良寛(読み)りょうかん

精選版 日本国語大辞典 「良寛」の意味・読み・例文・類語

りょうかん リャウクヮン【良寛】

江戸後期の禅僧。歌人。越後国新潟県出雲崎の人。俗名山本栄蔵。号は大愚。諸国を行脚し各地に漂泊転住、寛政九年(一七九七)故郷の国上山五合庵に身を落ち着ける。書にすぐれ詩にも通じた。生涯著述は行なわなかったが、弟子貞心尼の編んだ歌集「蓮(はちす)の露」などがある。宝暦八~天保二年一七五八‐一八三一

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デジタル大辞泉 「良寛」の意味・読み・例文・類語

りょうかん〔リヤウクワン〕【良寛】

[1758~1831]江戸後期の曹洞宗の僧・歌人。越後の人。号、大愚。俗名、山本栄蔵。備中びっちゅう円通寺の国仙和尚に師事。のち、諸国を行脚し、生涯寺を持たず、故郷の国上山くがみやまの五合庵に隠棲いんせいして独自の枯淡な境地を和歌・書・漢詩に表現した。弟子の貞心尼編による歌集「はちすの露」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「良寛」の意味・わかりやすい解説

良寛
りょうかん
(1757/1758―1831)

江戸後期の歌人、漢詩人。越後(えちご)出雲崎(いずもざき)町(現新潟県出雲崎町)の名主兼神職の橘(たちばな)屋山本左門泰雄(やすお)の長子として生まれた。母は佐渡相川(あいかわ)山本庄兵衛の女(むすめ)。幼名栄蔵、のち文孝(ふみたか)、字(あざな)は曲(まがり)、剃髪(ていはつ)して良寛、大愚(たいぐ)と号した。18歳のとき一時家を継いだが、同年、突如、隣町尼瀬(あまぜ)町曹洞(そうとう)宗光照(こうしょう)寺の玄乗破了和尚(げんじょうはりょうわじょう)の徒弟となり出家して良寛と称した。1775年(安永4)7月備中(びっちゅう)国玉島(たましま)(岡山県倉敷市)円通寺(えんつうじ)の国仙(こくせん)和尚が光照寺滞在中感銘し、随行して玉島に赴き十数年間師事する。中国、四国、九州を行脚(あんぎゃ)し、京都から高野山(こうやさん)に上り40歳を過ぎてから越後に帰った。

 越後へ帰国後は郷本(ごうもと)(現長岡(ながおか)市寺泊(てらどまり)郷本)、中山、寺泊を転々し、それよりさらに国上(くがみ)山山腹の草庵五合(そうあんごごう)庵にひとりで住み、ここで15、6年を過ごした。のち、69歳国上山麓(さんろく)の乙子(おとご)神社境内に庵(いおり)をつくって移ったが、老衰のため、三島(さんとう)郡島崎村(現長岡市島崎)の豪商能登(のと)屋木村元右衛門邸内の庵に移って供養を受けた。そのころ若い尼貞心(ていしん)尼の来訪を受け、没するまで密接な交遊があった。5年目の天保(てんぽう)2年正月6日ここで没した。墓は長岡市真宗大谷派隆泉(りゅうせん)寺境内木村家墓地内にある。

 良寛は僧ではあっても生涯寺をもたず無一物の托鉢(たくはつ)生活を営み位階はない。人に法を説くこともせず、多くの階層の人と親しく交わった。子供を好み、手毬(てまり)とおはじきをつねに持っていてともに遊んだ。正直で無邪気な人であって、人と自然を愛して自然のなかに没入していた。無一物でありながら、震えている乞食(こじき)に着物を脱いで与えたこともあるなど、自作の詩歌や『良寛禅師奇話』(解良栄重(けらよししげ)著)などに伝える。

 彼は、歌と詩と書に優れていて、多くの作品を残した。どれも一流であるが、どれにも師がなかったらしい。歌人としての良寛がもっとも広く知られているが、和歌の師は『万葉集』で、人に借りてこれを愛読し、進んでその影響を受けた。越後へ帰国前のわずか十数首であるが残っている歌には『万葉集』の影響はみられない。帰国後の歌には『万葉集』の語句を多く使っているが、それは模倣したのではなく、『万葉集』を愛読のあまり、つい口をついてその語句が出るようになり、『万葉集』即良寛という境地になったのであろう。彼の歌は正直で純真である。人間と自然に対して純真な愛を感じ、その心のままを正直に平易に詠み、個性が赤裸々に出て人を感動させる。

 漢詩の才にも恵まれ、自筆の『草堂詩集』(未刊)、『良寛道人遺稿』がある。良寛の書は古典を正確に学び、人格がにじみ出ていて高く評価され愛好する人が多い。歌集の自筆稿本はなく、没後に弟子貞心尼編『蓮(はちす)の露』、村山半牧編『良寛歌集』、林甕雄(かめお)編『良寛和尚遺稿』などがあるにすぎない。まとまった歌集としては、『良寛歌集』がようやく1879年(明治12)に出版された。多くの人から親しまれ愛された良寛の遺跡として、生家跡に良寛堂、国上山五合庵跡に小庵、乙子神社の庵跡には良寛の詩と歌を刻んだ碑が建てられ、島崎の木村家邸内には遷化(せんげ)跡の標示と良寛遺宝堂、出雲崎町に良寛記念館がある。

[辻森秀英]

 飯乞(いひこ)ふと我(わ)が来(こ)しかども春の野に菫(すみれ)つみつつ時を経にけり

『東郷豊治編著『良寛全集』全1巻(1959・東京創元社)』『吉野秀雄校注『日本古典全書 良寛歌集』(1952・朝日新聞社)』『入谷義高著『禅の古典12 良寛詩集』(1982・講談社)』『相馬御風著『歴代歌人研究10 良寛和尚』(1938・厚生閣)』『良寛全集刊行会・谷川敏朗編著『良寛全集 別巻1 良寛伝記・年譜・文献目録』(1981・野島出版)』『小島正芳著『良寛の書の世界』(1988・恒文社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「良寛」の意味・わかりやすい解説

良寛 (りょうかん)
生没年:1758-1831(宝暦8-天保2)

江戸後期の禅僧にして歌人,書家。本名は山本栄蔵,のち文孝。字は曲(まがり)。号は大愚(たいぐ)。現在の新潟県,越後の出雲崎で代々名主と神官を兼ねる旧家の長男として生まれた。屋号は橘屋,父泰雄(通称次郎左衛門)は俳号を似南と号する近在では知られた俳人であった。長じて名主見習役になったが,1775年(安永4)18歳の年に隣村尼瀬の曹洞宗光照寺に入って剃髪,良寛を名のり,大愚と称した。79年光照寺に来た備中国玉島(現,岡山県倉敷市)円通寺の国仙の得度を受け,国仙に従って円通寺へ赴いた。以降11年間,同寺で修行し,90年(寛政2)に国仙より〈附良寛庵主〉の偈を受けた。翌年国仙が入寂したため,良寛は諸国行脚の旅に出,以降6年間,各地を経巡った。父似南が京都桂川に身を投げて死んだのはこの行脚の旅の最中(1795)であったが,良寛は上洛して七七日の法会に参列している。行脚の旅を切り上げて越後に帰郷したのは,父の死の年,あるいはその翌年かとされる。帰郷した良寛は,出雲崎近辺の草庵を転々とする。97年から1802年(享和2)までの5年間,および1804年(文化1)から16年までの12年間,合わせて17年は,国上(くがみ)山の真言宗国上(こくじよう)寺の五合庵に住んだ。農民と親しく接触し,子どもたちとの交流のエピソードを残したのは,帰郷後のこの時代のことである。その後,江戸に出たり,東北地方を行脚したりもした。26年(文政9)69歳の折,三島郡島崎の能登屋木村元右衛門方に移った(木村家は現在,土蔵を改造し,良寛記念館となっている)。そして翌年,70歳の年に29歳の貞信尼と出会った。貞信尼は越後長岡藩士奥村五郎兵衛の次女で,医師関長温と結婚したが死別,23歳で尼となっていた。短歌をよくし,良寛との贈答歌も多い。良寛没後も長生きし,1872年(明治5)に75歳で没した。貞信尼は弟子として,女性としてひたすらな愛を良寛にささげ,良寛もまた晩年の愛弟子を深く愛した。彼らの恋愛は,貞信尼が編んだ《蓮(はちす)の露》(1835)に収められた2人の贈答歌によって知ることができる。貞信尼は長岡から5里の道を通ったのだった。けっして泊まることはなく,彼女が泊まったのは良寛が死去した晩だけだったという。貞信尼との出会いは,晩年の良寛の書や歌に,明るさと華やぎとをもたらしたのだった。1831年(天保2)1月6日,前年の秋にわずらった重い痢病(赤痢の類)がもとで,貞信尼らに介抱されながら円寂。

 良寛にはまとまった家集はなく,前述の《蓮の露》のほかに自選自筆歌稿《布留散東(ふるさと)》があるだけで,両者合わせても200首ほどにしかならない。ただし,遺墨として多くの歌を知ることができ,現在1400首ほどの作が知られている。万葉風と評されるが,書と同様にその作風は自由自在である。
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朝日日本歴史人物事典 「良寛」の解説

良寛

没年:天保2.1.6(1831.2.18)
生年:生年不詳
江戸後期の歌人,漢詩人。幼名栄蔵。越後国(新潟県)三島郡出雲崎の名主橘屋山本左門泰雄(伊織,号以南)の子として生まれる。享年73,74歳の両説が有力で,いずれも決め手に欠ける。誕生月を12月とする説も根拠不明。生年不詳とする所以である。以下,良寛の事蹟はさまざまな伝説,推測の中に埋没していて,事実を基に編年体の伝を立てるのは甚だ困難である。明和7(1770)年ごろに大森子陽の塾に入門し儒学を学ぶ。その後名主見習役に就いたが,実務家に適さない性格から役をなげうち,国仙和尚に従って備中国玉島(岡山県)の円通寺に向かった。出家の時期は不詳。またその後の事蹟も明らかではない。寛政8(1796)年ごろに帰郷,その後は故郷周辺を転々として生涯を終えた。弟子の貞心尼ほか周囲の人物の間接的な証言が,しかも断片的にしか伝わらないため,良寛の実像は今もって明らかではなく,生前すでに伝説的存在となった。 和歌や漢詩を非常に多く書き与えたためか,遺墨類はおびただしく,しかも重複するもので小異のある作品が多く,成立年代の考証は困難を極める。後人の編纂による詩歌集に拠らざるを得ず,自ら著述を残そうとしなかったこともあり,客観的な作品研究の余地がほとんどないのも特徴である。人間良寛の魅力があまりに大きく,評者,論者の理想とする良寛像が容易に築かれたため,推測による虚像が現実の素顔を覆ってしまった。歌人の面に限っても,その詠作活動があまりにも個人的で,歌壇史的究明が不可能なため,近世和歌史上に位置づけられない存在となっている。全集数種,研究書は膨大に存する。<参考文献>良寛全集刊行会『良寛伝記・年譜・文献目録』(『良寛全集』別巻1),宮栄二編『良寛研究論集』

(久保田啓一)

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百科事典マイペディア 「良寛」の意味・わかりやすい解説

良寛【りょうかん】

江戸後期の禅僧,歌人,書家。俗名山本栄蔵。号は大愚。越後出雲崎の名主兼神職の子に生まれた。18歳で出家,22歳ころから国仙和尚に従い備中玉島円通寺で10余年修業。その後各地に草庵を結び,47歳のとき越後国上(くがみ)山の五合庵に入った。生涯,寺をもたず托鉢によって生活し,法を説かずに感化を与え,郷党の深い尊信を受けた。《万葉集》を愛し,格調高く,しかも自在純真な歌を読み,書は懐素を慕って風韻に富んでいる。全集,歌集のほか評伝も多い。
→関連項目出雲崎[町]相馬御風分水[町]万葉調吉野秀雄

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「良寛」の意味・わかりやすい解説

良寛
りょうかん

[生]宝暦8(1758).越後,出雲崎
[没]天保2(1831).1.6. 越後,島崎
江戸時代後期の曹洞宗の僧,歌人。越後の名主の長男。名は栄蔵,のち文孝。字は曲 (まがり) 。安永4 (1775) 年あるいは同9年出家,大愚良寛と名のる。曹洞宗光照寺から備中玉島の円通寺に行き,国仙和尚のもとで 12年ほど修行し,国仙の死後諸国行脚をして帰国。国上 (くがみ) 山五合庵,国上山麓の乙子神社境内の草庵,島崎村の能登屋木村氏の邸内別舎などを転々,かたわら和歌に親しんだ。歌風は平明,率直な万葉調で,約 1200首が残る。長歌も知られる。文政9 (1826) 年若い貞心尼が弟子入りし,師弟の交情厚く贈答歌も多い。中央歌壇との交渉がなく,生前は一般には知られなかったが,明治末期~大正に評価が高まった。和歌のほか漢詩,書にすぐれる。作品に,和歌『布留散東 (ふるさと) 』 (自筆歌稿) ,『蓮の露』 (没後貞心尼編) ,漢詩『草堂集』 (2巻) ,『良寛道人遺稿』など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「良寛」の解説

良寛
りょうかん

1758.12.-~1831.1.6

江戸後期の漢詩人・歌人。禅僧。越後国出雲崎の名主山本泰雄の長男。幼名栄蔵。文孝(ふみたか)を名のる。良寛は剃髪後の名。通称作左衛門。字は曲(まがり)。五合庵(ごごうあん)・大愚(たいぐ)と号す。13歳頃,儒者大森子陽に就学,のち光照寺の玄乗破了に参禅。22歳のとき備中国玉島円通寺の大忍国仙について同寺に赴き,1790年(寛政2)師から印可の偈(げ)をうけた。その後は諸国を行脚し,47歳で越後国国上(くがみ)山の中腹五合庵に定住した。天性の詩才に恵まれて詩・歌に秀で,書は独自の光彩を放って珍重される。奇行で知られ,200近い逸話が伝わる。歌集「布留散東(ふるさと)」「蓮の露」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「良寛」の解説

良寛 りょうかん

1757/58-1831 江戸時代中期-後期の僧,歌人,書家。
宝暦7/8年生まれ。曹洞(そうとう)宗。越後(えちご)(新潟県)出雲崎の名主の子。備中(びっちゅう)(岡山県)円通寺の国仙の法をつぐ。のち帰郷して国上(くがみ)山の五合庵にすみ,托鉢の合間に詩歌や書をたのしんだ。詩集に「草堂集」,歌集に弟子の貞心尼編「蓮(はちす)の露」がある。天保(てんぽう)2年1月6日死去。74/75歳。俗名は山本栄蔵。字(あざな)は曲(まがり)。号は大愚(たいぐ)。
【格言など】うらを見せおもてを見せて散るもみぢ(辞世)

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旺文社日本史事典 三訂版 「良寛」の解説

良寛
りょうかん

1758〜1831
江戸後期の歌人・禅僧
俗称山本栄蔵。越後(新潟県)の人。出家して諸国巡歴ののち帰郷,人びとに敬愛され,奇行が多く,200近い逸話が伝わる。和歌・俳句・詩・書にすぐれ,特に万葉調の和歌で聞こえ,『蓮 (はちす) の露』『僧良寛歌集』『良寛漢詩集』がある。

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とっさの日本語便利帳 「良寛」の解説

良寛

しかし、災難に逢[あう]時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるヽ妙法にて候。\良寛
禅僧(一七五八~一八三一)。

出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報

367日誕生日大事典 「良寛」の解説

良寛 (りょうかん)

生年月日:1758年10月2日
江戸時代中期;後期の歌人;漢詩人
1831年没

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