貝塚市(読み)カイヅカシ

デジタル大辞泉 「貝塚市」の意味・読み・例文・類語

かいづか‐し〔かひづか‐〕【貝塚市】

貝塚

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日本歴史地名大系 「貝塚市」の解説

貝塚市
かいづかし

面積:四〇・八一平方キロ

府南部にあり、北西部は大阪湾に面した平野部からなる溜池地帯で、中央部は東西を丘陵に挟まれ、南東部は葛城山(八五八メートル)を最高峰とする山間部で、和泉山脈の稜線で和歌山県と接している。市域の東側には津田つだ川があり岸和田市に接し、西側には見出みで川が流れ、海岸寄りの平野部と山間部は泉佐野市に接するが、中央部の丘陵地帯は泉南郡熊取くまとり町と接している。全体に北西から南東へ延びる細長い矩形の地で、ほぼ中央部を近木こぎ川が流れている。海岸沿いを紀州街道(現府道堺―阪南線)、やや内陸部を熊野街道(小栗街道)が横断し、旧貝塚町から水間みずまを経て山間部へは水間街道が縦断。市名は天文年間(一五三二―五五)に草創された泉南の文化・経済の中心地貝塚寺内に由来する。貝塚という名称の起源は全国の他の同名の場所と同様、考古学的な貝塚と考えられる。遺跡は現存しないが、かつてはあったものが、水没したものと推定される(貝塚市史)。文献上では永享三年(一四三一)近木庄高野御段銭田数散用状(高野山文書)に「海塚」と記される。海塚と貝塚は併用されており、貝塚寺内と海塚かいづか村というように使い分けされるのは江戸中期以後である。

〔原始・古代〕

市域の最古の遺跡は旧石器時代の翼状剥片石核が発見された山間部の海岸寺山かいがんじやま遺跡であるが、断片的な資料であり遺跡の解明までには至っていない。弥生時代の遺跡(それ以後の時代の遺跡を重層的に含むものも多い)は、新井にい鳥羽とば遺跡(先土器時代も含む)加治かじ神前こうざき畠中はたけなか遺跡、さわ遺跡、窪田くぼた遺跡、新井にいいけ遺跡、半田はんだ遺跡などがあげられる。この分布をみると、近木川河口から下流域、熊野街道沿いの地域に多く、近義氏・秦氏といった古代氏族の存在と符合する。古墳には中期末から後期初頭のものと推定される前方後円墳の丸山まるやま古墳が地蔵堂じぞうどうにあり、円筒埴輪の破片が出土している。古代には半田周辺に渡来系氏族である秦忌寸一族がおり、道教どうきよう寺はその氏寺であったとされ、現久保くぼ付近には安幕首一族がおり、物部氏の支族と考えられている。また現神前・畠中付近を本拠としたのが渡来系氏族の近義首である。律令国家のもとでは当市の東部一帯は和泉郡木島きのしま郷に属し、その北の津田川下流域、現麻生中あそなか清児せちご名越なごせもり三ッ松みつまつ・水間の地域は「水間里」「里外里」などとよばれていた。市の西部は日根ひね近義こぎ(近木)郷に属し、近木川下流右岸の現神前・畠中辺りが、「近木里」「上古家田里」「下古家田里」とよばれ、近木川下流域左岸の現沢・浦田うらだ・窪田・王子おうじ近辺に「水江里」があったものと考えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「貝塚市」の意味・わかりやすい解説

貝塚〔市〕
かいづか

大阪府南西部,大阪湾岸から和泉山脈北斜面に広がる市。 1943年市制。中心市街地の貝塚は,中世末に一向宗願泉寺を中心として発展した寺内町で,近世は和泉木綿の集散地,木櫛の産地として知られた。明治以降,近代的な紡績工業が発達,泉州紡織工業地域の一中心地となった。第2次世界大戦後は金属工業が進出,特にワイヤロープの生産が多い。南部の丘陵ではミカン栽培が行なわれ,公設保養所の建設や宅地開発も進んでいる。南の和泉山脈にはブナの原生林があり,南東端の和泉葛城山ブナ林は国の天然記念物に指定。国指定史跡の丸山古墳,数々の重要文化財を所蔵する孝恩寺 (観音堂は国宝) ,2月の初午詣で有名な水間寺,二色の浜公園などがある。阪和自動車道が通りインターチェンジがある。面積 43.93km2。人口 8万4443(2020)。

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