近衛 秀麿(読み)コノエ ヒデマロ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「近衛 秀麿」の解説

近衛 秀麿
コノエ ヒデマロ


職業
指揮者 作曲家 子爵

肩書
新交響楽団創設者,ABC交響楽団創設者 日本芸術院会員〔昭和23年〕

生年月日
明治31年 11月18日

出生地
東京市 麹町区(東京都千代田区)

学歴
学習院高等科〔大正8年〕卒 東京帝国大学文学部哲学科〔大正11年〕中退

経歴
五摂家の一つである名門・近衛公爵家の出身で、近衛篤麿の二男として生まれる。兄は首相を務めた文麿。同家は古来、宮中の雅楽を司る家でもあり、7歳上の兄の影響もあって幼い頃から音楽や楽器に親しみ、8歳の時に兄からバイオリンを買い与えられた。一時は日本初の飛行機乗りの一人である徳川好敏の講演を聴いたのがきっかけで飛行機に熱中、所沢飛行場に赴いて訓練なども行ったが、それが母に知られると危険であるからと反対され、飛行機を諦める代わりにバイオリンの練習を正式に認められ、末吉雄二、グスタフ・クローンらに師事した。学習院中等科時代には上級生の犬養健、土方与志らと交流。また作曲家を志すようになり、師の末吉の勧めで東京音楽学校(東京芸術大学)のお茶の水分教場にも出入りするが、大正5年からは牛山充の紹介でドイツ帰りの山田耕筰について作曲の基礎を学んだ。同年学習院高等科に進み、学習院輔仁会秋季大会の音楽担当として作曲家デビューを果たす。8年子爵に封ぜられ、近衛本家から独立。9年東京帝国大学に入学するが、学業そっちのけで音楽に熱中し、瀬戸口藤吉指揮者を務めていた東京アマチュア・オーケストラル・ソサエティーに所属してバイオリンを担当した。ある日、瀬戸口が欠席したため代理として同楽団を指揮したが、はじめてのことなので混乱し、不首尾に終わったという。同年山田が2度目の外遊から帰国した際、その歓迎会でワーグナーニュルンベルクマイスタージンガー前奏曲の指揮を行い、正式に指揮者デビュー。また本格的に作曲も開始、「赤い鳥」を中心に、西条八十の詩に曲をつけた「烏の手紙」「犬と雲」、北原白秋の詩による「ちんちん千鳥」といった歌曲や童謡を発表した。9年山田の設立した日本作曲家協会に参加。12年渡欧し、ベルリンでエーリヒ・クライバーに指揮を、パリでヴァンサン・ダンディらに作曲を学ぶ。滞在中の13年には当時から世界的に名を知られていたベルリン・フィルハーモニー交響楽団を指揮する機会が与えられ、モーツァルトの「劇場支配人」序曲やドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」などを演奏し、好評を博した。同年第一次大戦後のインフレで安くなったオーケストラの楽譜を大量に買い込んで帰国し、近衛交響楽団を結成。14年には同楽団を山田の日本交響楽団に合流させ、日本初の常設オーケストラとして定期公演や日露交歓管弦楽演奏会などを成功させたが、使途不明金問題で山田と袂を分かち、15年から新交響楽団(NHK交響楽団)を組織して以後10年間主宰した。創作面では、弟で雅楽の研究者であった直麿とともに雅楽の「越天楽」を近代的管弦楽に編曲し、ストコフスキーも好んで演奏するなど海外でも高い評価を受ける。昭和3年には昭和天皇即位の大礼式を記念する「大礼交声曲」を作曲したが、これ以降は作曲よりも編曲に力を入れ、ムソルグスキー「展覧会の絵」やシューベルトの「ハ長調交響曲」、私淑するベートーヴェンの全交響曲のアレンジなどを手がけた。5年中川牧三を従えてシベリア鉄道経由で欧州を旅行、この時、フルトヴェングラーからオーケストラ譜を借り出すことができ、2人で書き写した。帰国後、新響内部で組合活動が発覚したのに伴って楽団員の大量離脱が発生(コロナ事件)、その後も再び新響の組合組織への改組問題に巻き込まれ、10年退団。フリーとなった後は海外に出、ストコフスキーやトスカニーニ、オーマンディら世界有数の指揮者たちと交流し、ニューヨーク・フィル、BBC交響楽団などに客演した。12年一時帰国するが、13年再びヨーロッパに渡ってからはドイツ、フランス、オーストリア、東欧、北欧各国を渡り歩いて数多くのオーケストラを指揮するなど、国際的に活躍。20年ドイツの降伏により米軍の捕虜となり、同年末に帰国。21年新設の東宝交響楽団に常任指揮者として招かれるが、25年東宝争議のために同団を去り、この間に知り合いの楽団員とともに結成したエオリアン・クラブを27年近衛管弦楽団に改組。31年には朝日放送などの後援を受けて同団をABC交響楽団に改めた。35年にはヨーロッパ公演を敢行、指揮では高い評価を受けたが、プロモーターの逃亡やそれによる資金難などもあり、同団は崩壊した。43年参議院選挙に出馬するも落選。46年日本フルトヴェングラー協会初代会長に就任。23年芸術院会員。他の作品に「日本組国」「行進国〈前進〉」「六段パラフレーズ」など、著書に「わが音楽30年」「オーケストラを聴く人々へ」がある。長男は作曲家の近衛秀健。

没年月日
昭和48年 6月2日 (1973年)

家族
父=近衛 篤麿(公爵・貴院議長),兄=近衛 文麿(首相),弟=近衛 直麿(雅楽研究家),長男=近衛 秀健(近衛音楽研究所理事長)

伝記
近衛秀麿―日本のオーケストラをつくった男101歳の人生をきく音の終わりを大切に―北爪利世の「クラリネット、わが人生」百年の日本人〈その3〉 大野 芳 著中川 牧三,河合 隼雄 著近藤 滋郎 編川口 松太郎,杉本 苑子,鈴木 史楼 ほか著(発行元 講談社講談社音楽之友社読売新聞社 ’06’04’02’86発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「近衛 秀麿」の解説

近衛 秀麿
コノエ ヒデマロ

昭和期の指揮者,作曲家 新交響楽団創設者;ABC交響楽団創設者。



生年
明治31(1898)年11月18日

没年
昭和48(1973)年6月2日

出生地
東京

学歴〔年〕
東京帝大文学部中退

経歴
大正12年渡欧、ベルリンでエーリヒ・グライバーに指揮を、パリでバンサン・ダンディらに作曲を学び14年帰国。同年山田耕筰と日本交響楽団を創設、翌15年から新交響楽団を組織して10年間主宰した。昭和17年新響は日本交響楽団となり、さらに26年NHK交響楽団に改組された。昭和11年再び渡欧、20年秋に帰国するまで欧米各地のオーケストラを指揮、国際的に活躍した。帰国後、新設の東宝交響楽団に迎えられ、続いて27年近衛管弦楽団を創設、31年ABC交響楽団と改組したが、経営難で長続きせず、以後、若い指揮者や演奏家の育成に努めた。作曲は少ないが作品の改訂や編曲に業績を残し、雅楽を近代的管弦楽に編曲した「越天楽」は広く演奏された。23年芸術院会員。作曲作品に「大礼交響曲」、著書に「わが音楽三十年」「オーケストラを聴く人々へ」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「近衛 秀麿」の解説

近衛 秀麿 (このえ ひでまろ)

生年月日:1898年11月18日
昭和時代の指揮者;作曲家。新交響楽団主宰
1973年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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