西芳寺(読み)サイホウジ

デジタル大辞泉 「西芳寺」の意味・読み・例文・類語

さいほう‐じ〔サイハウ‐〕【西芳寺】

京都市西京区にある臨済宗天竜寺派の寺。山号は洪隠こういん山。天平年間(729~749)行基の開創と伝え、初め西方寺と称した。鎌倉時代には浄土宗寺院であったが、延元4=暦応2年(1339)夢窓疎石が復興、禅寺とし、寺号も改めた。庭園はこけが密生する枯れ山水で、苔寺こけでらの通称がある。平成6年(1994)「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産文化遺産)に登録された。

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精選版 日本国語大辞典 「西芳寺」の意味・読み・例文・類語

さいほう‐じ サイハウ‥【西芳寺】

京都市西京区松尾神ケ谷町にある臨済宗系単立寺院。山号洪隠山。聖武天皇の勅願により行基(ぎょうき)が開いた四十九院の一つ。空海・真如(しんにょ)・源空などが来住。暦応二年(一三三九)夢窓国師が中興し、名を西方寺から西芳寺に改め臨済宗に改宗、庭園を築造した。庭園は五十余種の苔が密生する枯山水特別名勝・史跡に指定され、苔寺の通称がある。

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日本歴史地名大系 「西芳寺」の解説

西芳寺
さいほうじ

[現在地名]西京区松尾神ヶ谷町

西芳寺川の北岸、谷の入口に位置する。洪隠山と号し、俗にこけ寺の名で知られる。臨済系単立寺院。本尊阿弥陀如来。平成六年(一九九四)世界の文化遺産(古都京都の文化財)に登録された。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔草創伝承〕

応永七年(一四〇〇)住持急渓中韋の著した「西芳寺縁起」は創立を聖徳太子の別墅にさかのぼるといい、「和漢三才図会」「雍州府志」「山州名跡志」などにより抜きがたい伝説となっている。比較的信頼できる「夢窓国師年譜」は、天平年中(七二九―七四九)に行基が聖武天皇の勅願により創建した畿内四九院の一、「西方寺」を草創とする。「西芳寺縁起」は平城天皇の皇子高岳親王が薬子の変で皇太子を廃され、一時ここに住した空海について落飾、真如親王と号して入唐した。その後荒廃したが、平重盛が父清盛の怒りを避けて一時この寺に蟄居した。さらに親鸞が当寺の愚禿堂を築き、正嘉年間(一二五七―五九)北条時頼が諸国巡察の際、仮寓して桜堂と称したなどとも伝える。しかしいずれも実証的根拠はない。建久年間(一一九〇―九九)のちに幕府評定衆も務めた中原師員が堂舎を再建して本寺を西方・穢土の二寺に分け、法然を招請したという伝えは、師員が南北朝期に当寺を復興した摂津親秀の先祖にあたり、穢土寺の名も応安七年(一三七四)一〇月二九日の寄進状(地蔵院文書)にみえることから、ありうることである。

〔夢窓疎石による禅寺化〕

建武年間(一三三四―三六)の兵乱で荒廃したが、室町幕府の評定衆で当寺の檀越でもあった摂津親秀が暦応二年(一三三九)四月夢窓疎石を招請して復興。疎石は浄土宗を臨済宗に改め、名も西方寺から西芳寺と変えて西芳精舎の額を掲げ、本尊の阿弥陀如来にちなみ仏殿を西来さいらい堂と名付けた。疎石の弟子春屋妙葩は、「夢窓国師年譜」に「仏殿本安無量寿仏像、今以西来堂扁焉、堂前旧有大桜花樹、春時花敷、稠密殊妙、為洛陽奇観」と述べる。光厳上皇は康永元年(一三四二)と貞和三年(一三四七)に訪れたが、二度目の参詣の際、太政大臣洞院公賢は日記「園太暦」同年二月三〇日条に、「庭花盛開、有感有興、花陰立胡床数脚、上皇以下東堂諸卿候之、暫握翫、其後御乗船、御料舟一艘、有小屋形」と記す。永享五年(一四三三)には伏見宮貞成親王が「看聞日記」同年三月一八日条に感懐を述べている。

<資料は省略されています>
〔寺領〕

西芳寺は朝野の崇敬と幕府の保護も厚く、寄進や買得による寺領荘園は急速に集積された。

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改訂新版 世界大百科事典 「西芳寺」の意味・わかりやすい解説

西芳寺 (さいほうじ)

京都市西京区にある臨済宗の寺。洪隠山と号し,俗に苔寺(こけでら)と呼ぶ。寺伝では,奈良時代に僧行基が畿内に建立した49院の一つで,これを当寺の草創とする。鎌倉時代に中原師員が浄土宗の寺として再興整備し,室町初期の1339年(延元4・暦応2)幕府の有力武将摂津親秀が夢窓疎石を招いて禅苑として中興した。疎石はこのとき寺名を西方寺から現在の西芳寺と改め,ついで寺内の僧侶の行持を厳制し,住持は夢窓門派のみをあてることを定めて,当寺を夢窓門派の修道のための寺院とした。このため,当寺は室町前期に朝幕の保護を受けて寺運を開き,名園の景趣もあって,歴代足利将軍の参詣もつづいた。だが応仁の乱で堂宇は炎上,庭園も荒廃し,乱後再興されたが往時の勢いはなく,近世に入っても幾たびか水害の被害を受けている。桃山期の茶室湘南亭を除いて,現在の堂宇のほとんどは明治期のものである。
執筆者: 庭園は黄金池と名づけた下部の池庭と,その北側背後,洪隠山山腹の枯山水石組みや竜淵水,座禅石などのある上部庭園とよりなる。下部は西方寺時代からの池を,夢窓疎石が《碧巌録》第18則にある禅の理想境になぞらえて造り変えた。当時は北岸に仏殿西来堂(阿弥陀三尊をまつる),西岸の北部小池(蓮池)との間に重層の舎利殿(上層を無縫塔,下層を瑠璃殿という)を建て,橋と廊下で両者をつないでいた。南の中島には湘南亭(現存する重要文化財指定の湘南亭は桃山時代,千利休の子の少庵による再建で位置も異なる),西来堂の北側山裾には潭北亭(渓流と淵の力強い石組みが発掘されている)の二つの庭園建築があり,池のまわりには方丈や寮舎を配した。中島へは亭橋(邀月橋(ようげつきよう))を渡し,舟屋があって,舟遊びも行われた。西来堂の前にシダレザクラの大木があり,花どきには〈洛陽の奇観〉と称されていた。中島は水面近く低く浮かんで,白砂青松の明るく華やかな景であった。一方,上部庭園はまったく趣を異にし,現状からも修禅の場としての厳しさが感じられる。枯山水石組みとかたわらの指東庵(座禅堂)は,夢窓疎石が敬慕した亮座主(唐代中期の僧)に熊秀才(ゆうしゆうさい)(北宋の高官)が洪州西山でまみえた故事によるもので,亮座主が座禅していた山中の重畳する岩盤磐石のさまを表している。さらに山上に登ると,かつては縮遠亭という展望所があり,京都盆地の山なみを一望のもとに収めていた。現在の西芳寺庭園は当初の姿とは一変しているが,人工を尽くした庭と自然の広大な風景を組み合わせた疎石作庭の特色がうかがわれる。今日,苔寺と俗称され,全庭を覆う多種類の苔の美しさで名高いが,これは本庭の特質とはかかわり合いがない。特別名勝指定。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「西芳寺」の意味・わかりやすい解説

西芳寺
さいほうじ

京都市西京区松尾神ヶ谷町にある臨済(りんざい)宗天竜寺派の寺。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。洪隠(こういん)山と号し、一般には苔寺(こけでら)の名で知られる。『西芳寺縁起』によると、天平(てんぴょう)年間(729~749)に聖武(しょうむ)天皇の勅願により行基(ぎょうき)が創建、畿内(きない)四十九院の一つで、西方寺と号したが、池庭は聖徳太子の別荘であったと伝える。また同記には延朗(えんろう)がこの地に池を掘った記述がみえ、西芳寺の創建とかかわりがあったとみられる。建久(けんきゅう)年間(1190~99)中原師資(もろかず)が堂宇・庭園ともに再建し、法然(ほうねん)(源空)を請(しょう)じたが、のち荒廃したため1339年(延元4・暦応2)に師資の子孫の摂津守(せっつのかみ)藤原親秀(ちかひで)が夢窓疎石(むそうそせき)を招請して復興。疎石は浄土宗を臨済宗に改め、名も「祖師西来 五葉聯芳」の義より西芳寺に変え、また庭園に調和するよう潭北亭(たんほくてい)、湘南亭(しょうなんてい)、方丈(ほうじょう)を建てた。その後、朝野の崇敬、幕府の保護も厚く、足利(あしかが)将軍の参詣(さんけい)、来遊も相次いだが、応仁(おうにん)の乱(1467~77)により池庭も荒廃した。乱後、一時再興されたが、また兵火にあい、江戸時代には再度の水害を受けた。現在の建物のほとんどは明治期の造営である。

 現在の庭園は、疎石の造園当時の姿はほとんど失われているが、上下二段構えの庭からなる名園で、史跡・特別名勝に指定されている。下段は黄金池(おうごんち)(心字池(しんじいけ))を巡る池泉回遊式庭園、上段は枯山水(かれさんすい)の石組中心の枯山水庭園となっている。もとは下段に西方(さいほう)教院あるいは西方浄土(さいほうじょうど)寺、上段に厭離穢土(おんりえど)寺の2寺があったとみられる。池の周りには観音(かんのん)堂、少庵(しょうあん)堂、潭北亭、湘南亭(国の重要文化財)などの茶室がある。現在の湘南亭は慶長(けいちょう)(1596~1615)ころ千利休(せんのりきゅう)の次男少庵が再興、隠棲(いんせい)した茶室である。作庭当初は湘南亭付近の石垣部分から橋を架け、池中に瑠璃殿(るりでん)があり、浄土風庭園をなしていた。池泉・枯山水の意匠も大和絵(やまとえ)的で、石垣にも平安時代の影響がみられる。上段に通じる向上関をくぐると、ここからは禅的な境地が展開される。途中に須弥山(しゅみせん)の石組、指東庵(しとうあん)などがあり、その右手には疎石の築いた枯山水の石組があり、禅の境地を表現している。境内一帯は苔で覆われており、その種類は100種を超えるという。1994年(平成6)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。なお、拝観は、観光としてではなく参拝冥加(みょうが)料としてその内容により料金が異なる。事前の申込みが必要。

[重森完途]

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百科事典マイペディア 「西芳寺」の意味・わかりやすい解説

西芳寺【さいほうじ】

京都市西京区松尾にある単立の寺。本尊阿弥陀如来。庭園の石組と苔(こけ)の美しさが有名で,俗に苔寺と呼ばれる。国指定史跡,特別名勝。奈良時代に建てられた西方寺を1339年夢窓疎石が中興し,西芳寺と改称。疎石が築造した庭園は上下2段構えになっており,下段平地の庭は黄金池を中心とする回遊式庭園。金閣,銀閣の範となった舎利殿をはじめ,多くの建物があったが,応仁の乱で焼失した。本堂背後の洪隠山山腹を利用した上の庭は豪快な石組による枯山水が有名。1994年世界文化遺産に登録。
→関連項目京都[市]古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市)慈照寺西京[区]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西芳寺」の意味・わかりやすい解説

西芳寺
さいほうじ

京都市西京区所在の寺。苔寺とも呼ばれる。初め西方寺といい,天平年間に行基が建立。空海や源空もここに住したことがある。 14世紀半ば夢窓疎石が住し,荒れていたのを中興して浄土式庭園を築き,名を西芳寺と改め禅宗の道場とした。庭は下段の回遊式庭園 (池泉回遊式庭園) と上段の大ぶりの石を配した枯山水の庭園とに分かれ,上の庭は禅の修業の場として構成されたらしい。下段の庭はそののちに建物や橋を失い,そのあとをコケ (苔) が埋めた景が名高く苔寺の称が生まれた。多くの建物があったが応仁の乱で焼失,千利休の子,千少庵が隠棲した湘南亭を残す。

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旺文社日本史事典 三訂版 「西芳寺」の解説

西芳寺
さいほうじ

京都市右京区松尾にある臨済宗の寺
奈良時代の創建,初め西方寺と称した。1339年夢窓疎石が再興し,西芳寺と改め禅院とした。その庭園は疎石のつくった代表的禅宗庭園で,現在一面に苔が繁茂して美しいため「苔寺 (こけでら) 」とも称されて広く鑑賞されている。

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デジタル大辞泉プラス 「西芳寺」の解説

西芳(さいほう)寺

京都府京都市西京区にある寺院、苔寺の正式名。

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世界大百科事典(旧版)内の西芳寺の言及

【コケ植物(苔植物)】より

…地上生の蘚類の群生した状態は美しいので,観賞用として庭園や盆景に利用される。京都市の西芳(さいほう)寺(苔寺)の庭園はコケを巧みに使った名園である。観賞用に利用される種類はオオスギゴケ,ホソバノオキナゴケ,コバノチョウチンゴケ,ヒノキゴケなどである。…

【庭園】より

…夢窓国師は自然を愛好し,行くさきざきに名園をつくった。なかでも西芳寺の庭(図3)は,禅宗の世界観で構成された傑作である。この庭園が以後の庭園に与えた影響は測り知れないほどである。…

※「西芳寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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