近藤勇(読み)コンドウイサミ

デジタル大辞泉 「近藤勇」の意味・読み・例文・類語

こんどう‐いさみ【近藤勇】

[1834~1868]江戸末期の幕臣。新撰組隊長武蔵の人。名は昌宜まさよし京都守護職松平容保まつだいらかたもりの下で新撰組を組織し、尊攘そんじょう派を弾圧。戊辰ぼしん戦争で敗れ、斬首ざんしゅされた。

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精選版 日本国語大辞典 「近藤勇」の意味・読み・例文・類語

こんどう‐いさみ【近藤勇】

幕末の新撰組局長。本姓宮川。名は昌宜。変名大久保大和。武蔵の人。剣道天然理心流近藤周助に学び、その養子となる。幕府に仕えて尊王攘夷派志士の取締りにあたり、元治元年(一八六四)京都池田屋に志士らを襲撃戊辰(ぼしん)戦争では甲陽鎮撫隊(ちんぶたい)を組織して政府軍と戦ったが、下総流山で捕えられ、処刑された。天保五~明治元年一八三四‐六八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「近藤勇」の意味・わかりやすい解説

近藤勇
こんどういさみ
(1834―1868)

幕末期、新選組局長。武蔵国(むさしのくに)多摩郡上石原村(東京都調布(ちょうふ)市)宮川久次郎(きゅうじろう)の三男として生まれる。幼名勝五郎のち勝太。剣を天然理心流(てんねんりしんりゅう)宗家3代近藤周助(しゅうすけ)の試衛館(しえいかん)に学び、1849年(嘉永2)にその養子となった。周助にかわって多摩郡の出稽古場(でげいこじょう)を歩き、日野宿佐藤彦五郎(ひこごろう)、小野路村の小島鹿之助らと義兄弟の契りを結んだ。1863年(文久3)2月将軍徳川家茂(いえもち)上洛(じょうらく)に先んじて、門下土方歳三(ひじかたとしぞう)、沖田総司(そうじ)、山南啓助(やまなみけいすけ)らを引き連れて浪士組に加わった。清河八郎と意見を異にして京都に残留し、芹沢鴨(せりざわかも)らと京都守護職支配下に属して新選組を組織し、京の治安維持に努めた。芹沢暗殺後は局長となり、1864年(元治1)6月の池田屋事件で功をたてた。1867年(慶応3)6月に幕臣となり、見廻組(みまわりぐみ)与頭格(よがしらかく)に任ぜられた。1868年1月3日鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いでは副長土方歳三が指揮をとったが敗れ、のち残った隊士を集め東帰した。江戸で近藤は主戦論を唱え、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を組織し隊長となり大久保大和(やまと)と名のった。3月5日に甲州(山梨県)勝沼で官軍と戦い敗走し、下総(しもうさ)(千葉県)流山(ながれやま)で官軍に捕らわれた。慶応(けいおう)4年4月25日江戸板橋で斬首(ざんしゅ)され、首は京都・三条河原に梟首(きょうしゅ)された。年35。東京都町田市の小島資料館に史料が保存されている。

[小島政孝]

『小島政孝著『武術天然理心流 上』(1978・小島資料館)』


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朝日日本歴史人物事典 「近藤勇」の解説

近藤勇

没年:明治1.4.25(1868.5.17)
生年:天保5.10.9(1834.11.9)
幕末維新期,京都守護職傘下の新選組局長。武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市野水町)宮川久次郎と母えいの3男。名は昌宜,幼名勝五郎,通称勝太,勇,のちに大久保大和藤原剛と称した。変名に近藤内蔵助,近田勇平など。天然理心流3世近藤周助に望まれ4世を襲名するが,それに先立ち周助の実家島崎の養子となり島崎勝太,島崎勇を名乗ったのち,近藤勇藤原昌宜と称した。字を外史,東洲と号す。文久3(1863)年2月8日清河八郎ら上洛浪士組(将軍上洛の列外警護として幕府が募った)では先番宿割役を務め,一時は土方歳三,沖田総司らが属す三番組の小頭を任じた。清河らの帰府に従わず,京都に残留して新選組母胎の局長,同年9月18日芹沢鴨を粛清し新選組局長として君臨。元治1年6月5日(1864年7月8日)池田屋に尊攘派志士を襲撃,殺傷した,いわゆる池田屋騒動で勇名を馳せる。 慶応1(1865)年11月4日長州訊問使永井主水正尚志に随行。近藤内蔵助を名乗って,伊東甲子太郎,武田観柳斎,尾形俊太郎と共に広島へ出立。長州藩宍戸備後を国泰寺で訊問。同3年6月10日近藤,土方,沖田ら新選組隊士105人が幕府の召しかかえとなる。同年10月7日土佐陸援隊に潜入させた村山謙吉から,10月15日西軍の武力討幕蜂起の諜報を得て京都守護職に報じるが,これは幕府に大政奉還を決意させるひとつの要因となった。同年11月15日(12月10日),坂本竜馬,中岡慎太郎らが襲撃され容疑を受けると,それを新選組から離脱した甲子太郎の密告によるものと判断,3日後,七条油小路において甲子太郎,藤堂平助,毛内有之進,服部武雄らを要撃した。同年12月18日伏見街道墨染辺りで,篠原泰之進と阿部十郎に狙撃され右肩に銃創を負う。鳥羽・伏見の戦を経て,江戸に引き揚げ後,甲陽鎮撫隊を組織するも甲州勝沼で敗走。下総流山(千葉県)で官軍に投降。明治1(1868)年4月,板橋において斬首。首級は同所に晒され,さらに翌閏4月,京都の三条河原に梟首。<参考文献>平尾道雄『新撰組史録』

(釣洋一)

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改訂新版 世界大百科事典 「近藤勇」の意味・わかりやすい解説

近藤勇 (こんどういさみ)
生没年:1834-68(天保5-明治1)

幕末の新撰組隊長。武蔵国多摩郡石原村の宮川久次の第3子。天然理心流近藤周助の試衛館で剣法を学び,1849年(嘉永2)その養子となる。63年(文久3)将軍徳川家茂の上洛にあたり幕府が募った浪士隊に同門の土方歳三,沖田総司,永倉新八らと加わった。上洛した浪士隊は洛外壬生村に屯集した。清川八郎らが尊攘派と結んだので幕府から江戸へ帰還を命ぜられた後も京都に残り,京都守護職支配下に属して新撰組を結成。しだいに力をのばして隊長となり,尊攘派の取締りと弾圧にあたる。64年(元治1)6月池田屋事件で名をあげた。以後,洛中洛外の治安維持につとめ,幕臣にもなる。68年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦で幕軍敗退後江戸へ帰り,佐幕軍甲陽鎮撫隊を組織して官軍と甲斐勝沼で戦うが敗走。下総流山で降伏して捕らわれたとき大久保大和と名のるが,官軍に勇であることを見破られ,4月25日に板橋庚申塚の刑場で斬られ,首は京都三条河原に梟された。
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百科事典マイペディア 「近藤勇」の意味・わかりやすい解説

近藤勇【こんどういさみ】

新撰組隊長。武蔵(むさし)国多摩郡出身。近藤周助に天然理心流の剣術を学びその養子となる。1863年幕府の募集に応じて浪士隊に加入。のち新撰組隊長として池田屋事件など京都の反幕派志士の取締りで名をあげ,幕臣ともなる。鳥羽・伏見の戦のあと江戸に戻り,甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を組織して新政府軍と戦うが,敗れて捕らえられ斬首。
→関連項目清川八郎芹沢鴨土方歳三

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「近藤勇」の意味・わかりやすい解説

近藤勇
こんどういさみ

[生]天保5(1834).武蔵,石原
[没]慶応4(1868).4.25. 江戸
江戸時代末期の新撰組局長。宮川久次の3男。名は昌宜。幕臣近藤周助について天然理心流を修め,養子となる。文久3 (1863) 年,尊王攘夷派を抑圧するため組織された浪士隊に応募,芹沢鴨の下で新撰組の幹部となり,京都守護職の配下に立って尊攘派の弾圧に手腕をふるった。芹沢暗殺後は組の指導者となり,元治1 (64) 年の池田屋事件ではみずから攘夷派の拠点に切込んで宮部鼎蔵ら居合せた志士を全滅させ,京都市中に名を知られた。鳥羽,伏見の敗戦後 (→鳥羽・伏見の戦い ) ,甲陽鎮撫隊を編成して甲府の占拠をはかったが成功せず,下総国流山で官軍に抵抗したが敗れて捕えられ,江戸板橋の庚申塚で斬首ののち,首級は京都に送られ三条河原に梟首された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「近藤勇」の解説

近藤勇 こんどう-いさみ

1834-1868 幕末の武士。
天保(てんぽう)5年10月5日生まれ。近藤周助に天然理心流の剣をまなび,養子となる。文久3年幕府浪士隊にくわわり京都へゆく。のち芹沢鴨(せりざわ-かも)らと新選組を結成,副長のち局長として尊攘(そんじょう)運動をとりしまる。鳥羽・伏見の戦いののち,甲府入城に失敗,下総(しもうさ)流山(千葉県)で新政府軍に捕らえられ,慶応4年4月25日処刑された。35歳。武蔵(むさし)多摩郡(東京都)出身。本姓は宮川。名は昌宜(まさよし)。変名は大久保大和。
【格言など】下拙刀(げせつとう)は,虎徹ゆえにや,無事にござ候(池田屋襲撃後に養父にあてた手紙)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「近藤勇」の解説

近藤勇
こんどういさみ

1834~68.4.25

幕末期の幕臣・新撰組隊長。諱は昌宜。武蔵国多摩郡の農家に生まれ,江戸の天然理心流近藤周助の養子となり,道場をつぐ。1863年(文久3)の将軍徳川家茂(いえもち)上洛に際し,警衛のための浪士隊に参加して上京するがそのまま京に残留,京都守護職の配下で新撰組を組織し,のち隊長。67年(慶応3)6月,見廻組頭取として幕臣となる。68年3月,甲陽鎮撫隊を組織して新政府軍と戦い(勝沼戦争),ついで下総国流山(ながれやま)戦争に参加したが,捕らわれ処刑された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「近藤勇」の解説

近藤勇
こんどういさみ

1834〜68
江戸末期の幕臣。新撰組隊長
武蔵(東京都)多摩郡調布の人。京都守護職の支配下に属して新撰組を組織し,池田屋事件で長州藩尊攘派志士を襲撃するなど弾圧の先鋒として活躍。1868年鳥羽・伏見の戦いに敗れ江戸に帰り,甲陽鎮撫隊を組織した。甲斐(山梨県)勝沼・下総(千葉県)流山 (ながれやま) で新政府軍と戦って敗れ,捕らわれて板橋で斬首された。

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世界大百科事典(旧版)内の近藤勇の言及

【土方歳三】より

…武蔵国多摩郡石田村の土方隼人の四男に生まれる。近藤勇と同郷でともに天然理心流剣道近藤周助の門弟。江戸幕府が関東近在において剣術に心得ある者を徴募すると近藤らとともに応じ,1863年(文久3)春に上洛した。…

※「近藤勇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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