逸然(読み)イツネン

デジタル大辞泉 「逸然」の意味・読み・例文・類語

いつねん【逸然】

[1601?~1668]中国みん黄檗おうばく宗僧侶。浙江せっこうの人。1644年に来日し、長崎興福寺第3代住持となる。隠元の日本招請に尽力したほか、北宗画風の人物画仏画にすぐれ長崎漢画の祖となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「逸然」の意味・わかりやすい解説

逸然
いつねん
(1601―1668)

江戸初期の黄檗(おうばく)宗の禅僧。逸然は道号、法諱(ほうき)は性融(しょうゆう)。明国浙江省杭州府銭塘県(みんこくせっこうしょうこうしゅうふせんとうけん)の出身で俗姓李氏。1641年(寛永18)長崎に薬種商として渡来。1644年(正保1)黙子如定(もくすにょじょう)について出家し、翌年に長崎の興福寺第3代住持となる。隠元隆琦(いんげんりゅうき)の招請に尽力し、1654年(承応3)隠元が来日すると、興福寺に迎えて住持とする。1668年(寛文8)7月14日、68歳で寂し、塔は長崎の興福寺と宇治の黄檗山万福寺にある。1657年(明暦3)に費隠通容(ひいんつうよう)著『五灯厳統』、『隠元語録』などを出版した。中国画の新しい画風を伝えた人物として重視され、「唐絵」の開祖などと称される。仏画や人物画に長じ「観音図」(万福寺蔵)などがあり、門下に長崎の一画派である河村派祖の河村若芝(かわむらじゃくし)(一説に1707年没)、渡辺秀石(わたなべしゅうせき)(1639―1707)がいる。

[竹貫元勝]

『木村得玄著『黄檗宗の歴史・人物・文化』(2005・春秋社)』『木村得玄著『初期黄檗派の僧たち』(2007・春秋社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「逸然」の意味・わかりやすい解説

逸然
いつねん
Yi-ran

[生]万暦29(1601).中国,浙江
[没]寛文8(1668).7.14. 長崎
中国,明の黄檗僧,長崎派画家。俗姓李氏,法諱は性融 (しょうゆう) ,逸然は字。号は烟霞 (えんか) ,浪雲。明末の乱を避け正保1 (1644) 年長崎に来航。長崎興福寺3代目住持をつとめ,仏事のかたわら北宗画風の人物画や仏画を描く。作品は明人の絵として珍重され,渡辺秀石,河村若芝など師事する者が多く,長崎漢画派を形成。日本における禅宗衰微を嘆き,隠元を日本へ招くことに尽力した。主要作品『十八羅漢図』『達磨寒山拾得図』『白衣観音図』。

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367日誕生日大事典 「逸然」の解説

逸然 (いつねん)

生年月日:1601年8月1日
江戸時代前期の渡来僧;南画伝来者
1668年没

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世界大百科事典(旧版)内の逸然の言及

【黄檗美術】より

…また渡来した黄檗僧たちは,文人の墨戯としての四君子画や,略筆の観音像を得意とするものが多かった。隠元より早く来日し,隠元を日本に招くのに貢献した逸然は観音像を手がけ,万福寺15代住持の大鵬正鯤(たいほうせいこん)(1691‐1774)の墨竹はなかでもすぐれている。長崎出身の僧鶴亭(?‐1785)はこうした墨戯を上方画壇にひろめる役割を果たした。…

【長崎派】より

…(1)黄檗(おうばく)派は,黄檗宗の中国僧によって伝えられた写実的な高僧肖像画を学び,喜多元規らの肖像画家を生んだ(黄檗美術)。(2)漢画派は,1644年(正保1)に来朝した黄檗僧逸然(1600か01‐68)を祖とし,河村若芝(1629か38‐1707),渡辺秀石(1639‐1707)らが謹厳な北宗画風の絵を描き,秀石は唐絵目利職につくなど,長崎派の主流となった。(3)南蘋(なんぴん)派は,1731年(享保16)に渡来した沈銓(しんせん)(南蘋)にはじまる。…

※「逸然」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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