藤原定子(読み)ふじわらのていし

精選版 日本国語大辞典 「藤原定子」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ていし【藤原定子】

一条天皇皇后。父は道隆。母は高階貴子。正暦元年(九九〇)入内して女御、次いで中宮となる。父の死によって出家したが、天皇の召によって、再度入内。長保二年(一〇〇〇)道長の娘彰子が中宮となったために皇后となり、一代二后の例を開いた。清少納言を従え、宮廷女流文学の母胎となったサロンの主でもあった。貞元元~長保二年(九七六‐一〇〇〇

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デジタル大辞泉 「藤原定子」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ていし〔ふぢはら‐〕【藤原定子】

[976~1001]一条天皇の皇后。道隆の娘。正暦元年(990)入内して女御、のち中宮。長保2年(1000)藤原彰子が中宮に立ったため皇后となり一代二后の例を開いた。

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原定子」の意味・わかりやすい解説

藤原定子 (ふじわらのていし)
生没年:976-1000(貞元1-長保2)

平安中期の一条天皇の皇后。内大臣藤原道隆の女,母は高階貴子。990年(正暦1)1月一条天皇の内裏に入って,女御となり,10月5日中宮となる。995年(長徳1)道隆が死に,翌年兄の伊周,隆家らが花山院の輿に矢を射かけるという事件によって失脚すると,定子も出家したが,天皇の寵は変わらず,その後に敦康親王,修子内親王を生んだ。999年11月に道長の女の彰子(上東門院)が入内して女御となり,翌年2月中宮となったため,定子は皇后となった。12月16日次女媄子内親王を出産,即日死去した。定子に仕えていた清少納言の《枕草子》には,聡明で奥ゆかしい美人として描かれており,清少納言の傾倒のほども察せられる。
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百科事典マイペディア 「藤原定子」の意味・わかりやすい解説

藤原定子【ふじわらのていし】

一条天皇の皇后。道隆(みちたか)の娘,伊周(これちか)の妹。990年一条天皇の中宮(ちゅうぐう)となる。1000年藤原彰子(しょうし)が中宮になったため定子は皇后となり,1天皇2后並置の例を開いたが,次女を産み即日死んだ。天皇の寵愛(ちょうあい)を受けた定子の生活は清少納言の《枕草子》に描かれている。
→関連項目選子内親王

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原定子」の意味・わかりやすい解説

藤原定子
ふじわらのていし
(976―1000)

一条(いちじょう)天皇の皇后、藤原道隆(みちたか)の女(むすめ)。母は高階貴子(たかしなのきし)。990年(正暦1)2月女御(にょうご)、10月中宮となる。996年(長徳2)兄伊周(これちか)、隆家が花山(かざん)法皇をおどし射(う)ちする事件によりいったん出家したが、ふたたび参内、脩子(しゅうし)内親王、敦康(あつやす)親王が生まれた。1000年(長保2)道長の女彰子(しょうし)が中宮にたったため皇后となり、一天皇に二后併立の例を開いた。この年12月15日、媄子(びし)内親王を産み、翌日亡くなった。定子皇后には清少納言が仕えており、『枕草子(まくらのそうし)』には定子の身辺について詳しく記している。だが、定子の不遇に関しては、ほとんど触れていないのが特徴である。

[山中 裕]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原定子」の意味・わかりやすい解説

藤原定子
ふじわらのていし

[生]貞元1(976)
[没]長保2(1000).12.16.
一条天皇の皇后。道隆の娘。永祚2 (990) 年女御となり,同年中宮。天皇の寵愛厚く,栄華をきわめた生活は,清少納言の『枕草子』によって知られる。長徳2 (996) 年兄伊周 (これちか) が花山法皇に矢を射かけた事件により出家,その後も召され,長保2 (1000) 年皇后となり,中宮彰子 (→上東門院 ) とともに一帝二后の形となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原定子」の解説

藤原定子
ふじわらのていし

976~1000.12.16

一条天皇の中宮・皇后。父は藤原道隆。990年(正暦元)入内し,女御(にょうご)となる。同年,円融天皇の中宮遵子を皇后とし,定子は中宮とされたが,これは皇后・中宮並立の初例。父や兄の伊周(これちか)らの後見を失い,999年(長保元)第1皇子敦康親王を生んだが,道長の世にあって不遇であった。1000年定子を皇后に,彰子を中宮にしたのは1帝2后並立の初例。清少納言らを擁した文芸サロンを形成した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原定子」の解説

藤原定子 ふじわらの-さだこ

ふじわらの-ていし(1)ふじわらの-ていし(2)

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原定子」の解説

藤原定子
ふじわらのていし

976〜1000
平安中期,一条天皇の皇后
道隆の長女。990年入内し,女御・中宮となった。父の死や兄伊周 (これちか) の大宰府左遷(996)にあたって一時出家したが,1000年道長の長女彰子が中宮となったため皇后となった。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原定子の言及

【清少納言】より

…平安中期の女流文学者。父は〈梨壺の五人〉の一人として有名な歌人清原元輔,祖父(曾祖父ともいう)深養父(ふかやぶ)も清少納言自身も中古歌仙三十六人に数えられる和歌重代の家柄。父の友人には源順,大中臣能宣ら漢詩文や和歌に達者な一流人物が多く,元輔の末娘はこれらの人々に愛され,利発で早熟な少女として育った。981年(天元4)ころ,名家橘氏の嫡男則光と結婚,翌年則長を生んだがまもなく離婚,991年(正暦2)ころ,父ほど年の違う藤原棟世(むねよ)と再婚し,小馬命婦(こまのみようぶ)を生んだが別居して,993年冬,一条帝中宮,関白藤原道隆の娘定子に仕えた。…

※「藤原定子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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