観音寺(読み)かんのんじ

精選版 日本国語大辞典 「観音寺」の意味・読み・例文・類語

かんのん‐じ クヮンオン‥【観音寺】

[一] 香川県観音寺市八幡町にある真言宗大覚寺派の寺。山号、七宝山。正称は神恵(じんね)院観音寺。大宝三年(七〇三)日証大師の創始、大同二年(八〇七)空海が観音堂を建てる。四国八十八所の第六八・六九番札所(一寺二札所)。かんおんじ。西金堂。琴弾八幡。

かんおんじ クヮンオン‥【観音寺】

香川県西部の地名。瀬戸内海の燧(ひうち)灘に面し、古くから漁港として開ける。観音寺、琴弾(ことひき)八幡宮、俳人山崎宗鑑の一夜庵などがある。昭和三〇年(一九五五)市制。

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デジタル大辞泉 「観音寺」の意味・読み・例文・類語

かんおんじ〔クワンオンジ〕【観音寺】

香川県南西端、燧灘ひうちなだに面する市。水産加工業が盛ん。真言宗の観音寺の建つ琴弾ことひき山と、「寛永通宝」の砂文字がある有明浜は琴弾公園として名勝地。平成17年(2005)10月、大野原町・豊浜町と合併。人口6.3万(2010)。

かんのん‐じ〔クワンオン‐〕【観音寺】

観世音寺かんぜおんじ

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日本歴史地名大系 「観音寺」の解説

観音寺
かんのんじ

[現在地名]田辺町普賢寺 下大門

普賢寺ふげんじの北山麓の字下大門しものだいもんにあり、大御堂おおみどうとも称する。息長山と号し、真言宗智山派。本尊は奈良時代の木心乾漆の十一面観音立像で国宝。奈良時代に創建された普賢寺の後身で、境内には本堂(昭和二八年再建)・庫裏・鐘堂がある。本堂西隣の小丘上には地祇ちぎ神社がある。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔普賢寺〕

普賢寺の由来について嘉吉元年(一四四一)の「興福寺官務牒疏」は「普賢寺補略録」を引用して「天平十六甲申年勅願、良弁再造開基、号息長山、大御堂本尊丈六観世音、小御堂本尊普賢菩薩、光仁天皇宝亀九戊午年、五重大塔造立、桓武天皇十一年壬申、賜封戸二千稲束在河州交野郡」と述べる。しかし観音寺の寺伝によると「興福寺官務牒疏」が「在普賢寺境内、本尊釈迦仏、義淵僧正開基、天武天皇勅願、筒城寺ト云、白鳳二年草創也」と記す観心山親山しんざん寺が普賢寺の前身で、天平一六年(七四四)に聖武天皇の勅願で良弁が伽藍を拡大増築して丈六の十一面観音を安置し、息長山普賢教法ふげんきようほう寺と称するようになったという。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]福知山市字観音寺

観音寺集落の南方、谷の出口の小高い台地にある。山号補陀落山、高野山真言宗。本尊は千手千眼観世音菩薩で脇立は不動明王と多聞天。

寺伝によれば養老四年(七二〇)法道仙人の開基、応和元年(九六一)空也の再興とするが、後世の観音寺文書は空也を開山としている。また寺伝は、平安時代の末頃、後三条・白河両天皇から帰依された小野成尊僧都が一時当寺に住したことを伝え、また仁安年間(一一六六―六九)東寺一長者金剛王院宝賢が寺務を兼帯して岩蔵流の法流を当寺に伝えたので門信徒が参集、塔頭寺坊は、大聖だいしよう院・多聞たもん院・宝性ほうしよう院・実相じつそう院のほか福智ふくち(観音寺文書には福知院・福地院とも記す)など十有余坊を数えたという。

鎌倉時代以降の当寺は、幕府の北条氏・足利氏をはじめ丹波守護細川氏・守護代内藤氏やその被官の尊崇保護を受け、近世初期まで寺運盛んであった。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]青梅市塩船

打越うちこしにある。西光山と号する。真言宗醍醐派。本尊は十一面千手観音。大化年間(六四五―六五〇)若狭の八百比丘尼が関東を遍歴中に当地こそ諸天鎮護の地として千手観音を祀ったのが始まりで、天平年間(七二九―七四九)行基が荒廃していた堂宇を再興、当地を塩船しおぶねと名付けたという。貞観年間(八五九―八七七)延暦寺の安然が来山して観音堂を再興、さらに阿弥陀堂・薬師堂を建立、一二坊を整え、また七社権現を祀ったという。文永元年(一二六四)一二月二一日の木造千手観音立像(都指定文化財)胎内墨書銘に塩船寺とみえ、法眼快勢・法橋快賢らが浄成・栄覚を大檀那として造立したとある。次いで二十八部衆・脇侍などが定快らによって鎌倉期に二四体、弘円によって室町期に補作五体、さらに江戸時代に一体が造像された。戦国期の成立とされる市場之祭文写(武州文書)には塩舟等七所の権現とある。延文年間(一三五六―六一)・応安六年(一三七三)・永和三年(一三七七)・至徳二年(一三八五)などの大般若経(断簡奥書を含む)を所蔵する。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]山東町朝日

伊吹山と号し、天台宗。本尊千手観音。通称大原おおはら観音寺。観音護国寺ともいい、伊吹四護国寺の一つ。寺伝では宝亀年中(七七〇―七八一)三朱が創建、伊吹山中の弥高いやたか山と称される尾根上に弥高やたか(現滋賀県伊吹町)とともにあったが、貞和三年(一三四七)現在地に移建。永徳三年(一三八三)法相宗より天台宗に転じて延暦寺末となったという。しかし寺蔵文書(大原観音寺文書、以下同文書は省略)によると、正元二年(一二六〇)頃移転し、大原荘地頭佐々木大原氏の庇護を受け、弘長(一二六一―六四)から弘安(一二七八―八八)年間にかけ寺観を整えている。応永二六年(一四一九)二月二七日の本堂造作日記帳と文明八年(一四七六)三月吉日の本堂造作日記によれば、勧進に応じたのは大原荘内のほか、伊吹山南麓(現伊吹町南東部)あね川下流南岸一帯とよこ山西麓一帯(以上現滋賀県長浜市域)を含む広範囲の村々で、当寺が姉川の水をつかさどる水分神として信仰されていた伊吹山の寺であったことによるとみられる。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]大江町字南山

在田ありたの谷口から約三・五キロ山間の道を入ると仁王門がある。安置の仁王像は運慶の作と伝え、仁王門の右奥に本堂がある。高野山真言宗で、山号は室尾谷山。この辺りはおにじよう山麓の渓谷で幽寂の地である。

草創時期などについては不明だが、寺伝によれば和銅七年(七一四)行基の開基にかかり、行基が大和国室生むろお(現奈良県と三重県境)長谷はせ(現奈良県桜井市)の本尊の余木で十一面観音像を彫り、観音寺の本尊としたという。その後寺運衰退、貞永二年(一二三三)蓮乗が再興、盛時には塔頭が一一坊あったという(旧語集)。享保九年(一七二四)に記されたと思われる寺蔵文書も、貞永二年蓮乗が中興開山したとする。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]津市大門

大門だいもんの北部にあり、恵日山と号し、真言宗醍醐派、本尊聖観世音菩薩。津観音と通称され、伊勢巡礼第一四番の札所でもあった。近世には門前に大門・中之番なかのばん宿屋しゆくや町の町並が続き、門前町の性格も兼ねていたが、これは中世安濃津あのつ町にあった時以来の形態である。観音寺は一山の総称で住職はなく、寺務は寺内の四院があたり、大宝だいほう院が代表した。本尊は古伝では石仏の観音であったともいう。「勢陽雑記」は、和銅二年(七〇九)仏像が安濃あのう浦で網にかかり、奇瑞があったので、元明天皇の勅により伽藍堂塔を造ったと由来を述べる。

康正元年(一四五五)の勢州安濃津観音寺之事(三国地志)に「右恵日山観音寺者、津内為開発領主、代々被致御祈祷精誠之間、所令諸役停止也」とあり、四、五千軒の家屋が軒を並べて栄えたという安濃津町で、観音寺がすでに確固たる地歩を占めていたことがわかる。「草蔭冊子」に「当寺も旧は阿漕あこぎ浦の海瀕にありて御贄所なりしが、明応の震災に波濤を避け今の地に移建せしと云ふ、因て一御厨観音の称あり、津興の耕地に観音堂の字あり旧址ならんか」とあり、明応の大地震後安濃津から移ったとするが、伊藤又五郎日記要用抜書(津市史)は「信長治世天正八庚辰、阿漕浦の辺り津興村を引き、今此津に城建立」と天正八年(一五八〇)城下町形成の際の移転とする。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]矢板市長井 寺山

みや川の左岸丘陵にある。与楽山大悲心院と号し、真言宗智山派。本尊は寺山観音と称される千手観音。寺伝によれば、神亀元年(七二四)行基が高原山けんヶ峰の麓に法楽ほうらく寺を建立し、千手観音ならびに不動明王・毘沙門天の両脇侍を安置したが、延暦二二年(八〇三)雷火により観音堂を残し焼失したという。剣ヶ峰の西下に法楽寺があったという観満平かんまんだいら、その奥院があったという寺の在所てらのざいしよという地名が残る。

天明二年(一七八二)の観音寺縁起によれば、大同元年(八〇六)筑波つくば山の徳一が観音堂を高原山よりその東南麓(現在地)に引移し、御堂を建立したという。そのとき牛畜が石と化し、現在長井ながいよりの入口にある牛石となったという。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]桜井市大字南音羽

てら川の下居おりい橋から東へ約二キロあまり山道を登った音羽おとば山の中腹、標高六〇〇メートルに所在。音羽山と号し融通念仏宗。本尊千手千眼十一面観音。善法ぜんぽう寺・香法こうほう寺・音石おとわ寺・音羽寺とも称し、俗に音羽の観音とよばれる。古くは法相宗、のちに天台宗であった。寺伝によると、多武峯とうのみねの定慧が妙楽みようらく(現桜井市)をつくるにあたって、その鬼門除として当寺をつくり、藤原鎌足作の千手千眼十一面観音を安置したのに始まるという。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]田主丸町石垣 東谷

石垣山と号し、天台宗。石垣寺ともいう。本尊は十一面観音で、筑後三十三観音の第三番札所。寺伝によれば天武天皇二年(六七三)に天武天皇の勅願により創建されたとも、和銅元年(七〇八)に行基が建立したとも伝え(「筑後石垣山観音寺縁起」観音寺文書)、また一説には承和一四年(八四七)に唐から帰朝した円仁によって創建されたともいうが(「歴代略伝記」同文書)、いずれも確証はない。しかし境内からは一二世紀初頭ないし中葉にかけての経筒が多数出土しており(永久四年二月五日在銘など)、なかでも天永三年(一一一二)九月七日銘の写経(九州歴史資料館保管)は九州最古の埋納経といわれ、当地方における天台密教の中核的寺院であった。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]徳島市勢見町二丁目

勢見せいみ山北麓にある。勢見山千光せんこう院と号し、高野山真言宗。本尊は千手観音。初め勝浦かつうら大谷おおたにの北山にあったが、元和二年(一六一六)富田山路とみだやまじの現在地に移され、徳島城下の守護仏とされた(阿波志・阿淡年表秘録)。同時期に勝浦郡勢見山から移された金毘羅大権現(現金刀比羅神社)と対で城下南端の防衛拠点とされた。寛永五年(一六二八)には甲乙人等の狼藉、山林竹木伐採等を禁じる蜂須賀忠英の禁制(「阿波仏刹志」最近文明史料)、同一五年には参詣人の歌舞乱徊、境内の石土の採取などを禁じる忠英の禁制(同書)が与えられ、承応二年(一六五三)には山林の真木の伐採を禁じ、馬飼用として枝落・下刈などを認める蜂須賀光隆の禁制(同書)が下されている。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]舞鶴市字観音寺

大浦半島北部、そら山中腹の南斜面にある。山号補陀落山、真言宗御室派。本尊千手観音。

草創についてはつまびらかでないが、江戸時代になった縁起(寺蔵)によれば、延暦五年(七八六)異人の持ち来たった千手観音・不動・毘沙門天を祀ったのに始まるとし、鐘楼・経蔵が多くあって伽藍を誇り、同七年には封戸五〇戸を賜ったという。南北朝の貞治二年(一三六三)に三級宝塔(三重塔)を建立したが兵火にかかり、応永二六年(一四一九)本堂が再建されたがこれも兵火にかかった。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]大山崎町大山崎 白味才

天王てんのう山の東側中腹にある。妙音山と号し、真言系単立。本尊十一面千手観音。元禄一六年(一七〇三)前大納言正親町公通が撰した観音寺縁起に、当寺はもと大山崎倉内くらうち(現大阪府島本町)にあったが濫觴不詳で、よど(現京都市伏見区)の弥陀次郎が殺生をやめ発心して仏閣を建立したとの伝承を載せる。一方昌泰三年(九〇〇)開創との寺伝もあるが、倉内保から慈悲尾じひお(現島本町)に移されたという西観音寺(現廃寺)の寺伝と関連するようである。縁起は次いで木食以空による江戸初期の再興について述べる。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]金武町金武

国道三二九号を北西に入った所に位置する高野山真言宗寺院。金峰山補陀落ふだらく院と号し、俗に金武きんの寺ともいう。かつては遍照へんしよう(現那覇市)の末寺(辰五月「国内寺院覚」琉球産業制度資料)。現在の本尊は聖観音で、阿弥陀如来・薬師如来を脇士とする。「琉球国由来記」や「球陽」附巻の尚質王一五年(一六六二)条などによると、嘉靖年間(一五二二―六六)に日秀が金武の富花ちんのふつくわ(富蔵港)に漂着し、その地に寺社を創建して居住した。創建年は正徳年間(一五〇六―二一)ともいう。寺の当時の本尊は日秀自らが彫った弥陀・薬師・正観音の三像で、観音寺と名付けたが、のち霊山は日に衰え、神明も現れず、ついに当寺を禅宗の寺とした。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]鈴鹿市寺家三丁目

寺家じけ集落の北西部にあり、山号白子山、高野山真言宗。本尊白衣観音。白子山と称するのは、寺家が長く白子しろこ村の枝郷であったからであろう。寺家の地名もこの寺に関係あると思われる。通称子安観音といい、安産の霊験があるとされる。寺伝によれば聖武天皇の時、鼓の音がするので漁夫が網を下ろすと、鼓に乗り観音像が上がってきた。これを本尊として勅願寺を建立したという。付近の海岸をつづみヶ浦というのもこの伝説に由来する。

室町時代には称光天皇祈願所として綸旨を賜っている。「薩戒記」応永三三年(一四二六)一二月一三日の条に「伊勢国白子観音寺宜為御祈願所奉祷宝祚無窮者天気如此、悉之以状(下略)」とある。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]気仙沼市本町一丁目

海岸山普門院と号し天台宗、本尊阿弥陀如来(内刳寄木造坐像)。「封内風土記」は弘仁年中(八一〇―八二四)慈覚大師の草創と伝え、江戸寛永寺末と記す。「観蹟聞老志」は大悲だいひ(当寺のこと)の項に「源義経為鬼一法眼息女建也、其像行基作、息女所護持也、或曰義経朝臣所持也、有義経牌子」と記し、鬼一法眼の娘(皆鶴姫)の伝説について、天明六年(一七八六)七月当地を訪れた菅江真澄は、「はしわのわかば」続篇で次のように伝えている。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]津島市天王通り

延享五年(一七四八)の村絵図では津島村本郷の中央部東端の外小沼そとおずまの地にあり、現在は繁華街の天王てんのう通りに接している。三輿山と号し、真言宗智山派。本尊は不動明王坐像(応永六年金剛仏師良弁在銘)

「雑志」に「此寺、往古、海東郡三輿みこし村ニコレアリ。慶長十三戊申年津嶋村ニ移建。中興祝蔵法印ヨリ天王社役ヲ勤ム」とあり、もとは現海部あま佐織さおり見越みこしにあったと知られるが、天正二〇年(一五九二)五月六日の田中吉政白山先達屋敷地子米免許判物(津島市史)の宛名には「津嶋内、観音坊」とあるから、慶長一三年(一六〇八)津島移建説には問題が残る。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]野母崎町脇岬

遠見とおみ山の南西麓にある。円通山と号し、曹洞宗。本尊は伝行基作の木造千手観音立像(国指定重要文化財)。和銅二年(七〇九)行基の開創と伝え、京都仁和寺末であった。古くから肥御ひみ崎の観音として都人にも知られ、史料上に肥御崎ひみさき寺とみえるのが当寺と考えられる。慶長一六年(一六一一)キリシタンにより本堂や仏像を破却されたという。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]粉河町別所

別所べつしよ集落の北東に位置。如意山蓮華院と号し、真言宗山階派の古刹。本尊は如意輪観音長田ながた観音寺とも称される。「続風土記」には「本尊如意輪観音霊仏にて俗に呼ひて厄除観音といふ、毎年二月初の午の日遠近殊に群参して、道路数里の間肩を摩し袖を連るに至れり」とある。現在も厄除観音として広く信仰され、とりわけ旧二月初午の日は厄除観音参りで賑わう。

草創については不明な点も多いが、寺伝は延喜二一年(九二一)念仏上人によって開かれたという。また「紀伊国名所図会」は「古老伝へ云ふ、むかし一沙門あり、当寺の北中村領に草庵を結び、専弥陀を念じて、毎朝粉河観音に詣で、有縁の霊像を得んことを祈る、一日あるひ帰路老翁薦包を負ふに遇へり、沙門怪みて問ふ、翁包をとけば則如意輪観音の尊像なり、沙門そゞろに喜びて金を与へて尊像を乞ふ、翁その金を辞し像をとゞめて、南都をさして去る、沙門草庵にはせ帰りて其像を安置し、朝懺暮悔怠なし、其後奇瑞日に新に、香花の客群をなせり」と記し、本尊の観音は念仏が奈良春日明神から授かったものと伝えている。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]内海町坂手

荒神こうじん川の上流に、坂手さかての産土神荒神社とならんである。隼山自性院と号し、真言宗御室派。もと藤林坊と称し、本尊は十一面観音。島四国第三番札所。銅鐘は元禄四年(一六九一)の鋳造、鐘楼は翌五年の建立である(「棟札」寺蔵)。護摩堂裏の地蔵堂跡地に、豊前小倉藩の支藩千束藩家臣の墓碑一七基がある。宝永六年(一七〇九)七月、参勤交代の帰途藩主小笠原真方の乗船が明石沖で遭難し、真方をはじめ従者・水夫ら三一名が死亡、士分の者数名はこの墓地に埋葬された。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]徳島市国府町観音寺

国府町観音寺こくふちようかんのんじの旧伊予街道沿いにある。光耀山と号し、高野山真言宗。本尊は千手観音。四国霊場八十八ヵ所の第一六番札所。御詠歌は「わすれずも導引たまへくハんおんしさいほう世界みだのじやうどへ」。

寺伝によると聖武天皇の勅願寺として天平一三年(七四一)に創建され、弘仁七年(八一六)に空海が当寺において本尊の千手観音と脇侍の不動明王・毘沙門天像を刻んで安置したという。当地は阿波国府推定域に近く、平成一〇年(一九九八)西方の観音寺遺跡から「論語」の一部を記した七世紀前半の木簡などが出土し、当寺付近に国衙の範囲が延びていたものか、また当寺もしくはその前身が「論語」を学び学問上の活動をしていたことを示しているのかなど検討を要する。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]村上市肴町

さかな町西方、瀬波せなみへ通じる道の左側にある。大悲山と号し、高野山真言宗。本尊は千手観音。弘安五年(一二八二)宗海という僧により紀州那智なち山から移されたとも、慶長五年(一六〇〇)覚遍の開基とも、元和四年(一六一八)の開基とも伝えられる。寛文五年(一六六五)藩主松平直矩が当寺の宗快に帰依して、本堂および観音堂を再建したという(「寺社明細帳」山貝銀三氏蔵)。享保三年(一七一八)の村上町明細帳(鈴木三氏蔵)には羽州湯殿山真言宗滝水寺末寺として寺名がみえる。日本最後の即身仏である仏海を祀る。

観音寺
かんのんじ

戦国末期にみえる地名。正慶二年(一三三三)四月八日の大石和観音寺田畠結解状(金沢文庫文書)に「大石禾観音寺」と同名の寺院がみえ、称名しようみよう(現神奈川県横浜市金沢区)の支配下にあったと考えられる。同結解状には御堂後・森坪・河原・小剣塚・柴田・大坪・養躰・藤上・向村などの地名がみられるが、所在場所は不明。この観音寺とは別に、現在の臨済宗妙心寺派観音寺は市部いちべにあるが、同寺は応安年間(一三六八―七五)あるいは明徳二年(一三九一)に旧天台宗寺院を禅宗に改めて武田信成が再興したと伝える(甲斐国志)

観音寺
かんのんじ

[現在地名]下館市中館

勤行ごんぎよう川右岸の中館なかだて台地にある。天台宗、施無畏山延明院と号し、本尊は延命観音。観音寺縁起によると、用明天皇の代に法輪独守が仏像を背負って中国から渡来し、当地に安置したことに始まるといい、承元二年(一二〇八)藤原朝宗が本堂を造営、祖先の菩提を弔ったところから朝宗を開基とする。建武三年(一三三六)伊達行朝が比叡山から実相坊心海(中興開基)を招請し、堂塔を完備する(下館市史)

観音寺
かんのんじ

[現在地名]小矢部市観音町

しろ山の南東麓にある。高野山真言宗。本覚山と号し、本尊大日如来。天平元年(七二九)行基によってのちの五社ごしや村の地に創建され、宝幢ほうどう院と号したという(三州寺号帳)。また法道によって開かれたとの伝承があった(寺院明細帳)。前田利秀の祈願所となり、天正一七年(一五八九)に今石動に移り観音寺と号した(貞享二年寺社由緒書上)。観音堂の秘仏の坐像正観音は鎌倉時代作の金銅仏。観音堂の前にある地蔵菩薩坐像(延命地蔵)は文政八年(一八二五)に信州上田で鋳造され、信州松本の立山講から立山に寄進されたもので、明治の神仏分離の際に倶利伽羅くりから峠の長楽ちようらく(現廃寺)に移され、さらに明治五年(一八七二)観音寺に移された(富山県史)

観音寺
かんのんじ

[現在地名]上京区三番町

慈眼山と号し、もと浄土宗に属したが、現在は単立。本尊阿弥陀如来。「拾遺都名所図会」は慶長一二年(一六〇七)梅林の創建と記すが、寺伝は当初一条てら(現上京区)にあり、万治四年(一六六一)類焼して現在地に移ったという。天明八年(一七八八)の大火で再度類焼している。境内の観音堂安置の聖観音は洛陽三十三ヵ所観音の第二七番札所で(京羽二重)、「拾遺都名所図会」は「門内に在、本尊ハ安阿弥の作、立像一尺七寸一歩、応永おうえい年中疫時行えやみはやりし頃、山名重氏しげうぢ此観音に祈願し諸人をたすく、其時此堂を再興さいこうす、報恩の為、多クの人あつまるゆへ千人堂と呼ふ」と、疫病除けの信仰を記す。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]矢板市沢

ほうき川右岸のしろ山にある。補陀落山千手院と号し、真言宗智山派。本尊千手観音。開山は天長二年(八二五)とも延喜年間(九〇一―九二三)とも伝えるが明らかでない。もとは弾正だんじようという地にあったが、永正年中(一五〇四―二一)那須修理大夫資房により沢村の古城跡に移されたという。沢村城主代々の菩提所であり、弾正にあった沢村城主に関係すると伝える五輪塔は現寺地に移されている。なお寺地移転は天正一二年(一五八四)とも延宝七年(一六七九)とも伝える。寛文四年(一六六四)山城醍醐寺報恩ほうおん院末となり、中本山として末寺八三ヵ寺があり、除地五〇石を安堵されたという。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]中川区荒子町 宮窓

浄海山と号し、天台宗。本尊聖観音菩薩像(秘仏)。「荒子の観音」と呼称され、尾張四観音の一つ。天平元年(七二九)僧泰澄の草創と伝え、所在地は現在地の北、高畑たかはた村地内であったという(塩尻)。寺伝によれば、同一三年自性を開山とし、七堂伽藍一二坊を備えた大寺であった。永禄年中(一五五八―七〇)全運が再興、天正四年(一五七六)前田利家の手により修造された。江戸時代に入ると、藩主徳川義直・光友の帰依を受け祈祷料田などの寄付があった。寺領はもと三〇余町あったが、太閤検地の際没収され、その後中島なかしま新田に二反、熱田あつた新田に七反五畝計九反五畝が観音灯明田として与えられた。

天文五年(一五三六)再興された多宝塔は熱田の大工棟梁岡部甚四郎吉定の建造になるといわれ、室町時代末期の禅宗様式の特徴をよく示している。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]猪苗代町川桁

幸野こうや集落の北東、川桁かわげた山麓に位置する。古くはさらに北東の元寺もとでらの地にあったが、文禄(一五九二―九六)頃現在地に移転したという(新編会津風土記)。慈応山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音。猪苗代三十三観音の第一番札所。寺伝によると猪苗代氏の祖三浦経連が、観音像を負って猪苗代に入り、川桁山麓にこの観音像を安置し、一〇〇貫文の地を寄せたことに始まるという。盛国の代に猪苗代氏は伊達家に仕えて会津を去ったため一時廃寺となった。しかし文禄初年越後国指合さしあわせ(現新潟県神林村)光明こうみよう寺存鏡の弟子蘭室が再興、光明寺三世黙山を招請開山としている(「新編会津風土記」など)

観音寺
かんのんじ

[現在地名]上京区観音寺門前町

北野天満宮(北野社)二の鳥居の西に位置。朝日山と号し、真言宗泉涌寺派。本尊十一面観音は俗に東向観音という。建立の願主は山本左大臣と伝え、中古京師内外地図には「クハンオン寺」とみえる。寺伝によれば、当初、東西両向きの二堂があったが、西向堂は早くに廃絶し、東向堂のみが残ったという。ゆえに本尊を東向観音と称し、朝日観音ともいわれた(雍州府志)

観音寺
かんのんじ

[現在地名]檜山郡江差町字泊町

泊町とまりちようにある真言宗寺院。山号白性山、本尊千手観音。嘉吉元年(一四四一)京都仁和寺真光院僧正の徒弟旭威が泊村に創建したと伝える(夏原家文書)。一時廃寺となったが、永正六年(一五〇九)蠣崎光広の次男高広(剃髪し永快)が中興し、松前阿吽あうん寺の末になったという(江差町史)。しかし「福山秘府」では泊村観音寺は元和元年(一六一五)の草創、阿吽寺末とある。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]粟島浦村 内浦 内ノ崎

内浦うちうら集落南西の平坦地にある。普門山と号し、曹洞宗。本尊は十一面観音。創建の時期は不明。寺伝では寛永五年(一六二八)本保十郎左衛門が再興したという。天正―慶長(一五七三―一六一五)頃の色部氏年中行事(色部文書)には「同御馬越ノ時、観音寺・御かいこんあんよりの上物」とみえ、茶一斤が当寺より色部氏に納められるとある。境内には高さ二・一五メートルの梵字石があり、梵字右側に「沙弥良阿弥陀仏逆修」、左側に「文和三年七月十四日」と刻まれる。やす突観音堂の側の一基は高さ一・六九メートルで、上部に天蓋、下部に横広の蓮台を置き、中央に梵字、右側に「沙弥入阿弥陀仏」、左側に「文和第三天六月一日」と彫られる。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]高岡市城光寺

城光寺じようこうじ公園の東麓にあり、大悲山と号し、曹洞宗。本尊観音菩薩。寺伝によれば、埼玉県秩父ちちぶ両神りようがみ村の東泉とうせん寺が利根とね川の氾濫で寺地を失い、昭和二年(一九二七)観音寺と改称し、高岡繁久はんきゆう寺二五世泰道如山により現在地で創建された。本尊の木造観音菩薩立像は、もと射水郡飯久保いくぼ(現氷見市)にあった。正保三年(一六四六)前田利長の三十三回忌に移転造営された繁久寺のものとなり、さらに慶安年間(一六四八―五二)には利長御廟内に建てられた前田家の鎮守堂本殿の守本尊となった。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]日高町観音寺

観音寺集落の西方、つるヶ嶺の山麓にある。志貴山と号し本尊十一面観音。天台宗。寺伝によれば天平二〇年(七四八)行基が開基、寛仁元年(一〇一七)恵心(源信)が再興、久安年中(一一四五―五一)近衛天皇の勅願所となり、その際現在も伝わる釈迦涅槃図を寄進されたという。また永禄五年(一五六二)には、別当坊・華厳院・五大院・辻之坊・金乗坊・来迎院・常喜院・谷之坊の八子院があったという(日高町史)。仁王門は室町中期頃の建築で県指定文化財。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文には「観音寺 九町四反二百四十分」とみえ、「熊野山領」「地頭太田三郎次郎入道行願」の注記があり、寺田の内訳は即寺田三町、不動堂二町、定田四町四反大である。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]吉見町大串

市野いちの川と台山だいやま排水路の間、字上西かさにある。真言宗智山派、大串山宝珠院と号し、本尊は不動明王。「風土記稿」では「開山源教寂年ヲ伝ヘス、境内ニ建長七年ノ古碑アリ」と記されるが、創建年時などについては未詳。しかし慶長六年(一六〇一)の伊奈忠次の新田開発手形(寺蔵)によれば、一町歩を自力で開発し寺領とする認可を得ており、近世初期には大串おおくし村内を自力で開発する勢力があったといえる。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]会津若松市大町一丁目

道場どうじよう小路の北側にあり、馬宝山と号し、真言宗豊山派。本尊大日如来。明徳三年(一三九二)の開基。会津真言宗四ヵ寺の一つで、蘆名氏の臣武田大和守が、若松鳥居とりい町にある八角やすみ神社の近くに建立し、密教僧法印仁鑁を開山に仰いだ。文禄二年(一五九三)現在地に再建した。寛文一一年(一六七一)の若松大火で焼失、延享元年(一七四四)、慶応三年(一八六七)にも大火にあい、同四年の戊辰戦争でも戦火で本堂・仏具などを失った。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]名東区猪高町上社 洞

万松山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊観世音菩薩。建久年中(一一九〇―九九)山田重忠によって創建されたと伝え(尾張志)、寛文七年(一六六七)上社村の給人小瀬新右衛門忠次が熱田海国かいこく寺六世南嶺を招き中興開山とした(徇行記)。この時藤森ふじもり了玄りようげん院と高針たかばり蓮教れんきよう寺の檀家であった上社かみやしろ村六六軒すべてを当寺へ移した(森本家書上)

観音寺
かんのんじ

[現在地名]白鳥町帰来

帰来きらい山の北麓、大正たいしよう池の北にある。二合山普門院と号し、真言宗善通寺派。本尊十一面観音。鎮守王子権現社。寺伝によると、弘仁年間(八一〇―八二四)空海の創建、その後慈覚大師円仁が入唐に際し当地に止錫して十一面観音を彫刻したという。かつて伊座いざ・帰来において末寺二六坊を有したと伝えるが、中世以来衰微、「御領分中寺々由来」には観音堂のみは文禄年中(一五九二―九六)再興、寺は寛永年中(一六二四―四四)住持により再興されたとある。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]横手市本町

よこ町の南東部、じやさき橋の東のたもとにあり、真言宗豊山派、山号は開花山。もと下野の茂木もてぎにあったが、慶長八年(一六〇三)茂木百騎とともに横手に移り、現在地に建立された(横手郷土史)

本尊木造薬師如来立像は慈覚大師作と伝えられ、平安後期の逸品とされ、丈三尺二寸、檜材・寄木造、漆箔の像。また懸仏(薬師十二神将銅製鋳出)は、もと横手城南方の千手せんじゆ沢(清水しみず沢)の無量寿むりようじゆ(千手院)所蔵であったが、明治以後、同院の廃院により観音寺へ移された。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]江刺市愛宕 観音堂沖

円通山と号し、曹洞宗、本尊千手観音。観音堂と通称。「高寺村安永風土記」に観音堂、別当は黄檗宗円通えんつう院とみえ、円通院については「寺にては無御座候」とある。「封内風土記」には観音堂の本尊は慈覚大師の造像で、嘉祥三年(八五〇)創建されたと伝えるとみえる。寺伝によれば、もと大悲山たか寺と号し、天台宗であったが荒廃。天和元年(一六八一)仙台藩主伊達家の菩提寺黄檗宗大年だいねん(現仙台市)四世の鳳山を招き再興し、大悲山円通院と号した。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]積丹郡積丹町大字美国町 小泊

美国びくに川右岸の通称寺町てらまちにある。曹洞宗。慈眼山と号する。本尊は釈迦如来。美国港の北西に突き出た黄金おうごん岬は観音崎ともいわれるが、古くから石仏が安置され、一八一二年(文化九年)堂宇が建立された。五四年(嘉永七年)ビクニ場所請負人岩田金蔵の妻女が十一面観音像を寄進したところ、漁民らの信仰を集め、鯡の豊漁が続いたという。六七年(慶応三年)曹洞宗の林応が布教のため来村、明治三年(一八七〇)美国郡内から寄付を受け、現境内付近に観音堂を移築した(明治一七年「観音寺由緒書」)

観音寺
かんのんじ

[現在地名]吹田市南高浜町

浄土宗、山号高浜山、本尊阿弥陀如来。寺伝によれば天平一〇年(七三八)光明皇后の発願で、行基が自作の聖観音像を本尊として創建したという。「摂津名所図会」には「本尊聖観音 行基の作。長一尺五寸。(中略)初めは法相宗なりしが、中興心誉上人より浄土宗と改めて、今の本尊には阿弥陀仏を安ず。小女郎狐祠当境菖蒲池の傍にあり」とある。元禄九年(一六九六)の黒谷末寺由緒記(増上寺史料集)は、中興開基誠蓮社真誉文作(没年寛文八年)と記す。浄土宗への改宗年時を寺蔵の古記録の一部は法然が暫時寓居した後というが、「摂陽群談」も「円光大師暫居の後、浄土宗門の精舎と成る。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]西区児玉町八丁目

三宝山と号し、曹洞宗。本尊聖観音菩薩。慶長八年(一六〇三)鏡屋首座の建立、同一八年、名古屋永安えいあん(現東区)の二世孝国豊淳を開基とする。本尊の聖観音は徳川光友が山田即斎に命じて彫らせ、寄進したものという(尾張名所図会)。寛政六年(一七九四)客殿再建のため尾張藩領内の勧進を許されたが、観音寺は無住で奉加にも回れない状態であった(「新編一宮市史」資料編)

境内鎮守社の神明社がある。元和四年(一六一八)一〇月一六日、赤雲が南より来て、児玉村の大日堂の前にとどまったので、村民がそのところを見ると、伊勢神宮の大麻と木馬があった。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]東郷町諸輪 観音畑

恵日山清峰院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。諸輪もろわ集落の南端にある。延喜七年(九〇七)慈眼の開基と伝えられ、初め真言宗に属して常楽じようらく寺と称したが、南北朝時代に浄土宗に改めたといわれる。境内の観音堂には天暦三年(九四九)開基の棟札があり、その本尊聖観音坐像(木造著色、県指定文化財)には「両和常楽寺貞和三年」および文和二年(一三五三)の墨書銘がみえる。この像は諸和北方の米野木こめのき(現日進町)から移されたもので「地内松林共二拾町、前々除」あるいは「当寺境内ハ昔年三畝村除ナリシガ、後、観音堂ノ境内ヘ寺ヲ移シ、寺跡三畝ハ今ニ寺控ナリ」などと「寛文覚書」や「徇行記」にある。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]大栄町東高尾

東高尾ひがしたかお集落の南西にある。円通山と号し天台宗。本尊は千手観音。行基によって開かれたと伝え、寺蔵の万延元年(一八六〇)の観音堂縁起によれば、鎌倉時代初期に倉吉の大日だいにち寺や長谷ちようこく寺とともに佐々木四郎高綱によって再建されたという。平安時代後期の作と推定される約五〇体の木像が残るが、うち一二体が観音像で、如来像がみられないことから古くから観音信仰と結び付いていたことがうかがえる。もとは大日寺にあったが、大永四年(一五二四)の五月崩れの時と思われる戦乱のなかで同寺が焼打ちにあったため移されたと伝える。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]中津村船津 下滝本

日高川右岸にある。滝本山と号し、浄土宗。本尊は聖観音。もと真言宗で、中芝なかしば山上にあったといわれ、室町時代の宝篋印塔や五輪塔が多数残存する。九品寺同末寺由緒書(九品寺文書)に「中尊者観音、太子之御作御長七尺御座候、(中略)天正五年丁丑ノ年清観と申僧中興ニ罷成、夫より以来百廿一年に罷成候」とある。文化一三年(一八一六)火災にあい焼失。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]都祁村大字針小字堂脇

はり集落北部にある。宝亀山万福院と称し、真言宗豊山派。本尊は十一面千手観音。寺伝によると、宝亀年間(七七〇―七八一)高市たかいち子島こじま(現奈良県高取町)の僧延鎮によって開かれたという。所蔵する大般若経六〇〇巻は永和三年―嘉慶二年(一三七七―八八)間の書写。境内の石造十三重塔は来迎らいこう(現都祁村)の僧西念が東山中ひがしさんちゆう一三ヵ所に建立した十三重石塔の一基と伝え、正平七年(一三五二)の造立銘があり、大工行長(伊派石大工の一人)の名を刻む。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]三朝町吉田

吉田よしだの集落北側に位置する。曹洞宗で金林山と号し、本尊釈迦如来。創建の時期は不詳だが、元和(一六一五―二四)の頃ともいい、寛永年間(一六二四―四四)まで長福ちようふく寺と称していたが、大岳だいがく(現倉吉市)四世可春が中興し、本尊を安置して観音寺と称したという(三朝町誌)。さらに元禄年間(一六八八―一七〇四)吉田村の山本与兵衛が田地を寄進したのを機に寺院として整備された。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]岡崎市城北町

松応しようおう寺の後方北西の地にある。見松山(もと慈眼山)と号し、曹洞宗。もと竜海りゆうかい院末。本尊釈迦如来。寺伝によれば行基の開基で初めは観音堂といい、「三河国名勝志」などでは天台宗で正福しようふく寺と称したという。永正年中(一五〇四―二一)松平信光の八男で能見松平家の祖次郎右衛門光親が堂宇を再建して観音寺と号し、以後光親・重親・重吉・重利・昌利と五代の菩提所となった。慶長六年(一六〇一)伊奈忠次より寺領五石を付けられた。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]長野市信更町山平林 下平

岩倉いわくら山の北斜面山麓の下平しもだいら集落にある。さい川の南岸国道一九号大安寺だいあんじ橋から五〇〇メートルのところにある。曹洞宗。長野市松代まつしろ大林だいりん寺末。

寺伝によると、布施氏の創建であり、当初、年玉としたま観音堂といった。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]南郷村下山 下村

下村しもむらの北部にある。南照山と号し、真言宗豊山派。本尊大日如来。「異本塔寺長帳」によると建久五年(一一九四)の建立で、寺伝では同年四月謙雲の開山、堂山口どうやまぐちと称する所に堂宇を建立したという。天正年中(一五七三―九二)焼失し、同八年杲栄を中興開山として沢口さわぐちに再建、延宝元年(一六七三)再び焼失、翌二年現在地に移転・再建したという。木造聖観音坐像は「異本塔寺長帳」によれば永正一一年(一五一四)に再興しており、像には「奥州伊保郷下山村願主常金妙巡時永正十一甲戌」とあり(新編会津風土記)、造立年代のはっきりした室町時代中期のもの。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]三原市東町

米田よねだ山麓、松寿しようじゆう寺北隣にある。海南山道場院と号し、時宗。本尊阿弥陀如来。「三原志稿」によると、観音堂に安置する十一面観音像は康平年中(一〇五八―六五)に豊田郡高崎たかさき(現竹原市)沖より上がったもので、一遍がこの像を拝して小坂おさか村に道場を開いて弟子覚阿を付し、慶長年中(一五九六―一六一五)僧阿弥のとき三原に移したという。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]青森市久栗坂 浜田

鼻繰はなぐり崎の付根、久栗坂くぐりざか集落の西、浜田はまだにある。矢倉山と号し、浄土宗。本尊は伝恵心僧都作の阿弥陀如来。もと青森正覚しようがく寺末寺。

寺伝によれば、慶安四年(一六五一)に僧良伯が、やぐら崎の岩穴から発見された金比羅大権現像を草庵に安置し、櫓崎岩屋観音と称したのを開基とするという。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]東大阪市西石切町二丁目

融通念仏宗、山号花園山、本尊阿弥陀如来。開創年代は不詳だが、鎌倉時代後半から南北朝時代にかけて水走氏(藤原氏)が当寺別当職についていたようで、元弘二年(一三三二)二月二〇日付藤原康政譲状案・至徳元年(一三八四)八月二二日付藤原忠夏譲与目録案(水走文書)に「殖槻観音寺別当職」とみえる。元禄五年(一六九二)の寺社御吟味帳(中家文書)は、融通念仏宗平野大念仏ひらのだいねんぶつ(現平野区)の末寺で、寺は往古よりあったが開基年暦や代々の住持については不明と記す。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]君津市草川原 三ッ石

三石みついし山脈の最高部に位置し、山嶺に山号の由来とされる三大奇岩が鼎立。この岩下に洞窟をうがち銅板葺の本堂がある。境内の景観は静寂、奇勝の趣がある。境内一八〇坪。三石山と号し、真言宗智山派。本尊は十一面観音。里伝によれば、覚恵が当山の岩窟中に十一面観音を安置したことに始まるという。その後岩窟の崩壊によって仏像も失われたが、応永一六年(一四〇九)仏像が忽然と岩窟に出現し、慶長一六年(一六一一)に堂宇を建立した。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]金ヶ崎町永沢

大林おおばやしにある。功徳山と号し、真言宗智山派。本尊不動明王。宝暦一三年(一七六三)の永沢村風土記書上(金ヶ崎町史)は、慶長二年(一五九七)真与の開山。境内にある観音堂の本尊は慈覚大師作の千手観音で、奥州三十三観音霊場の第一六番札所。大永五年(一五二五)柏山伊勢守が再興したが、その後衰退、正保二年(一六四五)覚了が堂を再建したと記す。ただしこの書上は寺が無住のため、同じ真言宗の長福ちようふく(現廃寺)が差出したもの。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]日光市上鉢石町

国道一一九号沿いの南の山際にある。鉢石山無量寿院と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来と千手観音。寺伝では弘仁一一年(八二〇)空海日光山登拝の折、自らの彫った千手観音を本尊として開いたという。初め真言宗で栄蔵坊と称し、宝珠院・円長坊・真乗坊・守蔵坊・安養坊・宝蔵坊の六支坊があったと伝える。寛永四年(一六二七)天海から現在の山・院・寺号を与えられて天台宗に改宗し、鉢石はついし町の檀那寺となったという。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]鈴鹿市神戸二丁目

北新きたしん町にあり、浄土宗。山号補陀落山、本尊阿弥陀如来。元亀元年(一五七〇)観愚の開基と伝えるが、鎌倉時代にはすでに寺院があったらしいことは、境内より元応二年(一三二〇)明本という作者銘のある光明真言板碑(同人による真言板碑は神戸天守台石垣、白子本町悟真寺にもある)が発見されていることからわかる。境内には弘法大師も祀られ毎月二一日には参詣者で賑う。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]相川町鹿伏

県道二見―相川線の山手にある。真言宗、泊藤山と号し、本尊聖観音立像。もと沢根さわね(現佐和田町)の曼陀羅寺末。「佐渡国寺社境内案内帳」によると、慶長一三年(一六〇八)の再建立とある。天和元年(一六八一)違勅の罪で流罪となった小倉大納言実起と長男の中納言公連が当地に謫居して寺に出入りしていた。

実起は貞享元年(一六八四)三月、公連も九月に相川で病没しており、裏手高台の墓地に二人の板碑型の墓がある。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]勝央町植月東

植月東うえつきひがし集落の中央部にある天台宗寺院。弘誓山と号し、本尊観音。縁起によれば、天安年間(八五七―八五九)慈覚大師により間山高福はしたやまこうふく(跡地は現英田郡美作町)の一院として創建。一六世紀後半に田井たい村に移転。慶長五年(一六〇〇)中興開祖の円慶により植月東に移転、寛文六年(一六六六)三世円勤のとき現在地に新築。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]土浦市神立町

神立かんだつの台地上にある。檀所山法光院と号し、真言宗豊山派。本尊は千手観音。建物に醍醐だいご堂があり、仏像は鎌倉末期頃の檜一木造の薬師如来像(県指定文化財)、室町時代の檜造小像(像高八・七センチ)、十一面観音像がある。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]師勝町六ッ師 中屋敷

六師山と号し、曹洞宗。本尊十一面観世音菩薩。開山は桂峯文昌(天文七年没)。明和六年(一七六九)火災で堂宇・記録をすべて失った。享和三年(一八〇三)禅瑞が退隠に際し青山あおやま(現豊山町)泉松せんしよう(現千松寺)の二世寛田を請じて平僧地を法地に再興した。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]小山市鏡

かがみの中央部にあり、日鏡山普門院と号し、真言宗豊山派。本尊は馬頭観音。寒川さむかわ網戸あじとにおいて修行した覚海房(覚開房)が、大同三年(八〇八)鏡の台に一寺を建立したのが当寺の始まりで、永禄七年(一五六四)僧祐泉が中興開山し、現在の称号を名乗ったという。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]豊玉町小綱

海巌山と号する。臨済宗南禅寺派。小綱こつな中の菩提寺となっている。中世以来の古刹であるが、由緒が残っていない。本尊の銅造観音坐像(県指定文化財)は像高五〇センチ余の高麗朝後期の作例で、体内の結縁文に天暦三年(中国の元、一三三〇)二月高麗国瑞州地浮石寺で戒真ら三二名の発願により造立されたことが記され、製作年代が具体的に知られる貴重な事例となっている。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]倉敷市中帯江

中帯江なかおびえ北部の山麓にある。景光山と号し、真言宗系単立寺院。本尊は十一面観音。俗に不洗あらわず観音という。寺伝によると聖武天皇の頃の創建とするが、「備中誌」には「此寺新地にて、寛文の頃は方一間の四ツ堂只壱宇のみ、延享後繁昌して景光山観音寺と号し、窃に謀て縁起を偽作し、古代の霊場のごとくいひ触しぬ」と疑問をなげかけている。江戸中期頃より、本尊は子授け・安産に霊験ありとして近郷近在に知られ、現在も参詣者で賑う。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]都祁村大字小倉小字カン上掛

小倉おぐらのほぼ中央に位置する。密林山と号し、真言宗豊山派。本尊は十一面観音。脇仏の地蔵菩薩は鎌倉時代、不動明王は室町時代の優作である。貞治五年(一三六六)三月に小蔵おぐら観音寺領の藺生いう荘の畠地一ヵ所を直米二石で天神講に売渡した売券が染田そめだ天神社(現奈良県室生村)に残る。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]北浦村小幡

天台宗、如意輪山と号し、本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば天正一九年(一五九一)小幡氏が滅亡後、小幡おばた城跡に三部伝道の道場を創建したことに始まり、延宝六年(一六七八)に客殿、貞享三年(一六八六)に本堂を建立。宝永七年(一七一〇)現本尊が安置され、台座に「南北高岡・行戸・小幡四ケ村供養仏(中略)将軍源氏綱吉公治世、願主定範、宝永四年丁亥三月、本尊行基菩薩御作、右仏破損依之、宝永四年写之立像」の墨書がある。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]備中町西油野

山号は福聚山、真言宗善通寺派。本尊聖観音。寺伝では空海の開山と伝えるが、元禄三年(一六九〇)からの過去帳によると、同元年の火災で焼失しており、寺史はつまびらかでない。現在の堂宇は江戸時代末全阿が住職のときに再建したものと考えられる。寺蔵の青銅製鰐口は県指定重要文化財。南北朝時代の製作で鼓面径二一センチ、厚さ九・五センチ。銘文は表面銘帯右側に「奉懸御宝前鰐口 周防国熊毛郡小周防東方東興禅寺」、左側に永徳三年(一三八三)七月八日付で道琳の名が記され、裏面銘帯右側には「高尾山常灯寺願主」、左側に「応永□六丑年三月八日」とある。

観音寺
かんのんじ

泉涌寺の北にある塔頭。天長年間(八二四―八三四)嵯峨上皇の御願により空海の開基と伝える。左大臣藤原緒嗣が伽藍を造立し、規模が定まった。寺運興隆して広大な寺域を占め、観音寺大路(現泉涌寺道)と称する道(「明月記」文暦元年八月一一日条)が存したことからも、その規模の一端が知れる。文暦元年(一二三四)後堀河天皇が葬られ観音寺陵とする。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]牛堀町上戸

真言宗豊山派、瑠璃光山と号し、本尊は聖観音。開基帳(彰考館蔵)には「除高壱石九斗三升五合寺内、寺起立之時代康永弐年ニ内蔵人国安取立申候、当卯迄三百三拾九年、百姓檀那七十人」とある。寺伝では、初め筑波山別当の徳一によって尾之詰おのづめの台地に創建されたが、後に現在地に移建されたという。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]安田町草水

臨沢りんたく山上にあり、眼下に阿賀野川を見下ろす。曹洞宗、臨沢山柏樹院と号する。本尊は聖観音。蒲原三十三観音の第二番。応仁二年(一四六八)の創建と伝え、開山は月窓明潭。「日本洞上聯燈録」によれば、月窓明潭は長尾氏の招きで奥州から来越したという。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]山添村葛尾小字上垣内

葛尾くずおの北部にある。金輪山鑁海ばんかい院と号し、真言宗東寺派。本尊は白衣観音。享保年間(一七一六―三六)金海の開基。檜材寄木造の十一面観音立像(県指定文化財)は、定朝様を承けた中央の作で、平安後期の秀作。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]爾志郡熊石町字関内

海岸線に沿って走る国道二二九号沿いにある曹洞宗寺院。本尊如意輪観音。関内せきないは明治初期鰊の万石場所として栄え、劇場・浴場・飲食店などができたが、寺院がなかったため、明治二〇年(一八八七)当地の豪商猪股作蔵が門昌もんしよう庵主と協調し私財を投じて一寺を建立したのに始まる。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]五條市野原町

八幡はちまん川西岸に所在。南方山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。観音・勢至を従える。寛文年間(一六六一―七三)に浄土宗となったという。本堂の西に観音菩薩を祀る観音堂がある。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]春日井市松河戸町

巨嶽山と号し、曹洞宗永平寺派。本尊は十一面観世音。寺書上(寺蔵)によると室町時代までは真言宗で、天正年間(一五七三―九二)大永だいえい(現名古屋市)四世雲山存道のとき曹洞宗となった。宝暦年間(一七五一―六四)大永寺一七世霊基実正のときに法地に昇格した。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]一宮市萩原町串作

河室こうむろにある浄土宗西山派の寺で本尊十一面観音菩薩。応仁―文明(一四六七―八七)頃の建立とみられ、観音勢至の両脇侍は恵心僧都の作と伝える。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]大淀町大字檜垣本小字南垣内

檜垣本ひがいもと集落の南部に位置。浄土宗で、慈眼山普門院と号する。本尊は阿弥陀如来。旧過去帳によると応永三年(一三九六)七月三日の創建で、観音像を本尊とする真言宗寺院であったが、慶長一八年(一六一三)浄誉の代に浄土宗に転宗。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]三郷町立野北一丁目

坂上さかね集落にある。大悲山と号し、融通念仏宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によると、元禄一二年(一六九九)顕意により中興されたという。寺宝には国指定重要文化財の木造地蔵菩薩立像(一二一センチ)がある。

観音寺
かんのんじ

[現在地名]佐賀市本庄町大字本庄字灰塚

佐賀城の西南にある。大内籏山観世音寺といい、曹洞宗。本尊は子安観音で、ほかに如意輪観音を祀る。本尊に願をかけ魚鳥獣を買い取って命を助けると願が成就すると信じられた(肥前古跡縁起)

観音寺
かんのんじ

[現在地名]金成町有馬 有壁

有壁ありかべの町並の北部にある曹洞宗寺院。在壁山と号し、正観音を本尊とする。「有壁村安永風土記」によれば、坂上田村麻呂の建立といい、弘治三年(一五五七)有壁館主であった菅原某が中興したという。

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改訂新版 世界大百科事典 「観音寺」の意味・わかりやすい解説

観音寺[市] (かんおんじ)

香川県南西端の市。2005年10月旧観音寺市と大野原(おおのはら)町,豊浜(とよはま)町が合体して成立した。人口6万2690(2010)。

観音寺市南部の旧町。旧三豊郡所属。人口1万2799(2000)。南部は讃岐山脈北斜面で,北西部は燧(ひうち)灘に面し,三豊平野の南部を占める。海岸沿いをJR予讃線,高松自動車道,国道11号線,同377号線が通じる。1930年豊稔池完成後,溜池灌漑による農業を主体としてきたが,香川用水の通水や農地開発,生産団地の造成,圃場整備などが推進され,米,ミカン,蔬菜,施設園芸などを組み合わせた複合経営に移行している。特にタマネギ,レタスは全国有数の産地として知られる。四国八十八ヵ所霊場雲辺寺(現,徳島県三好市)の前寺で,多くの重要文化財を有する萩原寺はハギの群生地としても名高く,雲辺寺山西麓の渓谷にあって平家の落人伝説を伝える五郷渓温泉,桜の名所五郷山公園など観光資源に富む。
執筆者:

観音寺市北部,燧灘に面する旧市。1955年観音寺町と常磐,高室,柞田(くにた)の3村が合体,市制。人口4万4755(2000)。JR予讃線に沿い,県西部の三豊郡の政治・経済・文化の中心をなす。北は財田川,中央に柞田川が貫流し,沖積低地では米作のほかタマネギ,スイカなどが栽培される。市街は財田川河口南岸の漁港として発達し,江戸時代からかまぼこ,ちくわなど練製品を主体とした水産加工業が盛んで,干しエビや煮干しの特産もある。また近年は冷凍食品が急速な伸びを示し,産額は日本有数といわれる。そのほか繊維,化学,農機具などの工場もある。北部の琴弾(ことびき)山には山頂に琴弾八幡宮,東麓に近世末までその神宮寺であった七宝山神恵(じんね)院観音(かんのん)寺があり,寺の境内には四国八十八ヵ所第68番神恵院(観音寺本堂)と69番観音寺(同金堂)の2札所がある。西麓の海岸有明浜には寛永年間(1624-44)丸亀藩主生駒高俊の来訪を歓迎して始められたという〈寛永通宝〉の大きな砂文字(周囲345m)があって毎夏銭型祭が行われる。
執筆者:

讃岐の西端にあり,弘法大師空海の創建といわれる観音寺を中心として発展し,戦国時代末には西讃岐を支配した香川氏の一族香川景全が観音寺城に拠っていた。俳諧の祖といわれる山崎宗鑑はここの興昌寺一夜庵で没した。1698年(元禄11)ごろには,4ヵ所に港があり,丸亀藩の川口番所が置かれて船の出入りを取り締まっていた。物資の海上輸送に従う舸子(かこ)が54軒あり,また鍛冶,大工,桶屋,紺屋なども多く,日常物資の集散地であった。漁業も盛んであり,外国貿易品としてのいりこなど俵物の生産も行われていた。またこの地は伊予国川之江から金毘羅や丸亀城にいたる道筋にあたり,ことに金毘羅参詣のための旅籠があり,交通の要地でもあった。
執筆者:

観音寺市南西部の旧町。旧三豊郡所属。人口9001(2000)。燧灘に面し,南東部は讃岐山脈から続く丘陵性山地で,北は三豊平野南端を占める。古くから伊予へ通じる交通の要衝で,港町また金刀比羅(ことひら)参詣の宿場として栄えた。JR予讃線,国道11号線,同377号線が通じる。農業は米作を主として,野菜,ミカンなどの栽培が盛んである。近海漁業は不振でノリ養殖が行われる。工業は大手企業の紡績工場を除くと中小工場が多く,特産に乾めん,漆器などがある。
執筆者:

観音寺 (かんのんじ)

香川県観音寺市にある真言宗の寺。〈かんおんじ〉とも呼び,七宝山神恵院(じんねいん)観音寺ともいう。当寺は,その門前町から発展した観音寺(かんおんじ)市の随一の景勝地,琴弾(ことびき)公園のなかにある。寺伝によると,遠く奈良時代に琴弾八幡宮の別当寺として開創され,下って807年(大同2)には弘法大師がみずから刻んだ観音像を本尊として安置したと伝え,そののち四国遍路が盛行すると,その第69番札所となって庶民の信仰を集めた。明治政府の神仏分離令により,当寺は琴弾八幡宮と分離し,また同宮の本地仏(ほんじぶつ)をまつる第68番札所の神恵院を合体し,いまは四国遍路でただ一つの1ヵ所2ヵ寺の札所となっている。寺宝には,琴弾八幡宮縁起絵巻,同宮本地仏画像など重要文化財多数がある。
執筆者:

観音寺 (かんのんじ)

滋賀県草津市にある天台宗の寺。大慈山と号する。芦浦観音寺ともいう。創建は推古天皇の時代(592-628),聖徳太子の開基と伝えられる。室町初期に京都普観寺の僧歓雅が再興,戦国時代にも織田信長の兵火を免れた。1580年(天正8),信長によって300余石の寺領を加えられ,志那渡船奉行とされた。豊臣秀吉の朝鮮出兵,伏見築城にも寄与した。江戸時代には琵琶湖上の船奉行として権力をふるい,寺領556余石を有し,近江・大和両国で4万石の郡代官に補せられた。船奉行として大津に代官を置いたが,その地を観音寺町という。観音寺も境域ひろく,武家邸の状を呈している。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「観音寺」の意味・わかりやすい解説

観音寺【かんのんじ】

香川県観音寺(かんおんじ)市の琴弾(ことひき)山中腹,国指定名勝の琴弾公園内にある真言宗大覚寺派の寺。〈かんおんじ〉,七宝山神恵院(しっぽうさんじんねいん)観音寺とも。奈良時代に琴弾八幡宮(琴弾山山頂に鎮座)の別当寺として開創,807年に空海が中金堂を建立,自刻の観音像を本尊として安置,さらに西金堂・東金堂を建立したという。現在の本尊は聖観音・釈迦如来・薬師如来。四国八十八ヵ所第69番札所。琴弾八幡宮の本地仏を祀る神恵院(明治の神仏分離で琴弾八幡宮から分離したものを合体)は四国霊場第68番札所で,一山に2ヵ札所があり,四国遍路の盛行に伴い門前町が発展した。1525年再建の中金堂,琴弾宮縁起絵・木造涅槃仏像などは重要文化財。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「観音寺」の意味・わかりやすい解説

観音寺
かんのんじ

山形県北西部,酒田市北部に位置する旧村域。荒瀬川北岸に位置する谷口集落。 1889年村制施行。 1954年一条村,大沢村,日向村と合体して八幡町となり,2005年酒田市はじめ4市町と合体して酒田市となった。庄内平野北部から新庄盆地に通じる青沢越え道路 (国道 344号線) の起点。荒瀬川対岸の市条には長享年間 (1487~89) の祭礼祀の残る八幡神社がある。

観音寺
かんのんじ

京都府京田辺市にある真言宗智山派の寺。天武天皇の勅願により義淵僧正が創建。そののち,聖武天皇の御願により良弁僧正が天平 16 (744) 年に拡充。本堂に安置される『十一面観音立像』 (奈良時代) は国宝。木心の上に厚く木屎漆 (こくそうるし) を塗りあげた木心乾漆 (もくしんかんしつ) の技法による天平末期の傑作で,豊満な肉づけや繊細な表現はこの技法によるところが大きいとされる。後補部分も少くないが,頭上の瞋怒 (しんぬ) 面と牙上出 (げじょうしゅつ) 面は制作当初のもの。

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デジタル大辞泉プラス 「観音寺」の解説

観音寺〔香川県〕

香川県観音寺市、琴弾山の中腹にある寺院。真言宗大覚寺派。山号は七宝山、本尊は聖観世音菩薩。四国八十八ヶ所霊場第69番札所で、第68番札所の神恵院と同じ境内にある。大宝年間に日証上人が建立した法相宗の道場が起源と伝わる。本堂などは国の重要文化財に指定。

観音(かんおん)寺〔銘菓〕

香川県観音寺市、白栄堂が製造・販売する銘菓。バター風味のカステラ生地で白餡をはさんだもの。表面に円の中に四角を描いた寛永通宝の銭型の焼き印がある。「観音寺饅頭」「観饅(かんまん)」とも呼ばれる。

観音寺〔長崎県〕

長崎県長崎市、遠見山南西麓にある寺院。和銅年間、行基による開創と伝わる。曹洞宗。山号は円通山。行基の作と伝わる本尊の十一面千手千眼観音立像は「みさきの観音」と呼ばれ、国の重要文化財に指定。

観音寺〔高知県〕

高知県須崎市にある寺院。真言宗。本尊は聖観世音菩薩。四天王寺建立のため百済から招聘された仏師・工匠の船が、帰国の際に嵐で当地に漂着。一宇を建立して海の安全を祈願したのが起源と伝わる。

観音寺〔寺院〕

徳島県徳島市の旧伊予街道沿いにある寺院。高野山真言宗。山号は光耀山、院号は千手院。本尊の千手観世音菩薩は空海の作と伝わる。四国八十八ヶ所霊場第16番札所。

観音寺〔愛知県〕

愛知県名古屋市にある天台宗の寺院。「荒子観音」の名で知られる。山号は浄海山、院号は円龍院。天平年間の創建と伝わる。多宝塔は国の重要文化財に指定。

観音寺〔福岡県〕

福岡県久留米市にある天台宗の寺院。山号は石垣山で「石垣寺」とも呼ばれる。本尊は十一面観世音菩薩を内蔵した聖観世音菩薩。

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事典・日本の観光資源 「観音寺」の解説

観音寺

(宮城県気仙沼市)
ふるさとみやぎ文化百選 建造物とまちなみ編」指定の観光名所。

観音寺

(沖縄県国頭郡金武町)
新おきなわ観光名所100選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の観音寺の言及

【観音寺[市]】より

…香川県西部,燧(ひうち)灘に面する市。1955年観音寺町と常磐,高室,柞田(くにた)の3村が合体,市制。人口4万5103(1995)。…

【琴弾山】より

…香川県西部,観音寺(かんおんじ)市の財田川河口北岸にある花コウ岩丘陵。標高58m。…

※「観音寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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