朝日日本歴史人物事典 「豊竹駒太夫(初代)」の解説
豊竹駒太夫(初代)
生年:生年不詳
江戸中期,義太夫節の太夫。豊竹越前少掾(初代若太夫)の門人として享保20(1735)年豊竹座に初出座。寛延1(1748)年のいわゆる「忠臣蔵騒動」以後の豊竹座では豊竹筑前少掾,2代目島(若)太夫に次ぐ存在として二段目切を,筑前少掾引退(1757)以後は四段目切を主に語り,明和2(1765)年に豊竹座が興行権を譲って退転するまで活躍した。この間4度にわたる江戸下り(肥前座への出演)で江戸でも人気があった。美声で高い調子も自在に出たといわれ,なかでも「祇園祭礼信仰記」では三段目の「上燗屋の段」と四段目の「爪先鼠の段」を語り,3年越しのロングランとなる大当たりを取った。その語り口は現在でも「駒太夫風」として伝えられている。2代目は初代の子。7代目が昭和16(1941)年に没している。
(桜井弘)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報