藤原清衡(読み)ふじわらのきよひら

精選版 日本国語大辞典 「藤原清衡」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐きよひら【藤原清衡】

平安末期の陸奥の豪族。前九年の役で父経清は殺されたが、後三年の役に源義家に味方して陸奥六郡と出羽の管領権を得た。平泉根拠として、中尊寺を建てるなど、平泉文化の基礎を築いた。天喜四~大治三年(一〇五六‐一一二八

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デジタル大辞泉 「藤原清衡」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐きよひら〔ふぢはら‐〕【藤原清衡】

[1056~1128]平安後期陸奥むつの豪族。後三年の役源義家と結んで清原氏を滅ぼし、陸奥六郡を領有。平泉に奥州藤原氏の基礎を築き、中尊寺を建立。清原清衡

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原清衡」の意味・わかりやすい解説

藤原清衡 (ふじわらのきよひら)
生没年:1056-1128(天喜4-大治3)

奥州藤原氏4代の初代。陸奥国押領使(おうりようし)。権太郎。父は藤原秀郷(ひでさと)の末裔亘理(わたり)権大夫経清。母は安倍頼良(頼時)の娘。前九年の役で父が源頼義に殺され,母が出羽国の清原武貞再嫁したため,清原一族として成人した。後三年の役では異父弟の清原家衡によって館に火をかけられ,妻子を殺されるという非運にあうが,途中から源義家に属して家衡と戦い,清原氏の滅亡後は奥六郡(胆沢江刺,和賀,稗貫,紫波,岩手の6郡)および出羽の山北(せんぼく)三郡(雄勝,平鹿,仙北の3郡)の支配権を継承して,奥羽覇者となった。嘉保年中(1094-96),あるいは康和年中(1099-1104)に江刺郡豊田の館(奥州市の旧江刺市餅田(わだ))から平泉に居を移し,1124年(天治1)金色堂を建立,26年(大治1)中尊寺創建した。ミイラ化した遺体が金色堂内に収められている。身長160cm以上,五角形の短い顔で,手の形などは小さく,きゃしゃであったという。
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百科事典マイペディア 「藤原清衡」の意味・わかりやすい解説

藤原清衡【ふじわらのきよひら】

平安後期の陸奥(むつ)の豪族。奥州藤原氏三代の初代。父経清(つねきよ)が死んだのち,母の再嫁先の清原武則(たけのり)のもとで成長。後三年(ごさんねん)の役源義家に味方し,のち陸奥・出羽を支配。摂関家にもとり入り,平泉中尊寺を建立した。ミイラ化した遺体は中尊寺金色堂に現存。
→関連項目金沢柵清原家衡平泉[町]

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原清衡」の意味・わかりやすい解説

藤原清衡
ふじわらのきよひら
(1056―1128)

古代末期東北の武将。父経清(つねきよ)は安倍頼時(あべのよりとき)の婿として、前九年の役には安倍氏の指導者として奮戦し、敗れて殺された。清衡はこの戦乱中に生まれ、戦後、母の再嫁先たる出羽(でわ)清原武貞(たけさだ)のもとに養われた。清原氏のもとで一族の内訌(ないこう)から後三年の役が起こり、陸奥守(むつのかみ)源義家(よしいえ)がこれに介入すると、清衡は義家に降(くだ)り、清原氏と戦ってこれを滅ぼし、東北の最後の統一者となった。摂関家とも密接な関係を保ちながら、平泉(ひらいずみ)に東北全土にわたる支配を確立、1世紀にわたる平泉政権の端緒を開いた。同時に中尊寺を創建、「皆金色(かいこんじき)」の文化を興し、東北に藤原時代を代表する文化の花を開き、3代に伝えた。大治(だいじ)3年7月16日死す。

[高橋富雄]

『高橋富雄著『藤原清衡』(1971・清水書院)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原清衡」の意味・わかりやすい解説

藤原清衡
ふじわらのきよひら

[生]天喜4(1056)
[没]大治3(1128).7.13. 平泉
平安時代末期の陸奥の豪族。父は経清。母は安倍頼時の娘。父が前九年の役に安倍氏に従って敗死したのち,母が清原武則に再嫁したため,武則のもとで育った。武則には清衡のほか,真衡,家衡とそれぞれ母を異にする子があり,のち清原氏に内紛を生じたが,後三年の役で源義家と結んだ清衡が勝利を収め,出羽,陸奥の押領使となって陸奥6郡を管領した。寛治5 (1091) 年初めて関白家に馬を献じ,以後関白家と庇護関係を結んだ。嘉保年間 (94~96) 居を江刺郡豊田から平泉に移し,富力にまかせて京都文化を導入,中尊寺を建立するなど栄華を誇った。遺体はミイラとなって中尊寺金色堂 (こんじきどう) に伝えられている。 (→平泉文化 )  

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原清衡」の解説

藤原清衡 ふじわらの-きよひら

1056-1128 平安時代後期の豪族。
天喜(てんぎ)4年生まれ。前九年の役で敗死した藤原経清(つねきよ)の子。母は安倍頼時の娘。母の連れ子として清原武貞(たけさだ)にやしなわれる。一族の内紛(後三年の役)で源義家とむすび,寛治(かんじ)元年(1087)異父弟清原家衡をほろぼした。奥六郡と出羽(でわ)山北(せんぼく)郡を支配し,平泉を本拠として中尊寺を建立。奥州藤原氏の祖。大治(だいじ)3年7月16日死去。73歳。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原清衡」の解説

藤原清衡
ふじわらのきよひら

1056~1128.7.13/16

平安後期の武将。奥州藤原氏の祖。奥州藤原氏繁栄の基礎を築く。父は経清。母は安倍頼時の女。父が前九年の役で処刑されたあと,母が清原武貞に再嫁したため清原氏を名のる。1083年(永保3)異父弟家衡と結び,武貞の嫡男真衡(さねひら)と争った。真衡の死後は家衡と争い,源義家の支持をえて滅ぼした(後三年の役)。安倍・清原両氏の所領を支配し,藤原姓に復した。平泉を居館とし,中尊寺を建立。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原清衡」の解説

藤原清衡
ふじわらのきよひら

1056〜1128
平安後期の奥州藤原氏の祖
父藤原経清は前九年の役に安倍氏に属して敗死し,母の再嫁した清原氏に養われた。後三年の役に源義家と結んで独立し,陸奥6郡を領し,陸奥・出羽 (でわ) の押領使となった。白河院や摂関家と結んで本姓の藤原に改め,平泉に本拠を定め,京都文化を移植して中尊寺金色堂を建てた。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原清衡の言及

【奥州藤原氏】より

…平安時代末期(11世紀末~12世紀末)の東北地方の豪族。藤原清衡,基衡,秀衡,泰衡の4代をいう。清衡,基衡,秀衡3代のミイラ化した遺体と泰衡の首が岩手県中尊寺金色堂の須弥壇の下に葬られている。…

【中尊寺】より

…寺伝によれば,850年(嘉祥3)円仁の開創で,859年(貞観1)に清和天皇より中尊寺の号を賜ったと伝えるが,資料を欠く。平安末期に藤原清衡が平泉に移り住み,諸堂宇の建立に着手した。1126年(大治1)の金堂落慶供養願文により,前九年・後三年の役を経て奥羽地方の覇者となった清衡が,奥羽におとずれた平和を記念し,非命にたおれた敵味方の霊をとむらうための鎮魂の寺としてこれを営み,あわせて鎮護国家の根本道場にしようとしたものであったことがわかる。…

【平泉文化】より

…平泉は,その盛時には中尊寺(ちゆうそんじ),毛越寺(もうつじ),無量光院(むりようこういん)などの大寺院が甍(いらか)を並べ,日吉,白山,祇園,王子,北野天神,金峰山,今熊野,稲荷などの諸社が計画的に配置された都市であった。 中尊寺は藤原清衡(きよひら)によって1105年(長治2)に着工され,26年(大治1)3月24日に落慶供養が行われた天台系の寺院で,このときの堂宇は,供養願文によれば三間四面の檜皮葺堂1宇,三重塔3基,二階瓦葺経蔵1宇,二階鐘楼1宇というものであったが,《吾妻鏡》の文治5年(1189)9月17日条では,寺塔60余宇,禅坊300余宇といわれている。しかし奥州藤原氏の滅亡後衰亡し,現在は金色(こんじき)堂をのこすのみである。…

※「藤原清衡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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