護持院(読み)ごじいん

精選版 日本国語大辞典 「護持院」の意味・読み・例文・類語

ごじ‐いん ゴヂヰン【護持院】

江戸前期、東京都千代田区神田錦町にあった新義真言宗の関東大本山。山号は元祿山。隆光(りゅうこう)徳川綱吉の帰依をうけ、元祿元年(一六八八)完成。幕府の祈願所となった。享保二年(一七一七)焼失後は音羽の護国寺を護持院と改め、寺名を移したが、明治維新後護国寺は復名され、護持院の寺名は廃された。

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デジタル大辞泉 「護持院」の意味・読み・例文・類語

ごじ‐いん〔ゴヂヰン〕【護持院】

東京都千代田区神田錦町にあった真言宗の寺。元禄元年(1688)徳川綱吉が湯島の知足院を移したのに始まる。開山は隆光。幕府の祈願所となったが、享保2年(1717)焼失。寺名を音羽の護国寺本坊に移した。→護国寺

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日本歴史地名大系 「護持院」の解説

護持院
ごじいん

現千代田区神田錦かんだにしき町二丁目辺りに享保二年(一七一七)まであった寺院で、同年護国寺(現文京区)に移転。当院の前身は真言宗筑波山中禅ちゆうぜん知足ちそく(現茨城県つくば市)の江戸別院。中世以来筑波山は俗別当支配が続いていたが、慶長五年(一六〇〇)知足院住持となった宥俊は、二代将軍徳川秀忠の乳母の子光誉を養子にし将軍家と関係を結び、俗別当を追放して筑波山の支配権を得た。宥俊の次の光誉は秀忠の信頼を得て江戸城内の安全と将軍の長久安穏の祈祷にあたるようになる。同一五年江戸紺屋こんや町に屋敷を与えられて江戸別院を建立した(護国寺史)。寛永一六年(一六三九)には院内に護摩所が造営されている(「寛永日記」など)。その後筑波山知足院および江戸別院を兼務した歴代住職の多くは、光誉が当初長谷はせ(現奈良県桜井市)に住していたことから、同寺山内六坊の住持から将軍家の任命をうけて選ばれ、将軍家の祈祷にあたるようになった。

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改訂新版 世界大百科事典 「護持院」の意味・わかりやすい解説

護持院 (ごじいん)

江戸神田にあった真言宗豊山派の寺。元禄山と号したが今はない。1688年(元禄1)湯島の知足院を神田橋外の武家屋敷の地に移し,寺観も一新して護持院と改めた。開山は知足院の隆光で,彼は将軍綱吉に認められ権僧正に任ぜられた。91年には朱印1500石の寄進を受け,院家に列し,関東真言宗新義派の総録とされた。翌92年隆光は大僧正に昇進し,96年に元禄山護持院の号を賜った。将軍とその生母桂昌院の参詣は前後数十度に及び,その庇護のもとで寺門は隆盛を極めた。しかし1717年(享保2)の大火で類焼すると,幕府の命により護国寺の域内に移された。あとに残った寺地は護持院ヶ原と呼ばれ,すこぶる佳景の地であった。のち護国寺を改め護持院と称したこともあるが,明治の初め両寺合併し護国寺に統合されると,護持院は廃寺となった。隆光は綱吉の信任が厚く,〈生類憐みの令〉は彼の進言によるものといわれるが,真言密教の再興者としても有名である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「護持院」の意味・わかりやすい解説

護持院
ごじいん

東京都千代田区神田錦(にしき)町にあった新義真言宗の寺。1688年(元禄1)、徳川5代将軍綱吉(つなよし)の帰依(きえ)を受けた隆光(りゅうこう)(1649―1724)が湯島の知足院(ちそくいん)を移したのに始まる。1695年幕府の祈願所となって護持院と改称した。隆光は真言宗新義一派僧録司(そうろくす)となり、命を智山(ちさん)派と豊山(ぶざん)派に伝えたため、以後、護持院は智豊両山の上位にあってその威を誇ったが、綱吉の死後は隆光も去り、しだいに衰微した。1717年(享保2)焼失すると、幕府はこれを音羽(おとわ)(文京区大塚)の護国寺に合併し、本坊を護持院と称したが、明治以後その寺名も廃された。

[勝又俊教]

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百科事典マイペディア 「護持院」の意味・わかりやすい解説

護持院【ごじいん】

江戸神田橋外にあった真言宗の寺。1688年隆光が徳川綱吉に請い,それまで湯島にあった知足院を移建したもの。寛永寺と並ぶ大伽藍(がらん)を造築したが,1717年焼失。寺地は火除(ひよけ)地となり護持院ヶ原と呼ばれた。その名を一時護国寺に移したが,明治維新後廃絶。

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世界大百科事典(旧版)内の護持院の言及

【護国寺】より

…亮賢は上野国八幡別当大聖護国寺の住持で,綱吉の安産を祈って験があったといわれる。同じころ,将軍母子の帰依を受けて隆盛を極めていた護持院が,1717年(享保2)の大火で灰燼(かいじん)に帰すと,幕府は再興を許さず,その地を合併して当寺を護持院と改め,境内の観音堂を護国寺と改称させてしまった。しかし明治の初め,両寺は合併して護持院は廃寺となり,当寺に統合された。…

【隆光】より

…88年(元禄1)には神田橋外に5万坪の地を賜り,知足院をここに移した。91年僧正となり,95年には寺領500石を加えて1500石となり,寺名を護持院と改め,新義真言の僧録を命ぜられ,隆光は大僧正に昇った。将軍綱吉と生母桂昌院に取り入り,〈生類憐みの令〉も実子を強く望む綱吉に彼が勧めたものと伝えられるが,同令が年とともに極端にはしったことに深く関与していると考えられている。…

※「護持院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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