だつべきである」(同条3項)と規定されている。また日本国憲法第29条「財産権の保障」においても、財産権の保障(自由権)と同時に公共福祉による制限(社会権)の規定が並列されている。したがって、現代国家においては、「自由」と「平等」は離れがたく結び付いているといえよう。
[田中 浩]
『H・J・ラスキ著、飯坂良明訳『近代国家における自由』(1950・岩波書店)』▽『E・フロム著、日高六郎訳『自由からの逃走』(1951・東京創元社)』▽『田中浩著『国家と個人』(1990・岩波書店)』
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… 〈自分自身の(もの)〉だから〈いとしい〉という発想は,ほかにもあり,サンスクリット語〈priya(いとしい)〉〈preman(愛)〉がその例であるが,〈priyā(いとしいもの,形容詞・女性形)〉に対応するものとして,北欧や古代高地ドイツ語の女神名〈Frigg〉〈Frīja〉があり,英語の〈Friday(金曜日)〉に名残りをとどめる。また,〈自分自身の(からだ)〉だから,奴隷でなく〈自由〉だというのが,英語,ドイツ語〈free〉〈frei〉(自由な)の原義であり,〈自分の(側に立つ人)〉というのが,英語,ドイツ語〈friend〉〈Freund〉(友人)の本義である。 ギリシア語〈agapē(愛)〉は,動詞〈agapaō(好意をもつ・愛情をもつ・好む・満足する)〉から,比較的おそく造られた語で,〈性愛〉であることはまれだったので,新約の用語として採用された。…
…彼の福音主義は,さらに広く市民層から農民層にまで及ぶ国民的な世論を獲得するにいたるが,そこには当時急速に発展しつつあった印刷術の力が大きく働いており,ルター自身この手段を存分に活用して,多くの著述や論争文,説教を公にした。とりわけ歴史的に重要な意味をもつのは,20年の夏から秋にかけて次々に書かれたいわゆる三大改革論,《キリスト教界の改善について,ドイツ国民のキリスト教貴族に与う》《教会のバビロン捕囚》《キリスト者の自由》である。 《ドイツ国民のキリスト教貴族に与う》は,ルターが初めてドイツ人としての国民意識に立って,ローマ教皇勢力によるあくどい財政的収奪や,聖職売買,そのほか国民生活を圧迫し正しい信仰をそこなうさまざまな悪弊を列挙し,教会当局者が無能を暴露している現在,統治権力を神にゆだねられた貴族(実際には領邦君主たるドイツ諸侯)に,教会生活全般の改革をたすけるよう呼びかけたものである。…
…同様の例として〈一楽名〉も見られるが,このように広く庶民の間で用いられるにつれて,十楽は楽に力点を置いて理解されるようになる。戦国時代,諸国の商人の自由な取引の場となった伊勢の桑名,松坂を〈十楽の津〉〈十楽〉の町といい,関,渡しにおける交通税を免除された商人の集まる市(いち)で,不入権を持ち,地子を免除され,債務や主従の縁の切れるアジールでもあった市を〈楽市〉〈楽市場〉といったように,〈十楽〉〈楽〉は中世における自由を,十分ではないにせよ表現する語となった。〈楽雑談〉〈楽書〉などはみなその意味であり,織田信長はこの動きをとりこみ,みずから安土(あづち)に楽市を設定している(楽市・楽座)。…
…それらから区別されて,まさしく人間としての人間の内面的なあるべきあり方がその純粋形態において自覚されるにいたるとき,道徳としての道徳という問題が成立する。この問題の最も基本的な原理は自由の問題である。なぜなら,道徳は単なる自然存在の理法とは異なり,人間存在のあるべきあり方に関するものであるが,この当為(べき)は自由を前提にして初めて成り立ちうるからである。…
…そこでは学は自然学ta physika,倫理学ta ēthika,論理学ta logikaという三つに分類された。カントもこの分類の正しさを承認したうえで,自然学と倫理学との関係について,自然学は自然の必然的法則を取り扱うのに対して,倫理学は自由の法則(すなわち当為)を取り扱うというように両者を対照させている。この意味では倫理学は人間存在についてのある包括的・原理的な学である。…
※「自由」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...
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