藤原俊成(読み)ふじわらのしゅんぜい

精選版 日本国語大辞典 「藤原俊成」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐しゅんぜい【藤原俊成】

平安末・鎌倉初期の歌人。名は、「としなり」とも。俊忠(御子左家)の子。定家の父。正三位皇太后宮大夫に至り、五条三位と称された。「千載和歌集」の撰者。和歌は藤原基俊に師事したが、むしろ源俊頼の影響をうけ、幽玄の歌を確立。古今調から新古今調への橋渡しをした。「久安百首」の作者にはいり、歌合の判者などとして活躍し、清輔没後は歌壇の第一人者となった。西行とも親交があった。家集に「長秋詠藻」があり、歌論書「古来風体抄」の著がある。永久二~元久元年(一一一四‐一二〇四

ふじわら‐の‐としなり【藤原俊成】

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デジタル大辞泉 「藤原俊成」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐しゅんぜい〔ふぢはら‐〕【藤原俊成】

[1114~1204]平安後期の歌人。名は「としなり」とも。定家の父。法名、釈阿。幽玄体の歌を確立し、王朝歌風の古今調から中世の新古今調への橋渡しをした。後白河院の院宣により、「千載和歌集」を撰進。家集「長秋詠藻」、歌論書「古来風体抄」など。

ふじわら‐の‐としなり〔ふぢはら‐〕【藤原俊成】

ふじわらのしゅんぜい

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百科事典マイペディア 「藤原俊成」の意味・わかりやすい解説

藤原俊成【ふじわらのとしなり】

平安末期の歌人。〈しゅんぜい〉とも。法名釈阿。定家の父。幼いころ葉室顕頼の養子となったが,54歳のとき生家・御子左家に帰る。その以前から六条派主導の歌壇の風潮に対立し,新風の推進者として活躍していたが,やがて歌壇の重鎮と目されるようになり,歌の家としての御子左家の位置を確立した。式子内親王のために書いたとされる画期的な歌論書《古来風体(ふうてい)抄》で作歌の理想として〈幽玄〉の美を説いている。後白河院の下命により《千載和歌集》を撰進した。家集《長秋詠藻(えいそう)》。勅撰集の入集約400首。
→関連項目歌論狂言綺語源氏物語山家集時雨亭文庫新古今和歌集平忠度たまきはる藤原家隆藤原清輔藤原定家藤原俊成女源家長日記源光行六百番歌合

藤原俊成【ふじわらのしゅんぜい】

藤原俊成(としなり)

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原俊成」の意味・わかりやすい解説

藤原俊成 (ふじわらのとしなり)
生没年:1114-1204(永久2-元久1)

平安末期の歌人。〈しゅんぜい〉ともよばれる。参議俊忠の子。幼年期葉室顕頼の養子として顕広と称したが,54歳から父の御子左家(みこひだりけ)に帰り,俊成と改名。法名釈阿。最終官は正3位皇太后宮大夫。藤原基俊に和歌を学び,《為忠家両度百首》(1132-36ころ),《述懐百首》(1140-41)などの力詠で崇徳院の殊遇を受け,《久安百首》の部類も下命された。そのころから六条派主導の観念的な古典追随,万葉好尚の風潮と対立,《古今集》以来の優美な抒情に和歌の芸術性を認め,さらに時代の感性をとらえた幽玄・優艶な余情美を表現して,新風の推進者となった。平氏政権全盛期ごろには彼の育成した御子左派新進歌人も登場,諸家歌合の判者にも招かれ,歌壇の重鎮と目されたが,ことに63歳で出家した翌年,藤原清輔の後任として関白九条兼実の和歌師範に迎えられ,六条家権威と劇的交替をとげた。1188年(文治4)には後白河院から下命されていた《千載和歌集》の編纂を完成,さらに後鳥羽院の信頼と支持を得て,子息定家らとともに新風を深化,華麗な新古今様式の開花を導き,みずからも《後鳥羽初度百首》《千五百番歌合》など後鳥羽院歌壇の主要行事に出詠,判者をつとめて芸術的な歌合批評に円熟ぶりを発揮した。1203年(建仁3)には後鳥羽院から九十の賀を賜う光栄に浴し,《祇園社奉納百首》詠作を最後に功成り名遂げた生涯を終えた。

 この間,1178年(治承2)家集《長秋詠藻》を自撰して守覚法親王に献呈,97年(建久8)には歌論書《古来風体抄(こらいふうていしよう)》を献進(1201年改訂),晩年の和歌観を吐露した。俊成はここで天台止観によそえて和歌の変遷を内観し(最初の和歌史観),浮言綺語(ふげんきぎよ)の和歌が仏法悟得の機縁たりうるという新価値観(狂言綺語観)を提示し,さらに《古今集》を歌の本体と仰ぐ伝統観(古典の定立)を述べる。俊成の新風は広義の幽玄体といわれ,幻想的な詩趣と優美な声調の調和の中に,陰翳(いんえい)のふかい耽美的情念を流露させ,抒情の世界に余情の新領域をひらいた。自讃歌〈夕されば野辺の秋風身にしみて鶉啼くなり深草の里〉(《千載集》巻四)は著名。俊成の筆蹟は比較的多く伝存し,若年期の顕広切,御家切(おいえぎれ),晩年の簡勁な了佐切,昭和切の4種《古今集》,撰者自筆本の日野切《千載集》,判者自筆本《広田社歌合》,住吉切,守覚法親王五十首切などが著名で,本文資料としても価値が高い。
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藤原俊成 (ふじわらのしゅんぜい)

藤原俊成(としなり)

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朝日日本歴史人物事典 「藤原俊成」の解説

藤原俊成

没年:元久1.11.30(1204.12.22)
生年:永久2(1114)
平安・鎌倉時代の歌人。父は権中納言藤原俊忠,母は伊予守藤原敦家の娘。10歳で父に死別。葉室顕頼の養子となり,初め顕広と名乗ったが,のちに本家に戻り,俊成と改名。初め『為忠家百首』など藤原為忠の催しに参加,また25歳のとき藤原基俊の門弟になるなどして,歌人としての基礎を形成した。崇徳上皇主催の『久安百首』(1150)の作者となり,かつその部類を任されて頭角を現す。『中宮亮重家朝臣家歌合』(1166)など,50代のころより数多くの歌合の判者を務めて歌界の中心人物と目されるようになった。そして九条兼実の歌道師範となり,『千載和歌集』(1188)の選者となるにおよんで,第一人者の地位を不動のものとした。以後最晩年にかけても創作意欲はいっこうに衰えず,『守覚法親王家五十首』(1199)や『正治二年初度百首』(1200)など,多数の和歌作品を残す。また,息子の定家ら新風歌人の指導にも当たり,『新古今和歌集』(1205)や中世和歌の表現形成に,大きく寄与した。 その歌風は,不遇感をベースにした濃厚な主情性を本質とする。一方,短詩型文学である和歌の言葉の機能を熟知した,繊細な表現意識をも併せ持ち,古歌や王朝物語の情趣を大胆に導入する新技法(本歌取,物語取)を開発した。その表現意識は,式子内親王に献じられた歌論書『古来風躰抄』(1197)のほか,『六百番歌合』(1193年ごろ)などの数多くの歌合判詞からも窺われる。他に『古今問答』『万葉集時代考』などの歌学書があり,家集に『長秋詠藻』『俊成家集』が存する。<参考文献>松野陽一『藤原俊成の研究』,久保田淳『新古今歌人の研究』,谷山茂『藤原俊成 人と作品』(『谷山茂著作集』2巻)

(渡部泰明)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原俊成」の意味・わかりやすい解説

藤原俊成
ふじわらのとしなり

[生]永久2(1114)
[没]元久1(1204).11.30. 京都
平安時代後期~鎌倉時代前期の歌人。「しゅんぜい」とも読む。俊忠の子。定家の父。幼いとき父と死別し,民部卿顕頼の養子となり,顕広といった。俊成と改名したのは,実家の御子左 (みこひだり) 家に復帰した 54歳のときである。正三位皇太后宮大夫にいたったが,63歳のとき病により出家し,法名,釈阿。和歌を藤原基俊に学び,崇徳上皇の『久安百首』 (1150) に加えられて,六条家の藤原清輔と対立関係にあったが,その死後,九条兼実家の和歌師範となり,宮廷和歌の指導者として君臨,後白河法皇の院宣を奉じて,文治4 (88) 年『千載和歌集』を単独撰進。『五社百首』 (90) ,『守覚法親王家五十首』 (97) ,『千五百番歌合』などで円熟した歌境をみせた。『新古今集』に 72首入集。歌風は温雅で,抒情性に富む。家集『長秋詠藻』は六家集の一つ。歌論書『古来風躰抄』があり,ほかに『万葉集時代考』など。

藤原俊成
ふじわらのしゅんぜい

藤原俊成」のページをご覧ください。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原俊成」の解説

藤原俊成
ふじわらのとしなり

1114~1204.11.30

「しゅんぜい」とも。平安末~鎌倉前期の歌人。御子左(みこひだり)家藤原俊忠の子。母は藤原敦家(あついえ)の女。子に定家(さだいえ)ら。父の死後,葉室顕頼の養子となり,53歳まで顕広(あきひろ)を名のる。正三位に昇り,皇太后宮大夫となる。63歳で出家,法名釈阿(しゃくあ)。源俊頼や藤原基俊に学び,やがて歌壇の指導者の地位についた。業績は「千載集」の撰集,歌学書「古来風体抄(こらいふうていしょう)」「俊成卿和字奏状」「万葉集時代考」「古今問答」,さらに「六百番歌合(うたあわせ)」ほか40ほどの歌合の判詞の執筆など多彩。和歌の道で対抗する六条(藤)家を圧倒,定家ら新古今時代の歌人たちを育てた。1203年(建仁3)には後鳥羽上皇から九十の賀を賜る。「詞花集」以下の勅撰集に約420首入集。家集「長秋詠藻(ちょうしゅうえいそう)」「俊成家集」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原俊成」の解説

藤原俊成 ふじわらの-としなり

1114-1204 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人。
永久2年生まれ。藤原俊忠の3男。母は藤原敦家(あついえ)の娘。正三位,皇太后宮大夫。五条三位とよばれる。藤原基俊(もととし)に歌学をまなび,源俊頼に私淑。幽玄美をとなえ,子の定家ら「新古今和歌集」の歌人をそだてた。「千載和歌集」の撰者で,歌は勅撰集に四百余首はいっている。元久元年11月30日死去。91歳。初名は顕広。法名は釈阿。家集に「長秋詠藻」,歌論書に「古来風体抄」など。
【格言など】世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる(「小倉百人一首」)

藤原俊成 ふじわらの-しゅんぜい

ふじわらの-としなり

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原俊成」の解説

藤原俊成
ふじわらのしゅんぜい

1114〜1204
平安末期・鎌倉初期の歌人
名は「としなり」ともいう。法号は釈阿。後白河法皇の命で『千載和歌集』を撰進。六条家と抗争し歌の家として御子左 (みこひだり) 家の基を築いた。歌風は余情・幽玄体の新境地。主著に家集『長秋詠藻』,歌論『古来風体 (ふうてい) 抄』など。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原俊成の言及

【藤原俊成】より

…平安末期の歌人。〈しゅんぜい〉ともよばれる。参議俊忠の子。幼年期葉室顕頼の養子として顕広と称したが,54歳から父の御子左家(みこひだりけ)に帰り,俊成と改名。法名釈阿。最終官は正3位皇太后宮大夫。藤原基俊に和歌を学び,《為忠家両度百首》(1132‐36ころ),《述懐百首》(1140‐41)などの力詠で崇徳院の殊遇を受け,《久安百首》の部類も下命された。そのころから六条派主導の観念的な古典追随,万葉好尚の風潮と対立,《古今集》以来の優美な抒情に和歌の芸術性を認め,さらに時代の感性をとらえた幽玄・優艶な余情美を表現して,新風の推進者となった。…

【藤原俊成女】より

…鎌倉前期の女流歌人。俊成(しゆんぜい)卿女ともよばれる。尾張守藤原盛頼女で,母は俊成女の八条院三条。正しくは俊成の孫であるが,養女として育てられる。源通具に嫁したが,のち後鳥羽院に出仕して別居。〈風通ふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢〉(《新古今集》)など,艶麗な詠風に特色を示し,宮内卿らと並び称された。家集《俊成卿女集》,歌論《越部禅尼消息》など。勅撰集入集117首。【上条 彰次】…

【艶】より

…歌学用語としても,平安時代すでに歌合判詞や歌論の類に見え,しだいに和歌の美的範疇を表す評語となる。藤原俊成の意識した艶の美には,《源氏物語》の〈もののあはれ〉を受け継ぎ,さらに余情美を求めようとする傾斜が認められる。中世以降には艶を内面化しようとする傾向が強まり,心敬の連歌論《ささめごと》などに見える〈心の艶〉〈冷艶〉の美は,その極致とされる。…

【歌論】より

…〈心〉の重視を言いつつ,〈詞をかざり詠むべきなり〉とも言って,〈言葉〉の尊重,言語世界の自立をも示唆している点が斬新であった。
【中世】
 中世の最初を飾るのは,藤原俊成《古来風体抄(こらいふうていしよう)》である。式子内親王の依頼によって執筆したもので,成立は1197年(建久8)である。…

【源氏物語】より

…《源氏物語》以降の物語が《栄華物語》のような歴史物語をも含めて,すべてその強大な影響力を受けていることは今さらいうまでもなく,特に鎌倉時代の擬古物語では,用語の末々まで模していることが多い。歌壇もまたその影響は免れず,平安末期には〈源氏に寄する恋〉という歌題ができて多くの歌が詠まれており,藤原俊成の〈源氏見ざる歌よみは遺恨の事なり〉とか藤原良経の〈紫式部が源氏,白氏が文集,身に添へぬ事はなし〉などの賛辞が続いた。こうした人々の中から〈物語沙汰する人〉,つまり研究者が現れた。…

【古来風体抄】より

…〈こらいふうたいしょう〉とも読む。藤原俊成の歌論として唯一のまとまったもの。2巻。…

【千載和歌集】より

…20巻。撰者は釈阿(しやくあ)(藤原俊成)。1183年(寿永2)後白河院の院宣によって撰集下命,88年(文治4)に成る。…

【短歌】より

…自然および社会の秩序に絶対的な信頼をよせる明快な世界観および明晰な言語観は,その切れ味のよい理知性とともに以後の短歌の規範とされたのであった。その後,《後撰和歌集》《拾遺和歌集》以下次々と勅撰集が出され,曾禰好忠(そねのよしただ),源経信,源俊頼らが用語,素材などにおいて革新的な立場をとって保守派と対立することで歌壇は活気づいたが,やがて藤原俊成が登場して新旧両派の歌風を統一,中世短歌の土台を築くのであった。なお,中古の時代に入って,上句(5・7・5)と下句(7・7)とが分離する傾向が見えはじめ,いわゆる七五調が優勢になってくる。…

【長秋詠藻】より

藤原俊成の家集。1178年(治承2)3月に自撰し,仁和寺守覚法親王に奉った。…

【深草】より

…【野田 只夫】
[歌枕]
 深草は中央南北に大和街道(奈良街道)が通じているので詠作が多く,皇室や権門の葬場でもあったので哀傷の作も多い。《千載集》巻四の〈夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里〉は藤原俊成が自作の最高の作と人々に語った(《無名抄》)歌として著名である。深草少将(伏見区西桝屋町の欣浄寺(ごんじようじ)がその宅址と伝える)が山科小野の随心院にあった小野小町の宅へ百夜(ももよ)通った伝説があり,謡曲《通小町(かよいこまち)》《卒都婆小町》《墨染桜》などに劇化されている。…

【細み】より

…蕉風俳諧の美的理念の一。作者の心が対象の微妙な生命の急所にしみとおってゆき,そこに風雅の伝統の細き一筋を感得すること,およびその感得したものを句ににないこむ気味合いをいう。去来は〈細みは便りなき句にあらず。……細みは句意にあり〉(《去来抄》)といい,芭蕉が路通の〈鳥共も寝入てゐるか余吾(よご)の海〉という句を〈此句細みあり〉と評したと伝えている。早く中世においては俊成などが〈心深し〉〈心細し〉という評語をしきりに用い,作者の思い入る心の深さ,細さを称美しているが,連歌でも心敬がこれを承けて〈秀逸と侍ればとて,あながちに別の事にあらず。…

【本歌取り】より

…しかし,このころはまだ修辞的な技巧としては意識されていない。意識的な技巧として推進したのは藤原俊成で,《新古今和歌集》は本歌取りの全盛時代に成立している。それまでは〈盗古歌〉と考えて,本歌取りを避ける主張もあった(藤原清輔《奥儀抄》)。…

【御裳濯河歌合】より

…成立は奥州から帰った1187年(文治3)ころか。西行が自己の秀歌72首を選び,左方を山家客人,右方を野径亭主として36番の歌合に構成し,藤原俊成に判を依頼したもの。同じく西行の自歌合《宮河歌合》(定家判)と一体のものであるが,後世自歌合の最初と言われている。…

【幽玄】より

…日本では,仏典などの用例以外,《古今集》真名序に〈興入幽玄〉とあるのが文学的用例としての初出。以後,〈此体,詞雖凡流,義入幽玄〉(《忠岑十体》高情体),〈義以通幽玄之境〉(《中宮亮顕輔歌合》基俊判),〈余情幽玄体〉(《作文大体》)など,しだいに余情美への傾斜を示す用例を経て,中世初頭,藤原俊成が歌合判詞類に14例用いるにおよび,重要な歌学用語となった。その内容については諸説あるが,心細く寂しい美や優艶美さらに長高美などの複合した,縹渺(ひようびよう)とした余情美の性質を示すだけでなく,対象に深く浸透する表現態度をも内包する。…

【六百番歌合】より

…《後京極殿百首歌合》《左大将家百首歌合》ともいう。作者は左が,藤原良経・同季経・同兼守・同有家・同定家・顕昭,右が,藤原家房・同経家・同隆信・同家隆・慈円・寂蓮の計12人,判者は藤原俊成。各人が春15首・夏10首・秋15首・冬10首・恋50首の百題百首を詠進し,それを600番に結番した百首歌形式の歌合。…

※「藤原俊成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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