般若寺(読み)はんにゃじ

精選版 日本国語大辞典 「般若寺」の意味・読み・例文・類語

はんにゃ‐じ【般若寺】

奈良市般若寺町にある真言律宗の寺。山号は法性山。白雉五年(六五四蘇我日向が創建。天平七年(七三五聖武天皇勅筆の大般若経を基底に納めたと伝える十三重石塔を建立。平安中期にもっとも隆盛。元弘の変では護良親王が経櫃に隠れ敵手を逃れたという。鎌倉時代建造の楼門は国宝。通称、文殊さん。

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デジタル大辞泉 「般若寺」の意味・読み・例文・類語

はんにゃ‐じ【般若寺】

奈良市般若寺町にある真言律宗の寺。山号は、法性山。舒明天皇元年(629)、高句麗の僧慧潅えかんの開創と伝える。十三重石塔・笠塔婆がある。楼門は鎌倉時代遺構で国宝。

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日本歴史地名大系 「般若寺」の解説

般若寺
はんにやじ

[現在地名]奈良市般若寺町

奈良坂(般若寺越)の京街道東側に位置。法性山と号し、真言律宗。本尊は文殊菩薩

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔創建〕

創建については諸説あり、寺伝によると舒明天皇元年に高句麗の僧慧灌によって建立されたという。白雉五年(六五四)一〇月に蘇我日向臣が天皇の病気平癒を祈って創建したとする説(「上宮聖徳法王帝説」裏書)もある。近世の「和州寺社記」は聖武天皇が紺紙金泥の宸筆大般若経を十三重石塔基部に納めて建立したとする。鎌倉期の宗性筆記の春華秋月抄(東大寺蔵)は、東大寺別院として行基が開基して聖武天皇本願の由を伝える。天平勝宝八年(七五六)の東大寺山堺四至図(正倉院蔵)に般若寺と思われる寺が記載され、古図は虫食いで不明ながら般若寺と読めるという。境内各所から奈良・平安時代前期の古瓦を出土するが、天平一四年(七四二)一〇月三日の金光明光写経所牒(正倉院文書)をはじめ、八―九世紀の古文書に般若寺が散見するが、異論もあって当寺とは決めがたい。「三代実録」貞観五年(八六三)九月二六日条に「添上郡般若寺近側山十町之内」とあり、当寺の存在が確認できる。

〔平安時代〕

空海が当地で般若心経一千巻を書写し、文殊呪五洛叉を誦したという。寛平七年(八九五)頃、聖宝の弟子観賢が般若寺を中興したとも(「般若寺文殊縁起文字」寺蔵)、彼が般若寺を創建したとも伝える(元亨釈書)。「今昔物語集」巻一一には「般若寺ノ観賢僧正ト云フ人、権ノ長者ニテ有ケル時、大師ニハ曾孫弟子ニゾ当ケル」、巻一九には「今ハ昔、般若寺ト云フ寺ニ覚縁律師ト云フ人住ケリ。

般若寺
はんにやじ

[現在地名]平生町大字宇佐木

大星おおぼし(三四一・八メートル)の北峰続き、神峯しんぽう山の頂上にあって瀬戸内海を眺望することができる。真言宗御室派。神峯山と号し本尊は大畠の瀬戸おおばたけのせとの海中より出現したと伝える聖観音。近世は伊保庄いほのしよう(現柳井市)の内であった。

「注進案」によれば用明天皇の時の開創と伝え、開山は高麗僧恵慈。初めは三論宗、九世真雅の時に真言宗に転じたという。また寺伝は、用明天皇の妃般若姫の菩提のため、勅願により豊後国の満野長者が建立したという。

般若寺
はんにやじ

[現在地名]鶴岡市日吉町

日吉ひよし町の南部にある。近世には高畑たかばたけの東端に位置し、南は般若寺前はんにやじまえ、東は六軒小路ろつけんこうじ。大宝山と号し、曹洞宗。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、文治元年(一一八五)藤原秀衡が両親の菩提と領国の安穏を祈ってのちの覚岸寺かくがんじ村の地に一寺を建立。円仁作とされる釈迦牟尼仏と、定朝作とされる阿弥陀如来を本尊とし、大般若経を納めたことから般若寺と号した。また付近に三千貫文の地を寄進されたという。その後川欠けで荒廃したため武藤氏により大宝寺だいほうじ城の北へ移され、鎌倉建長寺の通宝独達が住持として招かれたと伝え、当時は臨済宗であったらしい。来迎寺年代記(伊藤文書)によれば、天文元年(一五三二)大宝寺城が攻略された際当寺も兵火により焼失した。

般若寺
はんにやじ

[現在地名]真岡市田町

五行ごぎよう川左岸、町の最北部にあり、大前山金剛院と号し天台宗、本尊阿弥陀如来。寺伝によれば貞観四年(八六二)、慈覚大師円仁が東郷ひがしごう古聖こひじり大前おおさき神社別当寺として一寺を創建し、金剛院千妙せんみよう寺と称したのに起こるという。天文年中(一五三二―五五)、芳賀高定はこれを現在地に移し、寺号を大前山般若寺と改め、弘範を住職とした。寛永四年(一六二七)真岡藩主稲葉正成は除地三五石を寄進するとともに、堂宇の修築を行い、以後、稲葉氏累代は父祖の先例として寄進を続けた。

般若寺
はんにやじ

[現在地名]土浦市宍塚

宍塚ししつかの北側にある。真言宗豊山派。竜王山釈迦院と号し、本尊は大日如来。寺伝によると天暦元年(九四七)に平将門の次男将氏の娘安寿姫の開基という。初めは台地上にあったが、平安末期頃に現在地に移されたといわれ、それを裏付けると思われる布目瓦が寺の西側の市立宍塚小学校から大量に出土している。

鎌倉中期に西大寺流の律の寺となり、弘安六年(一二八三)五月吉日の釈迦堂縁起之事(法泉寺文書)に「常陸国信太庄宍塚村竜王山般若寺釈迦堂建立仕候事、(中略)般若寺七堂加修理」とみえ、大規模な伽藍があった。釈迦堂は木造釈迦如来立像(県指定文化財)を本尊とし、江戸時代に宍塚出身の三島検校が江戸護国ごこく寺の建物を移築して再興したもので、昭和五三年(一九七八)まで存在したが(土浦市史)、現在は門のみ残る。

般若寺
はんにやじ

[現在地名]相良町大沢

若一にやくいち王子神社の南西方にある。円覚山と号し、曹洞宗、本尊は聖観音。文明元年(一四六九)大興だいこう寺四世慶弘の法嗣珠巌玄珍により開創された(相良史)。永正一五年(一五一八)三月九日の今川氏親判物写(般若寺文書)に相良庄般若寺とみえ、氏親は当寺に寺社領本増分を安堵し諸役を免許している。慶長八年(一六〇三)徳川家康からその村の内で一六石五斗の寺領を与えられ、この寺領は幕末まで継承された(「寛文朱印留」など)

般若寺
はんにやじ

[現在地名]渥美町伊川津 泉

伊川津いかわづの南端雨乞あまごい山の麓小丘上にある。神護山と号し、曹洞宗。本尊十一面観世音菩薩。境内九〇〇坪。「三河国名所図絵」に「井河津村般若寺、文徳帝の皇子八条院陵。此処に十三年の住居、此時吉良に兼光兼守と云二人ありて其貢物を奪ふ。こゝに於て合戦あり」と記され、当寺元禄八年(一六九五)の棟札裏書の解文で、皇子八条院が賊徒平定のために建立したと伝える。

般若寺
はんにやじ

[現在地名]江南市小折

村上山と号し、曹洞宗。本尊千手観世音。境内一千八五坪。明徳二年(一三九一)僧大雲の創建。開山は大等一祐。文明五年(一四七三)中興開山は僧昌山で真言宗。この時に薬師堂建立(明治三九年再建)。永禄年中(一五五八―七〇)生駒氏が再建し、曹洞宗久昌きゆうしよう寺末となる。

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改訂新版 世界大百科事典 「般若寺」の意味・わかりやすい解説

般若寺 (はんにゃじ)

奈良市にある真言律宗の寺。山号は法性山。寺の北は奈良坂,南はかつて般若坂で,奈良山の名で知られる佐保丘陵の東方に位置し,寺の西面を通る京街道に面して楼門(国宝)が建っている。般若寺を称する寺は往古より多く,創建に関しても異説が多い。境内から奈良時代の古瓦が出土するので,奈良後期になんらかの寺院があったらしい。863年(貞観5)9月,添上郡般若寺付近の山林の伐採を禁止した《三代実録》の記事が当寺の初見である。鎌倉時代に東大寺僧良恵が十三重石塔(重要文化財)の造立を計画,1253年(建長5)ころ完成した。その後西大寺の叡尊により復興され,67年(文永4)に仏殿,僧坊,鐘楼,食堂などが建てられ,西大寺の末寺となった。1269年3月には当寺西南野で非人6000余人に無遮大会(むしやだいえ)を行い,以後室町時代に入ってもしばしば救済事業を行っている。1475年(文明7)に筒井舜覚の陣営となって堂舎が大破し,90年(延徳2)には文殊堂地蔵堂などを焼失,1567年(永禄10)にも三好・松永の戦闘の場となり再度焼失した。近世の寺領30石。1667年(寛文7)には文殊堂(現,本堂)が再建された。1964年十三重石塔が解体修理され,奈良時代の銅造如来立像や鎌倉時代の水晶五輪塔,金銅五輪塔などが発見された。これら十三重石塔内納置品とともに,寺宝として文殊菩薩騎獅像,銅造薬師如来立像,寺門扁額などがあり,境内には宋人伊行吉の建立した石造笠塔婆2基が立ち,いずれも重要文化財に指定されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「般若寺」の意味・わかりやすい解説

般若寺
はんにゃじ

奈良市般若寺町にある真言(しんごん)律宗の寺。法性山(ほっしょうざん)と号する。本尊は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)。俗に文殊さんともよばれる。625年(推古天皇33)高句麗(こうくり)僧慧灌(えかん)の創建と伝える古刹(こさつ)で、654年(白雉5)蘇我日向臣(そがのひむかのおみ)が孝徳(こうとく)天皇の病気平癒を祈願して伽藍(がらん)を建立、さらに735年(天平7)に聖武(しょうむ)天皇の勅命により行基(ぎょうき)が堂塔を造営、鬼門鎮護の定額(じょうがく)寺に定められた。895年(寛平7)ころ観賢僧正(かんけんそうじょう)が中興、学問寺の名を高めたが、1180年(治承4)源平の兵火によりすべてを焼失した。鎌倉時代に入り石造十三重塔(国重要文化財)が造営され、さらに叡尊(えいぞん)が本堂を再建、1267年(文永4)丈六の文殊菩薩像を本尊として安置した。現本尊の文殊菩薩騎獅(きし)像(国重要文化財)は1324年(正中1)後醍醐(ごだいご)天皇親政を祈願して康俊(こうしゅん)・康成(こうせい)二仏師によりつくられたもの。般若寺と南朝との結び付きは深く、南北朝の争いで大塔宮護良(もりよし)親王が唐櫃(からびつ)に身を隠して難を逃れた話は有名。室町時代に文殊堂、地蔵堂などを焼失、さらに1567年(永禄10)松永弾正(だんじょう)と三好(みよし)3人衆の争いで中心伽藍を失い衰微した。楼門は鎌倉時代の遺構で国宝。そのほか宋(そう)の石工伊行吉(いぎょうきつ)作の笠塔婆(かさとうば)二基、経蔵(きょうぞう)、寺門勅額など国重要文化財指定の寺宝が多い。また1964年(昭和39)の十三重石塔解体修理に際して塔内から出現した納入物は一括して国重要文化財に指定されている。

[大鹿実秋]

『『古寺巡礼 奈良5 般若寺』(1957・淡交社)』

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百科事典マイペディア 「般若寺」の意味・わかりやすい解説

般若寺【はんにゃじ】

奈良市般若寺町にある真言律宗の寺。654年孝徳天皇の病気平癒を祈って蘇我日向臣が建立したと伝えるほか,諸説ある。叡尊(えいぞん)が復興し,丈六の文殊菩薩像を安置し,真言律宗とした。聖武天皇が《大品(だいぼん)般若経》を筆写して納めたという十三重塔(現存のは鎌倉期の作),般若寺型灯籠(とうろう),笠塔婆などがある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「般若寺」の意味・わかりやすい解説

般若寺
はんにゃじ

奈良市にある真言律宗の寺。白雉5 (654) 年孝徳天皇の病気平癒を祈願するため蘇我日向臣が建立。延喜年間 (901~923) 観賢僧正が再興。治承4 (1180) 年兵火により損壊,建久6 (95) 年再修。のちさらに炎上,叡尊僧正が再興し文殊菩薩を安置。寛文年間 (1661~73) に金堂を再建したが,昔日の威容はない。焼失を免れた楼門 (鎌倉時代前期) は国宝に指定。

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デジタル大辞泉プラス 「般若寺」の解説

般若寺

奈良県奈良市にある寺院。真言律宗。山号は法性山。創建年は諸説あり不詳だが、一説には7世紀、高句麗の僧・慧潅(えかん)の開創。本尊は文殊菩薩。楼門は国宝。コスモスなど花の名所で、コスモス寺とも呼ばれる。

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世界大百科事典(旧版)内の般若寺の言及

【奈良坂】より

…このうち前者は平安時代を通じて都と奈良(南都)とを結ぶ最も重要な路線をなしつつ〈奈良坂〉の名で呼ばれた。また後者は俗に〈般若寺(はんにやじ)越え〉とか〈般若道〉とかと呼ばれつつ,平安中期ころからしだいにその重要性を増してき,鎌倉時代に入ると前者に代わって〈奈良坂〉の名で呼ばれるようになった。奈良坂そのものに,そのような歴史的変遷があったので,古代から中世にかけての文学・説話に現れる奈良坂のルートについては注意を要する。…

※「般若寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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