藤原顕信(読み)ふじわらのあきのぶ

朝日日本歴史人物事典 「藤原顕信」の解説

藤原顕信

没年:万寿4.5.14(1027.6.20)
生年正暦5(994)
平安中期の貴族。幼名は苔君。法名は一説には長禅(『今鏡』)。藤原道長と明子(左大臣源高明 の娘)の子。11歳で兄と共に元服,叙爵され,翌年には侍従となり昇殿を許された。舞が上手で賀茂神社,大原野神社,石清水八幡宮,春日社などにおいて披露することも多かった。このように父のもとで輝かしいスタートを切ったが何を思ったか,19歳のとき従四位上右馬頭の地位をすてて親にも告げずに一条革堂に行円(皮聖)を訪ねて剃髪し,その足で叡山無動寺に登り,慶命僧都を戒師として出家した。両親悲嘆は大きく,道長は子息や卿相らと登山して出家姿の顕信に会い,僧都に後事を託し,近江守藤原知章をして寺中に住房の造作を命じている。無動寺で死去

(朧谷寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原顕信」の解説

藤原顕信 ふじわらの-あきのぶ

994-1027 平安時代中期の官吏
正暦(しょうりゃく)5年生まれ。藤原道長の3男。母は源明子。19歳,右馬頭(かみ)のとき,行円(革聖(かわひじり))をたずねて剃髪(ていはつ)。そのまま比叡山(ひえいざん)無動寺にはいって出家し,両親をなげかせた。万寿4年5月14日死去。34歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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