藤本定義(読み)フジモトサダヨシ

デジタル大辞泉 「藤本定義」の意味・読み・例文・類語

ふじもと‐さだよし〔ふぢもと‐〕【藤本定義】

[1904~1981]プロ野球監督愛媛の生まれ。昭和11年(1936)巨人軍の監督に就任し、第1期黄金時代を築く。戦後は阪急(オリックス前身)・阪神などで監督を務めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤本定義」の意味・わかりやすい解説

藤本定義
ふじもとさだよし
(1904―1981)

プロ野球監督。12月20日、愛媛県生まれ。松山商では投手兼三塁手として活躍し、早稲田(わせだ)大学時代には1925年(大正14)の復活早慶戦のマウンドにも立った。卒業後は大阪鉄道管理局に入り、東京に異動されてから監督となった。アメリカ遠征から帰国した東京巨人(現、読売ジャイアンツ)を倒したことでその手腕が高く評価され、1936年に巨人監督に迎えられた。同年の優勝決定戦で大阪タイガース(現、阪神タイガース)を降して優勝、1937年、1938年は優勝決定戦で敗れたものの、その後は名投手スタルヒンを育て上げて1939年から4連覇を成し遂げ、巨人の第一期黄金時代を築き上げた。1942年で退団、第二次世界大戦後は1946年からパシフィック(1947年は太陽ロビンス)、1948年金星スターズ(1949年から1956年までは大映スターズ)、1957年から1959年阪急ブレーブス(現、オリックス・バファローズ)、1961年から1968年阪神タイガースで采配(さいはい)を振るった。阪神時代の1962年と1964年にはリーグ優勝を果たしたが、日本シリーズでは勝てなかった。通算1657勝は歴代3位(2007年時点)である。

[出村義和]

 監督としての通算成績(29年)は、3200試合、1657勝1450敗93分け、勝率5割3分3厘、リーグ優勝9回(うち1リーグ時代は7回)。1974年(昭和49)野球殿堂野球殿堂博物館)入り。

[編集部 2016年9月16日]

『藤本定義著『実録プロ野球四十年史』(1977・恒文社)』『藤本定義著・南萬満構成『投手教書』(1994・新評論)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤本定義」の意味・わかりやすい解説

藤本定義
ふじもとさだよし

[生]1904.12.20. 愛媛,松山
[没]1981.2.18. 兵庫,神戸
プロ野球監督。松山商業から早稲田大学に進学し,エースとして活躍した。卒業後は社会人野球の大阪鉄道管理局,東京鉄道管理局に所属,1935年には東京鉄道管理局の監督として,アメリカ遠征から帰国した読売ジャイアンツの前身,東京巨人軍に完勝し,その手腕を買われて 1936年に巨人に監督として招聘された。第2次世界大戦前の 1942年までに7回の優勝を飾り,巨人の第1期黄金時代を築いた。戦後は,パシフィック (のちに太陽ロビンス) ,金星スターズ (のちに大映スターズ) ,阪急ブレーブス,阪神タイガースを率い,1968年に阪神を退団するまで,史上最長の通算 29年間監督を務めた。優勝回数は9回 (阪神2回) を数える。投手のローテーションを初めて導入した監督とされ,V.K.スタルヒン (巨人) ,村山実小山正明,江夏豊 (以上阪神) など多くの名投手を育てた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤本定義」の解説

藤本定義 ふじもと-さだよし

1904-1981 昭和時代のプロ野球監督。
明治37年12月20日生まれ。昭和11年巨人軍監督となり,在任9シーズンで7度優勝,三原脩(おさむ),水原茂,川上哲治(てつはる)らをそだてた。36年阪神監督となり37年と39年優勝。6球団の監督をつとめ,監督経験最多年数を記録。49年野球殿堂入り。昭和56年2月18日死去。76歳。愛媛県出身。早大卒。
【格言など】プロは練習と頭や(信条)

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