藤原顕頼(読み)ふじわらのあきより

朝日日本歴史人物事典 「藤原顕頼」の解説

藤原顕頼

没年:久安4.1.5(1148.1.27)
生年:嘉保1(1094)
平安後期の公卿。鳥羽院の有力近臣。葉室家の祖権中納言藤原顕隆と越後守藤原季綱の娘の子。一説に母は美濃守源頼綱の娘。九条民部卿と号す。嘉承3(1108)年叙爵,同時に,白河院の有力院司であった父顕隆の意により出雲守となる。以後,丹後,丹波と受領を歴任,さらに中宮権大進,蔵人頭,弁官と要職を経る。天承1(1131)年,参議に昇り公卿の座に列し,以後右兵衛督・使庁別当を兼任。長承3(1134)年権中納言に昇る。保延5(1139)年大宰権帥を兼ね,永治1(1141)年,権中納言・大宰権帥を辞し,民部卿となる。久安4(1148)年病により出家,間もなく死去。『夕郎故実』に,鳥羽上皇に「無二奉公を致す」と記されたごとく,鳥羽院政の基盤を支えた最重要人物のひとりで,受領として,あるいは 遠江,三河などの知行国主として得た豊富な財力で院のための御所・堂舎の造営に尽くした。その中のひとつ,九条坊門南・東洞院東に建立した興善院は,鳥羽院に寄進されて,安楽寿院の末寺となった。このとき顕頼が興善院に寄せた山城国の散在田が,拝師荘(福知山市)の基礎となる。九条北・東洞院東に邸宅を有し,『拾芥抄』の東京図には「顕頼卿堂」とみえる。また二条南・東洞院西にも邸宅を構えた。日記『九民記』の一部が,『東山御文庫記録』に収められている。<参考文献>橋本義彦『平安貴族社会の研究』

(上杉和彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「藤原顕頼」の意味・わかりやすい解説

藤原顕頼 (ふじわらのあきより)
生没年:1094-1148(嘉保1-久安4)

平安後期の公卿。葉室家の祖権中納言顕隆の長男。母は鳥羽天皇の乳母典侍悦子。1107年(嘉承2)鳥羽天皇の践祚(せんそ)後まもなく蔵人に補されて以来,天皇に近侍し,左衛門権佐,右中弁,蔵人頭などを歴任し,31年(天承1)参議に昇り,さらに権中納言に進んだが,41年(永治1)これを辞し,民部卿に任ぜられた。しかしその後も重要な政務に参議し,諮問にあずかったので〈君の腹心〉と称され,内外の権を執って勢威をふるったと評された。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原顕頼」の解説

藤原顕頼 ふじわらの-あきより

葉室顕頼(はむろ-あきより)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の藤原顕頼の言及

【名家】より

…公家の家格の一つ。儒道より出身し,弁官,蔵人を経て大納言に至る家柄。古来,広くは名望ある家柄の意味に用いられた語であるが,平安末期の記録に勧修寺流藤原氏の蔵人顕頼や,大外記を世襲する中原広宗,清原信俊について〈累代の名家〉と書いているのは,代々故実を伝承し,才識をもって名を得ている家の意と解釈され,さらに顕頼の子光頼について〈数代弁官の家なり〉とする記述のあるのを考えあわせると,〈名家〉の語の系譜がほぼ推測される。…

※「藤原顕頼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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