若槻 礼次郎(読み)ワカツキ レイジロウ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「若槻 礼次郎」の解説

若槻 礼次郎
ワカツキ レイジロウ


肩書
第25・28代首相,民政党総裁,貴院議員(勅選)

旧名・旧姓
旧姓=奥村

別名
雅号=克堂

生年月日
慶応2年2月5日(1866年)

出生地
出雲国松江(島根県松江市雑賀町)

学歴
東京帝大法科大学仏法科〔明治25年〕卒

経歴
18歳の時叔父養子となる。明治25年大蔵省入り。主税局長を経て、39年・41年大蔵次官。44年勅選貴院議員(昭和22年5月まで)。大正元年12月第3次桂内閣、3年第2次大隈内閣の蔵相、13年加藤内閣の内相をつとめ、治安維持法、普通選挙法を制定。この間、立憲同志会を経て、5年憲政会に入り、15年同会総裁となって第1次若槻内閣を組閣したが、幣原外交への批判に金融恐慌が重なって昭和2年4月総辞職。同年6月憲政会と政友本党の合同による立憲民政党結成で同党顧問。5年ロンドン軍縮会議に首席全権として出席、海軍軍令部の反対を押し切って条約に調印した。6年男爵。同年民政党総裁となり再び首相に就任するが、不拡大方針を貫けず、満州事変勃発後辞職。9年民政党総裁も辞任。以後重臣として反東条運動などを展開した。

没年月日
昭和24年11月20日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「若槻 礼次郎」の解説

若槻 礼次郎
ワカツキ レイジロウ

大正・昭和期の政治家,男爵 首相;民政党総裁;貴院議員(勅選)。



生年
慶応2年2月5日(1866年)

没年
昭和24(1949)年11月20日

出生地
出雲国松江(島根県松江市雑賀町)

旧姓(旧名)
奥村

別名
雅号=克堂

学歴〔年〕
東京帝大法科大学仏法科〔明治25年〕卒

経歴
18歳の時叔父の養子となる。明治25年大蔵省入り。主税局長を経て、39年・41年大蔵次官。44年勅選貴院議員(昭和22年5月まで)。大正元年12月第3次桂内閣、3年第2次大隈内閣の蔵相、13年加藤内閣の内相をつとめ、治安維持法、普通選挙法を制定。この間、立憲同志会を経て、5年憲政会に入り、15年同会総裁となって第1次若槻内閣を組閣したが、幣原外交への批判に金融恐慌が重なって昭和2年4月総辞職。同年6月憲政会と政友本党の合同による立憲民政党結成で同党顧問。5年ロンドン軍縮会議に首席全権として出席、海軍軍令部の反対を押し切って条約に調印した。6年男爵。同年民政党総裁となり再び首相に就任するが、不拡大方針を貫けず、満州事変勃発後辞職。9年民政党総裁も辞任。以後重臣として反東条運動などを展開した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「若槻 礼次郎」の解説

若槻 礼次郎 (わかつき れいじろう)

生年月日:1866年2月5日
大正時代;昭和時代の政治家。内閣総理大臣;憲政党総裁
1949年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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