藤原道綱(読み)ふじわらのみちつな

日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原道綱」の意味・わかりやすい解説

藤原道綱
ふじわらのみちつな
(955―1020)

平安中期の公卿(くぎょう)。摂政(せっしょう)兼家(かねいえ)の二男。母は『蜻蛉(かげろう)日記』の作者として有名な藤原倫寧(ともやす)の女(むすめ)。991年(正暦2)に参議となったが、異母弟の道兼(みちかね)、道長はすでに権大納言(ごんだいなごん)になっていた。これは母を異にしていたことも原因しているが、政治家としての能力が欠けていたことに由来しており、官位大納言どまりであった。病を得て出家し、ほどなく寛仁(かんにん)4年10月16日に薨去(こうきょ)。受領(ずりょう)として財力を誇った源頼光(よりみつ)の女婿となって一時期、頼光の一条邸で生活を送ったことがある。

[朧谷 寿]

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朝日日本歴史人物事典 「藤原道綱」の解説

藤原道綱

没年:寛仁4.10.16(1020.11.3)
生年天暦9(955)
平安中期の公卿。正二位。摂関兼家と藤原倫寧の娘の子。妻は源頼光の娘。正暦2(991)年参議,6年後に大納言となったが,異腹の弟道兼(内大臣),道長(権大納言)は上席であった。母は『蜻蛉日記』の作者である。道綱の無能ぶりは世間の知るところで,日記『小右記』で知られる藤原実資から「わずかに名前は書けるが一二を知らない」と貶されている。晩年「どうしても大臣になりたい」と弟の道長に頼みこんでいるのを知った実資は「一文不通の人」が大臣になったということは聞いたためしがない,と憤慨しており,結果その願いは実現しなかった。

(朧谷寿)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原道綱」の解説

藤原道綱 ふじわらの-みちつな

955-1020 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
天暦(てんりゃく)9年生まれ。藤原兼家の次男。母は藤原倫寧(ともやす)の娘。正暦(しょうりゃく)2年(991)参議。のち大納言にすすみ,正二位にいたる。東宮傅(ふ)をかね,傅大納言とよばれる。文字も満足によめないなど悪評がおおく,大臣をのぞんだがはたせなかった。寛仁(かんにん)4年10月16日死去。66歳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原道綱」の意味・わかりやすい解説

藤原道綱
ふじわらのみちつな

[生]天暦9(955)
[没]寛仁4(1020).10.16.
平安時代の公卿。摂政兼家の子。母は倫寧の娘。道長の異母兄。通称傅大納言。大納言,正二位にいたる。公事において失儀多く,『小右記』に「一文不通の人」と評されている。その日常については,母の『蜻蛉日記』にみることができる。

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