藤原朝光(読み)ふじわらのあさてる

朝日日本歴史人物事典 「藤原朝光」の解説

藤原朝光

没年:長徳1.3.20(995.4.22)
生年天暦5(951)
平安中期の公卿閑院大将,閑院大納言と称される。関白兼通の次男。母は有明親王の娘昭子女王。娘の姚子は花山天皇の女御。天延2(974)年参議,3年後に権大納言と異例の昇進をしたが,大臣に至ることなく45歳で病死疫病が流行した年である。邸宅は三条堀河第で,ほかに閑院を父から伝領した。最初の妻を離別して年増の未亡人後妻にしたが,容貌ほかすべての点で前妻より劣っていたことから世間は財産めあての結婚と噂したことが『大鏡』にみえる。しかし朝光は気立て,容貌にすぐれ兄弟のなかではもっとも信望があったという。

(朧谷寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原朝光」の解説

藤原朝光 ふじわらの-あさみつ

951-995 平安時代中期の公卿(くぎょう),歌人
天暦(てんりゃく)5年生まれ。藤原兼通(かねみち)の4男。母は昭子女王。天延2年(974)参議。のち正二位,大納言。閑院大将とよばれる。兄顕光(あきみつ)よりはやく昇進したが,父の没後はふるわなかった。「拾遺和歌集以下勅撰集に29首がはいる。長徳元年3月20日死去。45歳。名は「あさてる」ともよむ。家集に「朝光集」。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原朝光の言及

【伊賀氏】より

…藤原秀郷の後裔朝光が1210年(承元4)伊賀守となってから彼の子孫が伊賀氏を称した。源頼朝の政所別当源邦業を外祖父とする朝光は文治初年より頼朝の側近に登場,鎌倉幕府の枢機に参画した。1219年(承久1)その子伊賀光季は京都守護に,伊賀光宗は政所執事に就任。しかし21年光季は後鳥羽上皇軍の襲撃を受け戦死。24年(元仁1)光宗は妹(北条義時後室)と謀り,一条実雅を将軍に,北条政村を執権に擁立しようとしたが失敗,一族配流の処罰を受けた。…

※「藤原朝光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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