豊中市(読み)トヨナカシ

デジタル大辞泉 「豊中市」の意味・読み・例文・類語

とよなか‐し【豊中市】

豊中

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「豊中市」の解説

豊中市
とよなかし

面積:三六・六〇平方キロ

大阪市の北側に接し、その位置が旧豊島てしま郡の中央部にあたることから「豊中」と名付けられた。北は箕面みのお市、北西は池田市、西は猪名いな川を挟んで兵庫県伊丹いたみ市および尼崎あまがさき市、東は吹田すいた市に接する。地形は北部の千里丘陵地と中央部の豊中台地、西部の猪名川と南部の神崎川に沿った低地の三つに区分することができる。古期洪積層を主とする千里丘陵は、箕面山地の断層崖下に半円形状をなしており、島熊しまくま(一三三・八メートル)を頂点として南へ緩く傾斜する小地塊である。その南縁部には、市街地の主体が存在する新期洪積層の豊中台地が分布し、高さ五〇メートルから二〇メートルへと傾く段丘地形をなしている。台地の西と南が沖積低地である。

〔原始〕

縄文遺跡としては、千里川左岸の段丘面に立地する野畑のばたけ縄文遺跡が知られる。縄文時代後期の遺跡で、出土した縄文式土器には中河内地方の粘土を用いて作られた土器も数点含まれており、摂河両域の交易をうかがううえで興味深い。弥生時代の遺跡は、前期の上津島猪名川床こうづしまいながわとこ遺跡・庄内しようない遺跡、前・中期の勝部かつべ遺跡、後期の穂積ほづみ遺跡・島田しまだ遺跡などがある。遺跡地からみると、弥生文化はまず低湿地から始まり、中期には豊中台地上にも及んでいくが、後期には再び低湿地および台地周縁部に戻り、遺跡数の増加からも定着し発展していったという推測が可能である。なお原田はらだ神社旧境内から銅鐸が出土しており、南刀根山みなみとねやま壺棺出土遺跡がある。古墳時代の遺跡は、猪名川東岸の沖積地に立地する利倉とくら遺跡がある。古墳時代初頭から中世に及ぶ複合遺跡で、多量の土器・木器などが出土したが、そのなかに近畿式銅鐸の破片が含まれていて注目された。古墳は前期に御神山おかみやま古墳・待兼山まちかねやま古墳、中期に三十六塚ともよばれる桜塚さくらづか古墳群、後期に太鼓塚たこづか古墳群などがある。市域における古墳の分布から、この時代かなり有力な豪族が豊中台地を支配しており、中期になると台地中央部から平地にかけて支配する土豪が台頭し、後期には台地北部にかけて多くの土豪が出現したことを推測させる。また桜井谷さくらいだに地域を中心として須恵質土器焼成の窯跡群があり、西方の柴原しばはら地区や南方の上野うえの地区・桜塚地区にまで及ぶ広範囲にわたっている。桜井谷の窯業生産活動は、五世紀の終り頃から七世紀にかけて行われているが、最盛期は六世紀前半に求められている。なお千里丘陵南東部の吹田市域にも大規模な窯跡群があり、当地よりやや遅れて盛行していることから、須恵器工人の移動が推定されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「豊中市」の意味・わかりやすい解説

豊中〔市〕
とよなか

大阪府北西部,猪名川中流左岸の市。 1936年豊中町と桜井谷,麻田,熊野田の3村が合体して市制。市域の北東部は千里山丘陵,南西部は猪名川と神崎川の沖積地。 1910年に箕面有馬電気軌道 (現阪急電鉄宝塚線) が開通,以後中心市街地の岡町,服部地区を中心に住宅地が形成された。丘陵部には大阪大学,服部緑地,吹田市にまたがる千里ニュータウンなどがあり,緑の多い都市を形成。神崎・猪名両河川流域の低地は,大阪市北部から延びる工業地区の一部で,庄内を中心に電気機器,金属,化学,製薬などの工場が多い。桜塚古墳群 (史跡) ,大石塚小石塚古墳,金禅寺,西幅寺などがある。また,日本民家集落博物館があり,重要有形民俗文化財の民家 (白川の合掌造) が移築されている。市域北部を中国自動車道が,南部を名神高速道路が,西部を阪神高速 11号池田線が通り,これらを結ぶインターチェンジがある。市域北西は大阪国際空港に接する。面積 36.39km2(境界未定)。人口 40万1558(2020)。

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