足利氏満(読み)アシカガウジミツ

デジタル大辞泉 「足利氏満」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐うじみつ〔‐うぢみつ〕【足利氏満】

[1359~1398]南北朝時代武将基氏の子。鎌倉公方くぼう将軍義満を除こうとしたが、執事上杉憲春諫死かんしにより中止。以後は関東奥羽支配に努めた。

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精選版 日本国語大辞典 「足利氏満」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐うじみつ【足利氏満】

南北朝時代の武将。第二代関東公方。基氏の子。康暦元年(一三七九)将軍足利義満にそむこうとしたが、上杉憲春の諫死により断念。延文四~応永五年(一三五九‐九八

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朝日日本歴史人物事典 「足利氏満」の解説

足利氏満

没年:応永5.11.4(1398.12.12)
生年:延文4/正平14(1359)
南北朝・室町時代の武将。基氏の子。幼名金王丸。貞治6/正平22(1367)年,父の死により2代鎌倉公方となる。翌年,敵対する武蔵河越の国人一揆である平一揆を討ち,続いてこれにくみした下野の宇都宮氏綱を降参させている。応安2/正平24年元服し,将軍足利義満の諱の1字を受けて氏満と称した。以後氏満は鎌倉府分国支配の安定のため,比較的独立を保っていた有力領主層の抑圧に努める。特に康暦2/天授6(1380)年,下野の小山義政と宇都宮基綱の私闘を巡っては,基綱を敗死させた義政を追討し,義政は3度にわたる反乱の末自殺を遂げた(小山氏の乱)。乱自体はその後も義政の遺児若犬丸に引き継がれることになるが,これにより関東管領上杉氏と鎌倉府近臣を基軸とする支配体制が一応確立された。一方室町幕府との関係では,細川頼之が管領の座を追われた康暦1/天授5年の康暦の政変に際し義満の打倒を策したものの,関東管領上杉憲春の諫死により思いとどまっている。また明徳3/元中9(1392)年には幕府分国の陸奥・出羽両国を移譲されたが,これは,奥州拠点に策動する若犬丸鎮圧を名目とした氏満の執拗な要求に,幕府が応じたものであろう。しかし鎌倉府による現実の奥羽支配は鎌倉府牽制という幕府の方針もあってか,奥州探題の斯波氏に大きく依存することとなった。

(江田郁夫)

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改訂新版 世界大百科事典 「足利氏満」の意味・わかりやすい解説

足利氏満 (あしかがうじみつ)
生没年:1359-98(正平14・延文4-応永5)

南北朝時代の武将。足利基氏の子。鎌倉公方(くぼう)2代。幼名は金王丸。1369年(正平24・応安2)元服,将軍義満の偏諱(へんき)を受けて氏満と称す。従五位下,左馬頭,のち従四位下,左兵衛督に進む。68年の武蔵河越合戦と80年(天授6・康暦2)以降の小山義政・若犬丸の乱を鎮圧し,東国における鎌倉公方足利氏の支配権を確立した。またその間の79年管領細川頼之排斥事件(康暦の政変)に関係し,将軍義満にとって代わろうとしたが,時の関東管領上杉憲春の諫死で思いとどまった。95年義満から陸奥,出羽の分国支配を認められた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利氏満」の意味・わかりやすい解説

足利氏満
あしかがうじみつ
(1359―1398)

南北朝~室町初期の武将。鎌倉公方(くぼう)第2代。幼名金王丸。基氏(もとうじ)の子。1367年(正平22・貞治6)基氏の後を継ぎ9歳で鎌倉公方となる。1369年元服して氏満と称す。1379年(天授5・康暦1)氏満は将軍義満(よしみつ)にかわって将軍となろうと画策したが、関東管領(かんとうかんれい)上杉憲春(うえすぎのりはる)の諫死(かんし)により、その野心を遂げることができなかった。氏満時代は北関東において連続的に戦乱が続いたが、北関東の豪族層を圧し、1392年(元中9・明徳3)には陸奥(むつ)、出羽(でわ)両国も鎌倉府の管轄下に入った。応永(おうえい)5年11月4日没。

[伊藤喜良]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「足利氏満」の解説

足利氏満
あしかがうじみつ

1359~98.11.4

南北朝期~室町中期の武将。2代鎌倉公方(くぼう)。初代基氏の子。従四位下左兵衛督。幼名金王(こんのう)丸。法名永安寺璧山道全。1367年(貞治6・正平22)父の死により9歳で鎌倉公方となる。その直後,鎌倉府の武蔵国支配に不満をもつ河越・高坂両氏を中心とした武州平(へい)一揆の反乱を鎮圧。79年(康暦元・天授5)には京都の政変に乗じて将軍足利義満の打倒をはかるが,関東管領上杉憲春の諫死(かんし)で思いとどまる。その後は関東有数の大豪族小山(おやま)義政・若犬丸父子2代にわたる反乱鎮圧に努めた。92年(明徳3・元中9)には幕府から陸奥・出羽両国の管轄権を与えられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利氏満」の解説

足利氏満 あしかが-うじみつ

1359-1398 南北朝-室町時代の武将。
延文4=正平(しょうへい)14年生まれ。足利基氏(もとうじ)の長男。貞治(じょうじ)6=正平22年父の跡をついで2代鎌倉公方(くぼう)となる。康暦元=天授5年管領(かんれい)細川頼之(よりゆき)排斥事件を機に,3代将軍足利義満にかわり将軍職をえようとしたが,関東管領上杉憲春(のりはる)の諫死(かんし)によって断念。後年陸奥(むつ),出羽(でわ)の支配権をあたえられた。応永5年11月4日死去。40歳。幼名は金王丸。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利氏満」の意味・わかりやすい解説

足利氏満
あしかがうじみつ

[生]正平14=延文4(1359)
[没]応永5(1398).11.4. 鎌倉
南北朝時代の武将。第2代鎌倉公方 (1367~98) 。基氏の子。正平 23=応安1 (68) 年,武蔵平一揆および新田氏の残党を討つ。天授4=永和4 (78) 年将軍義満の失政につけこんで,これに代ろうとして事を起したが,関東管領上杉憲春の諫死により中止した。明徳の乱後,陸奥,出羽両国をも管轄した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「足利氏満」の解説

足利氏満
あしかがうじみつ

1359〜98
室町前期の鎌倉公方
基氏の子。幼くして関東管領(のち鎌倉公方)となり,執事(のち関東管領)上杉憲顕 (のりあき) に補佐された。1378年足利義満に代わって将軍になろうとしたが,執事上杉憲春 (のりはる) の諫死 (かんし) によってやめ,小山氏の反乱を鎮めるなど関東の平定につとめた。明徳の乱(1391)後,陸奥・出羽両国を支配下に加えた。

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世界大百科事典(旧版)内の足利氏満の言及

【鎌倉公方】より

…室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。関東公方(くぼう)ともいう。足利氏の東国支配は,1333年(元弘3)12月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ったことにはじまる(鎌倉将軍府)。足利尊氏は,36年(延元1∥建武3)11月京都に幕府を開いたが,その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに関東管領を配置して東国の政治一般にあたらせた。…

【下野国】より

…氏綱の後を継いだ基綱は80年(天授6∥康暦2)下野守護小山義政と対立して殺された。鎌倉公方足利氏満はただちに関東の諸将に義政追討を命じ,義政は鷲城,祇園城,粕尾城などに拠って抗戦したが,82年(弘和2∥永徳2)自害し,ここに名族小山氏は断絶した。公方氏満は名族の断絶を惜しみ,同族の結城基光の次男泰朝をして再興させた。…

※「足利氏満」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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