藤原道長(読み)フジワラノミチナガ

デジタル大辞泉 「藤原道長」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐みちなが〔ふぢはら‐〕【藤原道長】

[966~1028]平安中期の公卿。兼家の五男。娘を次々と后に立て、外戚となって内覧摂政太政大臣を歴任、権勢を振るい、栄華をきわめた。晩年に出家し、法成寺を造営。関白になった事実はないが御堂関白みどうかんぱくと称された。日記「御堂関白記」がある。

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精選版 日本国語大辞典 「藤原道長」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐みちなが【藤原道長】

平安中期の公卿。父は兼家。母は時姫。兄道隆・道兼の死後、内覧・氏長者・右大臣となる。道隆の子伊周・隆家を失脚させ、娘彰子・妍子・威子・嬉子・盛子を入内させて三代の外戚となる。長和五年(一〇一六)摂政となったが、翌年子頼通に譲り、太政大臣となり、父子並んで政権を独占、藤原氏の全盛時代を出現させた。寛仁三年(一〇一九)出家、法成寺を建立。関白になった事実はないが、御堂関白と称され、日記を「御堂関白記」といい、自筆原本が現存。康保三~万寿四年(九六六‐一〇二七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原道長」の意味・わかりやすい解説

藤原道長
ふじわらのみちなが
(966―1027)

平安中期の政治家で、藤原氏全盛期の最頂点にたった人物。『大鏡』や『栄花物語』は道長の生涯の記述に重点を置いている。父は、藤原氏北家(ほっけ)の摂政(せっしょう)・関白・太政大臣(だいじょうだいじん)の兼家(かねいえ)。母は、左京大夫藤原中正(なかまさ)の女(むすめ)の時姫。御堂殿(みどうどの)、法成寺殿(ほうじょうじどの)などとよばれたが、彼を御堂関白と記するのは誤り。彼は関白に類した内覧には在任したけれども、関白には任じられないままに終わった。兼家の五男に生まれた道長は順調に官途をたどり、991年(正暦2)26歳の若さで権大納言(ごんだいなごん)に任じられはしたが、兄に道隆(みちたか)、道綱(みちつな)、道兼(みちかね)がおり、彼自身さほど栄華を極めるに至るとは考えていなかった。ところが995年(長徳1)4月、関白道隆が疫病で倒れ、後を襲った関白道兼も、在職7日にして薨(こう)じたため、同年5月、姉の詮子(あきこ)(一条天皇(いちじょうてんのう)母后、東三条院)の推輓(すいばん)によって権大納言の道長は、図らずも内覧の宣旨を被り、ついで6月、右大臣に任じられ、政権の座についた。これに派生した甥(おい)の伊周(これちか)との政治的確執を克服した道長は、名門藤原公任(きんとう)を抑え、源俊賢(みなもとのとしかた)や藤原行成(ゆきなり)らの協力を得て自己の政権を強固にしていった。一方、彼は宇多源氏(うだげんじ)の倫子(ともこ)を正妻、醍醐源氏(だいごげんじ)の明子(あきこ)(高松殿)を本妻に迎え、毛並みを整えた。

 やがて長女の彰子(あきこ)が長ずると、中宮(ちゅうぐう)として一条天皇の後宮に納(い)れ、一帝二后の制を始めた。三条天皇(さんじょうてんのう)が登位すると二女の妍子(よしこ)をその中宮とした。三条天皇が眼病を患うに至って、彼はそれを理由に譲位を迫った。こうして彰子が産んだ敦成親王(あつなりしんのう)が登位し(後一条天皇(ごいちじょうてんのう))、彼は外祖父として摂政に任じられた(1016)。翌年、摂政を辞し、従(じゅ)一位太政大臣に昇進した。この年、工作して皇太子敦明親王(あつあきらしんのう)(三条皇子)の辞退を図り、彰子腹の敦良親王(あつながしんのう)を皇太弟にたてたし、一男の頼通(よりみち)が摂政に任じられた1018年(寛仁2)には、正妻腹の威子(たけこ)が後一条天皇の中宮、その同母妹の嬉子(よしこ)が尚侍(ないしのかみ)の名で皇太弟(後の後朱雀天皇(ごすざくてんのう))の妃となった。いまや娘たちのうち彰子は太皇太后、妍子は皇太后、威子は中宮(皇后)であり、道長は三后の父となった。有名な望月(もちづき)の歌「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」は、同年10月、権力の絶頂に達した道長が喜びのあまりに詠じたものである。

 政治家としての道長は、特別に優れた政策はもたなかった。それは刀伊(とい)の賊の入寇(にゅうこう)(1019)に際しての無策によっても指証される。しかし国内の政情は安穏であり、代々培われた摂関家の勢威が強固であったため、政界は事なきを得たといえよう。彼がもっとも腐心したのは後宮政策であって、次々と娘を宮中に入れ、外孫が登位することによって不動の地位を得、かつそれを息子たちに及ぼした。

 道長は、政治家として冷酷非情な人物ではなかった。政敵を倒すことは、どの政治家にも避けがたいことであるが、彼の場合は、いったん失脚した政敵を厚く遇し、かつ娘を配したりして、彼らの恨みを買わぬように配慮していた。また妾妻たちを女房として後宮の各所に仕えさせ、もろもろの情報を収集することも、彼の常套(じょうとう)手段であった。おそらく紫式部は、その意味での妾妻の一人であったのであろう。

 当時の貴族の常として、道長も厚く仏教に帰依(きえ)していた。彼は、祖先を供養するために、宇治の木幡(こはた)の墓地に浄妙寺を建てたし、また吉野の金峯山(きんぷせん)に詣(もう)で、埋経の端緒をつくった。1019年には、院源を戒師として出家し、法号を行観(ぎょうかん)(のち行覚(ぎょうかく))と称した。晩年には、本邸土御門殿(つちみかどどの)の東に接して、この世の浄土とも称せられた豪華な法成寺を建立した。

 文学の方面では、道長は優れた詩人であり、歌人でもあった。彼がつくった漢詩は『本朝麗藻(ほんちょうれいそう)』に多数収められている。和歌のほうは、『後拾遺集(ごしゅういしゅう)』以下の勅撰集(ちょくせんしゅう)に33首とられている。『御堂関白集』にも彼の詠草が収められているけれども、これは彼の歌集ではないと認められている。

 道長が中宮彰子の側近に粒よりの才媛(さいえん)を女房としてはべらせたことは、女流文学の興隆を大いに助成した。『紫式部日記』によると、彼は『源氏物語』に非常な関心を抱き、その面でも紫式部を後援していた。

 道長は、政務に忙殺されてはいたが、23年にわたって毎日日記をつけていた。現存する日記の自筆本は14巻に及ぶが、これを『御堂関白記』というのは後人の呼称である。この日記は、11世紀初頭の政治や世相を知るうえで甚だ貴重な史料である。

 道長はもともと頑健な体質ではなく、生涯にわたって幾度も大病を患っている。51歳ごろからは糖尿病を患うようになった。実のところ例の「望月の歌」を詠んだころには、彼は糖尿病に由来する白内障や心臓神経痛に悩んでいたのである。これに加えて、1025年(万寿2)8月には娘の嬉子が皇子(後の後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう))を産んで薨(こう)じ、妍子も1027年9月に崩じ、これらの悲哀は彼に大きな打撃をもたらした。同年6月から彼は背中にできた癰(よう)に悩んでいた。あらゆる祈祷(きとう)や治療によっても病勢は快方に向かわず、10月には乳房ほどに腫(は)れ上がった癰のため苦悶(くもん)を続けた。彼は法成寺の九体阿弥陀堂(くたいあみだどう)に病床を移し、そこで顔を西方(浄土)に向けて同年12月4日に薨逝(こうせい)した。享年は62歳。同じ日に道長の永年の盟友であった権大納言行成も薨じた(56歳)。道長の遺骸(いがい)は愛宕(おたぎ)郡の鳥倍野(とりべの)で荼毘(だび)に付され、骨灰は宇治木幡の墓地に埋納された。木幡には、藤原氏北家関係の火葬墓が累々と現存しているが、どれが道長の墓であるかは不明である。

角田文衛

『『日本古典文学全集20 大鏡』(1974・小学館)』『『日本古典文学大系75・76 栄花物語 上下』(1976・岩波書店)』『赤木志津子著『御堂関白藤原道長』(1966・秀英出版)』『北山茂夫著『藤原道長』(岩波新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「藤原道長」の意味・わかりやすい解説

藤原道長 (ふじわらのみちなが)
生没年:966-1027(康保3-万寿4)

平安中期の公卿。摂政兼家の五男。母は摂津守藤原中正の女時姫。986年(寛和2)一条天皇が践祚し,父兼家が摂政となるや,翌年従四位上から3階を越えて従三位に昇り,以後累進して,991年(正暦2)権大納言に任ぜられた。995年(長徳1)疫病が流行し,兄の関白道隆・道兼が相ついで没したため,その後継をめぐって,道隆の男伊周(これちか)と激しく争ったが道長の姉で,天皇の生母である東三条院詮子の強力な後援によりこの争いに勝ち,内覧(ないらん)の宣旨をたまわり,右大臣に昇り,翌年左大臣に進んだ。以後,一条・三条両朝にわたり,関白に準ずる内覧の臣として天皇を補佐し,一上(いちのかみ)(首席公卿)として廷臣を率いて公事・政務を奉行し,その権勢は摂政・関白と異ならずと評された。〈御堂関白〉の称の生まれたゆえんである。一方,999年(長保1)女彰子(上東門院)を一条天皇の後宮にいれ,すでに兄道隆の女定子が后位を占めていたにもかかわらず,翌年彰子を皇后に立て,2人の妻后が併立する新例を開いた。ついで1016年(長和5)三条天皇に強請して彰子が生んだ後一条天皇に位を譲らせ,外祖父として摂政の座に就いたが,翌年には早くも摂政を長男頼通に譲った。しかし権勢は少しも衰えず,世人は〈大殿〉と呼んで恐れはばかった。道長は三条天皇の後宮にも女の姸子(けんし)をいれ,さらに後一条天皇の後宮に女威子(いし)をいれたが,18年(寛仁2)10月16日には威子を皇后に立て,姸子は皇太后に転上したので,太皇太后彰子とともに,3人の女子が三后に並び立つという未曾有の盛観を呈した。かの有名な〈この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば〉の歌は,この日の威子の立后を祝う公卿の宴席で,道長がみずから十六夜の月にかけて詠んだ歌である。しかしそのころから道長は病気がちになり,翌年3月出家して行観(のち行覚)と称し,ついで法成寺の造営に力を傾け,20年には無量寿院が完成し,9体の阿弥陀仏が安置された。さらに22年(治安2)には金堂も建ち,法成寺の名も定められ,引き続いて薬師堂や釈迦堂なども造立された。これがすなわち御堂で,道長の別称にもなった。この間,やや健康をとりもどしたが,27年(万寿4)に入ると急速に心身の衰えを見せ,12月4日,無量寿院の九体阿弥陀仏から引いた糸を手にして生涯を終えた。

 その日記は自筆本の14巻をはじめとして,《御堂関白記》などの名称で伝えられている。また道長は左大臣源雅信の女倫子との間に上記の三后および頼通,教通らを生み,左大臣源高明の女明子との間に頼宗,能信らを生んだ。その子孫は御堂の子孫と称して一流を形成したが,やがてその御堂流の嫡流に摂関職が定着し,家柄としての摂関家が成立し,さらに五摂家に発展したのである。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原道長」の解説

藤原道長

没年:万寿4.12.4(1028.1.3)
生年:康保3(966)
平安中期の公卿。法成寺殿と称した。法号は行覚。従一位。摂関兼家と藤原中正の娘時姫の3男。強弓の人とか,肝だめしでふたりの兄(道隆,道兼)に勝ったといった豪胆ぶりを伝える話などは有名。寛和2(986)年,父兼家が一条天皇の摂政となると,翌年道長は従四位から一気に従三位に。正暦2(991)年権大納言に任じられたが,この間ふたりの妻を得ている。ひとりは左大臣源雅信の娘倫子(結婚は987年)。道長の人物を見込んだ倫子の母(藤原穆子)が反対する夫雅信を説得して成立したという。もうひとりは姉詮子(東三条院,一条天皇の母)のもとに預けられていた左大臣源高明の娘明子。この結婚(988)は姉のすすめによる。賜姓源氏の娘をふたりも妻にしたのは,その貴種性と財力をねらったものである。 長徳1(995)年疫病が流行,関白を務めていたふたりの兄が死去すると,その後継者の地位をめぐって,兄道隆の息子伊周と激しく争うが,姉詮子の強力なバックアップによって同年5月,内覧(摂政,関白に準ずる職)となる。このあたり,強運にも恵まれていたといえよう。ひと月後に右大臣・氏長者,翌2年左大臣となって,政界の頂点に立ち,以後持ち前の政治力を発揮して政界を牛耳った。しかし,一条・三条天皇時代(986~1015,ともに甥に当たる)には左大臣(996),内覧として過ごし,外孫である後一条天皇即位(1016)のとき1年ほど摂政になっただけで子の頼通に譲り,ついに関白は経験しなかった。完璧なまでに権力を行使し得た時点において,もはや摂関に執着することもなかったといえよう。その道長が一時的に摂政になったのは待望の外孫の即位による喜びからのみであったとみられる。 外孫の即位に至る執念には凄まじいものがあった。長女の彰子を強引に一条天皇の中宮とし,生まれたふたりの孫を天皇に立てると彰子の同母妹をそれぞれに入内させた。その結果,威子が後一条天皇の中宮となったことで「一家に三后」という未曾有のことを成し遂げている。「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」という歌は威子立后(1018)の夜の宴席で酔いにまかせて歌ったもの。なお後一条の即位は再三にわたって三条天皇に譲位を迫って実現したもので,その際に天皇との約束から第1皇子の敦明親王を東宮としたが,三条天皇が崩御するや敦明を辞退に追いやり,外孫で後一条天皇の弟の敦良親王(のちの後朱雀天皇)の立太子を実現した。 平安京内の数カ所に豪邸を構えたが,なかでも栄華の舞台となったのは土御門殿である。出産のためこの邸へ里下りした中宮彰子についてきた女房の紫式部は邸の美しさや道長の勇姿,皇子誕生の喜びに沸く様子,帝の行幸などを『紫式部日記』に描写した。土御門殿の東の京外に造営したのが阿弥陀堂(無量寿院)に始まる法成寺すなわち「御堂」であり,道長の「御堂」「御堂関白」の呼称はこれによる。木幡(宇治市)の累代の墓地に浄妙寺を建立した。『源氏物語』の主人公の光源氏に投影され,『栄花物語』では理想的な人間として描かれている。後世に『御堂関白記』と命名される日記の自筆本14巻が京都の陽明文庫にあり,現存の自筆日記としては最古のものである。<参考文献>土田直鎮「藤原道長」(川崎庸之編『王朝の落日』),中村匡男『道長の栄華』,赤木志津子『御堂関白』,北山茂夫『藤原道長』,山中裕『藤原道長』

(朧谷寿)

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百科事典マイペディア 「藤原道長」の意味・わかりやすい解説

藤原道長【ふじわらのみちなが】

平安中期の高官。摂政。兼家(かねいえ)の子。御堂関白(みどうかんぱく)と称された。995年右大臣となり,兄の子伊周(これちか)・隆家兄弟を失脚させて翌年には左大臣に進む。娘の彰子(しょうし)らを入内させ,3代の天皇の外戚(がいせき)として藤原氏全盛時代を現出。1017年子頼通(よりみち)に摂政を譲り,太政大臣。法成(ほうじょう)寺を建立。その日記は《御堂関白記》。→摂関政治藤原頼通
→関連項目赤染衛門栄花(華)物語大鏡外戚後一条天皇康尚木幡三条天皇定朝小右記平等院藤原保昌源頼信紫式部日記

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原道長」の意味・わかりやすい解説

藤原道長
ふじわらのみちなが

[生]康保3(966).京都
[没]万寿4(1027).12.4. 京都
平安時代中期の廷臣。兼家の第5子。母は藤原中正の娘時姫。権大納言の地位にあった長徳1 (995) 年長兄道隆,次兄道兼が相次いで没すると,その地位を道隆の嫡子内大臣伊周 (これちか) と争って,同年内覧,右大臣,氏長者となって政権の首座についた。翌年伊周の失脚により左大臣。長和5 (1016) 年外孫の後一条天皇の践祚とともに摂政となったが,翌年これを嫡子頼通に譲った。しかし実権は自分で握り,藤原氏摂関政治の最盛期を築いた。同年従一位,太政大臣となったが,翌年これを辞し,さらに翌寛仁3 (19) 年出家し,行観 (同年行覚と改む) といった。出家後法成寺を造営し,晩年はここに住んだ。日記『御堂関白記』があるが,関白に就任したことはない。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原道長」の解説

藤原道長
ふじわらのみちなが

966~1027.12.4

平安中期の貴族。兼家の子。兄に道隆・道兼,姉に詮子,子に頼通らがいる。980年(天元3)従五位下。986年(寛和2)一条朝になり父兼家が実権を握ると蔵人・左少将,翌年従三位。権中納言・権大納言と進み,995年(長徳元)兄道隆・道兼の死去により,甥伊周(これちか)を退けて内覧・右大臣・氏長者となって実権を握る。翌年左大臣・正二位。女の中宮彰子(しょうし)は後一条・後朱雀を生み道長の外戚化に貢献。1011年(寛弘8)三条朝になると,女の中宮妍子(けんし)に親王が生まれず,天皇と確執が生じた。16年(長和5)後一条朝となり摂政になるが,翌年摂政を子頼通に譲って従一位太政大臣。18年(寛仁2)女の威子(いし)を後一条中宮として一家3后を実現し,「この世をば我が世とぞ思ふ」と謳った。翌年出家し,法名行観(のち行覚)となる。この年准三宮。法成(ほうじょう)寺を建立。御堂関白と称され,日記「御堂関白記」(国宝)は自筆原本で伝わる。「大鏡」「栄花物語」は彼の栄華を描く。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原道長」の解説

藤原道長 ふじわらの-みちなが

966-1028* 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
康保(こうほう)3年生まれ。藤原兼家の5男。母は藤原中正の娘時姫。兄道隆・道兼の死去で,長徳元年(995)内覧,右大臣,2年左大臣。後一条天皇の摂政となり,寛仁(かんにん)元年(1017)従一位,太政大臣。娘の彰子,妍子(けんし),威子(いし)の立后により摂関の全盛期をきずいた。詩は「本朝麗藻」に,歌は勅撰集に43首がはいる。万寿4年12月4日死去。62歳。通称は御堂(みどう)関白,法成寺関白。日記に「御堂関白記」。
【格言など】此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば(威子が中宮になったときの歌)

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原道長」の解説

藤原道長
ふじわらのみちなが

966〜1027
平安中期の公卿
関白兼家の5男。兄の関白道隆・道兼の死後,一族の勢力争いを抑えて政権を独占し,左大臣から摂政になった。彰子ら4人の娘を一条・三条・後一条・後朱雀 (ごすざく) 4天皇の中宮とし,3天皇の外戚として権勢並ぶものなく,摂関政治の最盛期を現出した。1017年,子頼通 (よりみち) に摂政を譲り太政大臣となった。晩年は出家して法成寺 (ほうじようじ) を建立。関白にはならなかったが,「御堂関白」といわれ,日記に『御堂関白記』がある。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原道長の言及

【栄華物語(栄花物語)】より

…40巻(異本30巻)。藤原道長の栄華を主としているところから書名がつけられ,また世代継承の物語でもあるから,《大鏡》とともに別名を《世継》または《世継物語》ともいう。《源氏物語》にならい毎巻巻名がつけられており,巻三十〈鶴の林〉までを正編,巻三十一〈殿上の花見〉以下10巻を続編とし,続編は正編の作者とは別人によって書き継がれていったものと考えられる。…

【三条天皇】より

…第67代に数えられる天皇。在位1011‐16年。冷泉天皇第2皇子,母は女御超子(藤原兼家の女)。諱(いみな)は居貞。986年(寛和2)7月従弟の一条天皇即位に際し元服,立太子。1011年(寛弘8)危篤の一条天皇の譲位をうけた。天皇は執政の左大臣道長と不和で,とくに即位の翌年女御妍子(けんし)(道長の女)の立后に引き続き,女御娍子(じようし)(藤原済時の女)を道長の意に反して立后させ,道長はその儀式を妨害するなどの事があり,対立を深めた。…

【土御門殿】より

…藤原道長の邸宅の一つであり,土御門京極殿,上東門第,京極殿とも呼ばれた。平安京の土御門大路南,京極大路西に所在し,東西1町,南北2町の地を占めた。…

【糖尿病】より

…日本でも古くから知られ,〈消渇(しようかち)〉とか〈飲水病〉といわれ,歴代の医書にもかなり正確な記述があり,江戸時代では本間棗軒(そうけん)(玄調)の《内科秘録》が最も詳しい。歴史上の人物では藤原道長とその一族の男性3人が糖尿病であったことが名高い。道長は51歳で飲水病を発病し,つづいて眼病を併発,最後は癰(よう)を併発し,62歳で死亡した。…

【入道】より

…そしてさらに出家の姿をしていながら,俗人と同じような生活をしている人々も入道と呼ばれるようになった。 古典の世界で,入道と呼ばれる人物として最も名高いのは藤原道長であろう。道長は晩年の8年間を出家の身で過ごしたが,その間の法成寺造営などのことを記した諸書は,多く道長を入道と呼んでいる。…

【東三条院】より

…996年(長徳2)3月病が重くなり院号を辞退するが聴許されず,1001年閏12月22日没した。女院は関白藤原道長の姉に当たり,道長の権勢確立を背後から支援したのは有名で,《愚管抄》に〈コノ女院ノ御ハカラヒノマヽニテ世ハアリケントナン申ツタエタリ〉とある。【米田 雄介】。…

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

【法成寺】より

藤原道長が造営した摂関家全盛期を象徴する大寺。〈御堂(みどう)〉と呼ばれ,道長の〈御堂関白〉という異称も生まれた。…

【御堂関白記】より

…摂政太政大臣藤原道長の日記。《入道殿御暦》《法成寺入道左大臣記》など多くの名称があるが,江戸時代に近衛家熙の新写本に用いられた《御堂関白記》の称が最も広く流布した。…

【源頼光】より

…平安中期の武将,貴族。清和源氏満仲の長子。摂津源氏の祖。摂津,伊予,美濃等の諸国の受領を歴任。内蔵頭,左馬権頭,東宮権亮等をつとめた。藤原摂関家に接近し,その家司(けいし)的存在となって勢力を伸長した。例えば988年(永延2)摂政兼家の二条京極第新築に際し馬30頭を献じたことや,1018年(寛仁2)道長の土御門第新造のときにその調度品のいっさいを負担したこと,道長の異母兄道綱を娘婿に迎え彼を自邸に同居させたことなどはその現れである。…

※「藤原道長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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