荒神谷遺跡(読み)こうじんだにいせき

日本歴史地名大系 「荒神谷遺跡」の解説

荒神谷遺跡
こうじんだにいせき

[現在地名]斐川町神庭

仏経ぶつきよう山山麓の谷間で発見された弥生時代青銅器埋納遺跡。昭和五九年(一九八四)広域農道開設に伴う遺跡調査の折に銅剣の埋納坑が掘りあてられた。さらに翌年この遺構の周囲の探査によって銅鐸と銅矛を埋納した坑が見つかり、県教育委員会により発掘調査が行われている。遺跡は出雲平野南縁に張出した丘陵間の南北に長い谷の奥部にある。銅剣・銅鐸・銅矛の埋納坑が掘られた場所は谷に突き出た小丘の南向き斜面中腹にあたる。三五八本の銅剣は傾斜面を冂字状に掘込んだ浅い坑(横・等高線並行方向は四・六メートル、縦・等高線直行方向は二・六―二・七メートル)に等高線に並行して四列横隊で重ねて並べられていた。坑底粘土を敷いた後に銅剣を鋒と茎を水平にし、刃を立てて順次重ねながら並べ置いたもののようである。各列は斜面に向かって左からA列は三四本(茎と鋒を差違いに置く)、B列は一一一本(谷側の四本は鋒を西向きに、他は茎と鋒を差違いに置く)、C列は一二〇本(鋒を東向きでそろえる)、D列は九三本(鋒を東向きに置く)となっている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「荒神谷遺跡」の意味・わかりやすい解説

荒神谷遺跡
こうじんだにいせき

島根県出雲市斐川町神庭(ひかわちょうかんば)に所在する青銅器出土地。1984年(昭和59)島根県教育委員会の発掘調査で、谷水田に面する小尾根の南斜面中腹(標高22メートル)から、従来日本で知られていた弥生(やよい)時代銅剣の総数約300本をはるかに上回る358本という大量の銅剣が出土、さらに翌1985年には銅剣出土地の約7メートル東寄りで銅鐸(どうたく)6個と銅矛16本を納めた埋納壙(まいのうこう)が検出され、青銅器研究史上空前の大発見として注目を集めた。

 銅剣は、2段に加工された平坦(へいたん)面の下段に浅く掘りくぼめた長さ2.6メートル、幅1.5メートルの埋納壙に南北に4列、いずれも刃を立て密着した状態で西から34本、111本、120本、93本が整然と並べられていた。銅剣は全長50~53センチメートル前後、形式はいずれも中細銅剣の新しい段階に属し、弥生時代中期~後期の製作と考えられる。刃こぼれなどがみられず、形式が単一であることなどから、鋳造後比較的短期間のうちに一括埋納されたものと推定される。銅鐸と銅矛は、東西約2メートル、南北約1.2メートルに掘りくぼめた埋納壙の西半分に銅鐸が、東半分に銅矛が一括埋納されていた。銅鐸は総高21.7~24センチメートルの小型品で、外縁付鈕(がいえんつきちゅう)四区袈裟襷文(けさだすきもん)のほか菱環鈕式鐸1個を含む。銅矛は全長69.6~84センチメートルの中広型であった。弥生式青銅器文化の地域的特色の一端をうかがわせる遺跡として注目される。

 遺跡は国指定史跡(1987年)、出土品は一括して国宝に指定されている(1985年)。

[前島己基]


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国指定史跡ガイド 「荒神谷遺跡」の解説

こうじんだにいせき【荒神谷遺跡】


島根県出雲(いずも)市斐川(ひかわ)町にある青銅器埋納遺跡。『出雲風土記』にある神名火(かんなび)山といわれる標高366mの仏経山の北東、小さな谷間の標高22mの南向きの急斜面にある。1983年(昭和58)、広域農道の建設にともなう遺跡分布調査で、調査員が田んぼのあぜ道で一片の土器(古墳時代の須恵器(すえき))を拾ったことがきっかけとなり、翌年、谷あいの斜面の発掘調査で358本の銅剣が出土した。日本全国で出土した弥生時代の銅剣の総数を上回る数の銅剣が一度に出土し、出雲地方の強大な勢力の存在を示すものとして注目された。銅剣358本はいずれも全長50~53cm前後の中細形で、そのほとんどに「×」印が刻まれていた。これは約3km離れた加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸(どうたく)に刻まれていた「×」印と共通するものである。さらに翌年、銅剣が埋められていた場所から7mほど離れたところで、最古形式の銅鐸を含めた小型銅鐸が6個、綾杉状の文様などがある銅矛(どうほこ)が16本出土した。1987年(昭和62)に国の史跡に指定され、発掘された青銅器は、1998年(平成10)に一括して国宝に指定された。遺跡は発見当時の姿に復元され、史跡公園となっている。隣接する荒神谷博物館では出土品を期間展示し、出雲の弥生時代を解説している。JR山陰本線荘原駅から車で約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「荒神谷遺跡」の意味・わかりやすい解説

荒神谷遺跡
こうじんだにいせき

島根県北東部,出雲市に所在する弥生時代の青銅器埋納遺跡。1984,1985年の島根県教育委員会の調査で,丘陵斜面の 3地点より整然と一括埋納した状態で銅剣 358,銅鐸(どうたく)6,銅鉾 16が出土した。銅剣は弥生中期後葉~後期初頭の中細銅剣で,損傷が見られず,単一型式を示すことから,製作後比較的早い時期に埋納されたと考えられるが,その時期は不明。銅鐸はいずれも小型,菱環鈕式横帯文銅鐸 1,外縁鈕式四区袈裟襷文銅鐸 5よりなる。銅鉾は中細形 2,中広形 14で,北部九州からの搬入品と思われる。銅鐸・銅鉾も共伴遺物がなく埋納時期は不明であるが,最も新相を示す中広銅鉾の年代より弥生中期末~後期前葉以降と考えられる。この遺跡は,弥生時代の青銅武器,特に銅剣が過去の出土総数を大量に上回り,従来の分布論を崩壊させた。また不時発見の多い埋納青銅器としては例外的に正式な発掘調査で出土し,埋納状況が明らかになった点も重要である。1998年出土品は一括して国宝に指定された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「荒神谷遺跡」の解説

荒神谷遺跡
こうじんだにいせき

島根県出雲市斐川町神庭(かんば)にある弥生時代の青銅器埋納(まいのう)遺跡。1984年(昭和59)農道建設前の試掘を契機として,谷の南斜面から刃を立てて整然と4列に並べられた358本の銅剣を発見。すべてが中細形に属し,それまでに知られる全国の銅剣出土総数の約300本をはるかにしのぐ。翌年には,この銅剣出土地点から約7mほど奥の斜面から銅鐸6個,銅矛16本が一括出土。銅鐸は鰭(ひれ)を立てて横たえ,鈕(ちゅう)を互い違いにし,銅矛は銅剣同様,刃を立て切先を交互に差し違えた状態で出土。銅鐸は横帯文・袈裟襷(けさだすき)文の菱環鈕式と外縁付鈕式,銅矛は中細形と中広形に属する。これまで分布域が異なり,同時に出土することがなかった銅鐸と銅矛が共伴した最初の例で,銅剣の大量埋納とともに,青銅器の埋納の意味を新たに問いかける重要な遺跡である。出土青銅器は一括して国宝。遺跡は国史跡。

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百科事典マイペディア 「荒神谷遺跡」の意味・わかりやすい解説

荒神谷遺跡【こうじんだにいせき】

島根県斐川町にある弥生時代の青銅器埋納遺跡。国史跡。1984年―1985年の調査で,谷の急斜面から銅剣358本,銅鐸6口,銅矛16本がまとまって出土した。弥生時代を代表する3種の青銅器が一括埋納された遺跡の最初の発掘例。また,銅鐸が畿内,銅剣・銅矛が九州地方を中心に分布するという従来の学説を覆した点でも話題を呼んだ。これらは弥生時代中期頃のものと考えられ,その後も同地が聖地とされていた可能性がある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「荒神谷遺跡」の解説

荒神谷遺跡
こうじんだにいせき

島根県簸川 (ひかわ) 郡斐川町の丘陵上で発見された弥生時代中期の青銅製祭器の埋納遺跡
1984〜85年の発掘調査で銅剣358本,銅鉾16本,銅鐸6個を出土した。近くの加茂岩倉遺跡からも'96年39個の銅鐸が出土した。両遺跡から大量の銅剣・銅鐸が出土したことは,弥生時代の青銅製祭器の分布圏を考える上で,出雲地方の重要性を示している。

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世界大百科事典(旧版)内の荒神谷遺跡の言及

【銅剣】より

…東アジアの多くの地域で銅剣がすたれて後も日本において銅剣が存続したのは,武器としてよりも祭器としての性格が強くなったからであり,青銅祭器を必要とする社会が存続したことを示している。なお1984年,島根県簸川郡斐川町神庭の荒神谷(こうじんだに)遺跡で,埋納坑から358本におよぶ中細形銅剣がまとまって出土し,新たな問題を投げかけている。【宇野 隆夫】。…

※「荒神谷遺跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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