茶屋町(読み)ちゃやまち

精選版 日本国語大辞典 「茶屋町」の意味・読み・例文・類語

ちゃや‐まち【茶屋町】

〘名〙
① 茶屋が軒を並べている所。茶屋の多い町。
浮世草子・色里三所世帯(1688)下「朝とく宿を出て茶屋町(チャやまち)を見わたし」
② 遊里。色町。
洒落本・秘事真告(1757頃)堀江の相「外の遊所(チャヤマチ)とは格別の仕入」

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デジタル大辞泉 「茶屋町」の意味・読み・例文・類語

ちゃや‐まち【茶屋町】

茶屋が軒を連ねている所。茶屋の多い町。
遊里。色町。

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日本歴史地名大系 「茶屋町」の解説

茶屋町
ちややまち

[現在地名]金沢市東山ひがしやま一丁目

河端かわばた町と四丁三番しちようさんばん町の境から東に続く通りを挟む両側町で、途中何本かの小路をもつ。南東は明王院みようおういん門前、南は観音かんのん町、北は八幡はちまん町。町名は「市外の原野」だった頃、茶店が置かれたことによるという(金沢古蹟志)。貞享二年寺社由緒書上には当山派の山伏光重坊・善性坊・円力坊が当町地子地に居住しているとみえ、元禄九年(一六九六)の書上(「片岡孫作筆録」加越能文庫)に地子町とある。なおかつて町内に愛宕山明王院があったためか、同書上には当町と並んで愛宕下あたごした町の名が載るが、のちには愛宕下茶屋町と合せ称された(金沢古蹟志)

茶屋町
ちややまち

[現在地名]函館市弥生町やよいちよう

明治五年(一八七二)二月に一町として公認された町で(同年「御達留」市立函館図書館蔵、「事業報告」第一編)、近世には山ノ上やまのうえ町の小名であったと考えられる(「蝦夷日誌」一編)かた(北東側)と山ノ上町(南西側)の間を走る通りに沿い、南東は梅ヶ枝うめがえ町、北西は神明横しんめいよこ町の通りをもって神明社の境内に限られる。函館沿革図の安政三年(一八五六)図に町名がみえ、万延元年(一八六〇)箱館全図には「茶ヤ町」とある。近世後期から明治初年にかけて、山ノ上遊廓の中心地として栄え、多くの茶屋が集まっていたことが町名の由来。

茶屋町
ちややまち

[現在地名]鼎町上山・下山

やま村の北側、松川端に東西に細長く発達した在郷町飯田城下から松川を渡って南西方向へ伸びる三州(伊那)往還と南東方向に伸びる遠州往還並びに伊久間道いくまみちを結ぶ道筋に沿って発達した。三州往還寄りを上茶屋かみちやや、遠州往還寄りを下茶屋とよぶ。「茶屋町」の呼称は宝永(一七〇四―一一)頃からで、それ以前は「川原町」とよばれていたという(鼎町誌)

「飯田万年記」の享保(一七一六―三六)頃の記事に「茶屋町松川端上下山村ノ内ニテ古来ヨリ段々建」とあることから、茶屋町の起源は農村経済の繁栄する元禄(一六八八―一七〇四)頃までさかのぼると考えられる。

茶屋町
ちややまち

[現在地名]青森市茶屋町・栄町一丁目

作道つくりみち浪打なみうちの一部で、作道村の支村であったが、青森町から野内のない浅虫あさむし村へ通ずる街道のつつみ川渡河地として発達した。

菅江真澄は「外が浜つたひ」天明八年(一七八八)七月七日条に「原別、作道などの村をへて、群松のあるを五本松とかいひて名だたり、茶屋町といふ処より、塘川とていと大なる流に長橋をかけたり」と書いた。明治初年の「新撰陸奥国誌」に「本村の西十八丁、堤川の鰭にあり。青森の市街と一河の流を隔て、南北二区に分れ、北の区旧の南部街道にして市店あり。

茶屋町
ちややまち

[現在地名]中区丸の内まるのうち二丁目

大和やまと町の東、両替りようがえ町の西に位置し、長者ちようじや町筋とほん町筋との間の一丁。慶長年間(一五九六―一六一五)開府の町割とともに誕生。呉服所茶屋中島氏が邸宅を構えたので、屋号を町名とした。清須きよす越しの町ではない(蓬左遷府記稿)。氏神は那古野なごや神社。城郭本町門、官庁街の片端かたはに近く、幹線道路本町筋にも接し、優れた地理的位置と高い町格を誇る。

茶屋町
ちややちよう

[現在地名]新庄市北町きたまち中道町なかみちまち

鍛冶かじ町から直角に北に折れ、太田おおた方面へ続く城下の北の入口。西裏に茶屋町裏町が並行している。延享三年(一七四六)の家数一〇、宝暦一一年(一七六一)の家数二七、天明八年(一七八八)の家数二五・人数九〇、馬一、天保九年(一八三八)の家数二六・人数一二八(新庄城下町の研究)。「新庄寿永軒見聞集」によれば、往来の人々の休む所で、餅・麺類・酒肴・菓子が名物で、諸人土産を売買する。

茶屋町
ちややちよう

東山区正面通本町東入

南北の大仏仁王門通(大和大路)に、東西の正面通が接する方広寺の正面門前に位置。

寛永一四年(一六三七)洛中洛外惣町数人家数改日記(「半日閑話」所引)に「同所(大仏)小松谷茶屋町」とあり、これを「小松谷」「茶屋町」の二町とすれば、開町は寛永期にさかのぼる。正徳四年(一七一四)洛外町続町数小名家数改帳(荻野家文書)には「茶屋町」の名で一三軒の家数を記す。一方、天保二年(一八三一)刊「京都巡覧記」建仁寺町通の項に「同(下棟梁町)下ノ方角 正面北門前町」「正面下ル 正面南門前町」とあり、同年の改正京町絵図細見大成にも、この町名が記される。

茶屋町
ちややまち

[現在地名]中区たちばな二丁目

橘町の大木戸より東本願寺掛所までの横道筋で、同掛所の門前にある(尾張志)。当地は城下の外れにあたり、田畑ばかりの地であったが、元禄年間(一六八八―一七〇四)東本願寺掛所が創建されたため、茶店が軒を並べるようになり、町名の由来になったという(金鱗九十九之塵)

茶屋町
ちややまち

[現在地名]松任市茶屋町

松任町西端の北陸街道(本町通)上口に位置する両側町。町の長さ一町二一間余(皇国地誌)。天明五年(一七八五)の町絵図(松任市立博物館蔵)に町名がみえるが、百姓家の屋並として描かれている。東の安田やすた町との境を中村なかむら用水の分流安田町川が流れる。

茶屋町
ちややちよう

上京区小川通下長者町下ル

中央を南北に小川おがわ通が通る。平安京の条坊では、左京一条二坊四保一五町の中央の地。平安前期は官衙町の「左兵衛町」の地にあたる(拾芥抄)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「茶や町」と現町名がみえる。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「此町東側に関東御呉服所茶屋四郎次郎居宅有」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の茶屋町の言及

【茶屋】より

…遊郭にも太夫を呼ぶ揚屋に対し,下級妓を招く茶屋(または天神茶屋)があったから,〈茶屋遊び〉といえば遊所への出入りを意味した。色茶屋の女に,茶屋女,茶立女,茶汲女,山衆(やましゆう)などいろいろな呼名が与えられたのは,類似商売の多様化を示すが,遊郭が認められない場合に茶屋として営業する例は多く,地方都市で茶屋町といえば私娼(ししよう)街のことであった。徳川幕府は茶屋や茶屋女を取り締まり,延宝(1673‐81)以後おもに数量規制で対処したが,実効は薄かった。…

※「茶屋町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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