都島区(読み)ミヤコジマク

デジタル大辞泉 「都島区」の意味・読み・例文・類語

みやこじま‐く【都島区】

都島

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「都島区」の解説

都島区
みやこじまく

面積:五・八六平方キロ

大阪城の北方、新淀川と分岐して南流する大川(旧淀川本流)左岸に位置し、東は国鉄城東貨物線を境に旭区、またほぼ近世の京街道(東海道)を境として城東区と接し、南は寝屋川を挟んで東区に接する。区北部の友渕ともぶち町を城北しろきた運河が横断し、その上を阪神高速道路森小路線が通る。鉄道は区南部に京阪電鉄本線・国鉄片町線、南西部に国鉄大阪環状線、中央部を東西に地下鉄谷町線が通る。区名は明治二二年(一八八九)市町村制施行時の新村名を継承。都島村は仁徳天皇高津こうづ宮、孝徳天皇長柄豊碕ながらとよさき宮が近くにあったと想定して命名。一説には以前からこの付近の総称として「宮向島みやこじま」の名があったともいう。

〔原始・古代〕

区域は弥生時代後半から古墳時代にかけての河内湖の頃まで水底にあり、河内湖の水は当時、現在の神崎川を流れて大阪湾に注いでいたと考えられる。古墳時代中期以降、淀川の三角洲が発達し、天満砂堆を横断する中津川の新水路もできている。仁徳天皇のとき、治水のため難波の堀江なにわのほりえ(現在の大川か)が開削されたといわれ、区域は奈良時代頃まで長柄船瀬とよばれる碇泊地に含まれたとみられる。「住吉大社神代記」に長柄船瀬の西限とある「鞆淵ともぶち」は友渕町付近のことと考えられる。「和名抄」の東生ひがしなり郡の古代郷のうち当地は古市ふるち郷に属し、平安時代には旭区、城東区・鶴見区の一部とともに榎並えなみ(城東区の→榎並庄に属したと考えられる。榎並庄には当初奈良法隆寺などの所領が錯綜していたが、一一世紀後半には摂関家領として確立し、近衛家に伝領されている。

〔中世〕

鎌倉時代になると近衛家の榎並庄支配がしだいに衰退、鎌倉末から南北朝期にかけては奈良春日社領となり、一五世紀後半には上庄半分と下庄が京都北野社領となった。舳淵ともぶち庄・善源寺ぜんげんじ庄は、近衛家の支配が解体していく過程で榎並庄内にできた庄園で、舳淵庄は鎌倉後期に存在したことがわかるのみであるが、善源寺庄は建武四年(一三三七)足利尊氏により多田ただ(現兵庫県川西市多田神社)に寄進され、応仁・文明の乱頃までは多田院支配が続いた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「都島区」の意味・わかりやすい解説

都島〔区〕
みやこじま

大阪市北部,旧淀川左岸の区。 1943年北・旭両区の一部が分離して新設。北を淀川,西を旧淀川,南を寝屋川に限られる低平な淀川沖積地で,かつては京街道の沿道以外は近郊農業地であった。明治中頃,大阪鉄道 (現 JR大阪環状線) ,片町線などが通じてから商工業地区として発展。紡績の大工場や製紙業のほか機械,雑貨を中心とした中小工場があり,大阪東部工業地域の一部をなす。毛馬洗堰は淀川と旧淀川の分岐点にあり,淀川の水量を調節する。淀川河川敷リバーサイドパークと呼ばれる公園が整備されている。網島町に藤田美術館があり多くの国宝 (絵画・工芸品) を所蔵。地下鉄谷町線,南部を京阪電気鉄道本線,地下鉄鶴見緑地線が通り,京橋周辺は商業中心地。面積 6.08km2。人口 10万7904(2020)。

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