精選版 日本国語大辞典 「足利義氏」の意味・読み・例文・類語
あしかが‐よしうじ【足利義氏】
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戦国後期の武将。足利晴氏の子。母は北条氏綱女。最後の古河公方(こがくぼう)となる。幼名梅千代王丸。1552年(天文21)晴氏から家督を譲り受けた。55年(弘治1)元服して将軍義輝の偏諱(へんき)を得て義氏と称す。従四位,右兵衛佐に叙せられる。元服後,後北条氏の援助を得て鎌倉や古河に御所を構えたが,69年(永禄12)の越後上杉氏と北条氏との和睦以後,本拠地古河に定住する。北条氏と密接な関係を持ったが,古河公方家としてその間特有な役割を果たし,とくに北関東の諸将に大きな影響を与えた。82年嗣子なく没し,古河公方家は断絶する。遺女氏姫が後に小弓(おゆみ)公方家の国朝,頼氏と結婚し,その血筋を喜連川氏(きつれがわうじ)に伝えた。
執筆者:佐藤 博信
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(市村高男)
(五味文彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
鎌倉中期の武将。義兼の子で母は北条時政(ときまさ)の娘。武蔵守(むさしのかみ)、陸奥(むつ)守、左馬頭(さまのかみ)などを歴任し正四位下に至る。1213年(建保1)和田義盛(よしもり)の乱で、豪傑をもって知られる朝比奈(あさひな)三郎義秀との一騎打ちで五分に渡り合った話は有名。1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱や1247年(宝治1)の三浦氏の乱では北条氏のもとで戦功をあげた。1241年(仁治2)出家して正義と称した。高野山(こうやさん)の金剛三昧(こんごうさんまい)院に大仏殿を造立し伯母北条政子(まさこ)の菩提(ぼだい)を弔った。なお、最後の古河公方(こがくぼう)となった足利義氏(1541―1582)は別人。
[朧谷 寿]
1541?~83.1.21
最後の古河公方(こがくぼう)。父は晴氏,母は北条氏綱の女芳春院。幼名梅千代王丸。法名香雲院長山周善。従四位下右兵衛佐。1552年(天文21)後北条(ごほうじょう)氏の意向で嫡子(異母兄)藤氏(ふじうじ)を差しおいて家督をつぐ。晴氏が後北条氏に幽閉されると,母とともに鎌倉葛西ケ谷(かさいがやつ)に移った。その後,後北条氏の庇護をうけて下総国関宿(せきやど)などを転々としたが,69年(永禄12)頃古河に復帰,死没まで在城した。
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