鄧茂七の乱(読み)とうもしちのらん

改訂新版 世界大百科事典 「鄧茂七の乱」の意味・わかりやすい解説

鄧茂七の乱 (とうもしちのらん)

中国の明代,1448年(正統13)から翌年にかけて約1年間,福建省沙県を中心に展開された農民反乱で,鄧茂七はその首謀者であった。当時,貨幣銀経済の浸透する中で,租税は銀納化されつつあり,木綿甘藷,甘蔗などの商品作物生産が漸増しつつあった。不在地主による大土地所有も進み,佃戸小作人)は高額地代を支払うほか,冬牲という副租(鶏や鴨などの貢物)を納め,また高利貸的収奪に甘んじ,そのうえ元来地主が支払うべき租税・徭役の一部までを肩代りさせられつつあった。かかる封建的重圧に耐えきれず,流民となる者が多かった。一攫千金をねらう坑首(山師)らは流民を糾合して盗掘(非公認の銀採掘)を行ったため,政府との間に武力闘争が絶えなかった。鉱賊を締め出すため,総小甲という自警団が組織され,鄧茂七はその総甲となり,日常的に農民を軍事教練していた。しかし貧農民らの窮状を見かね,彼らを扇動して,副租の撤廃,地代納入のための運送費負担の拒否等をスローガンとして反乱を起こした。鉱賊と連絡して一大反乱を展開したが,国家の圧倒的兵力,反乱民の内応などのために鎮圧された。この反乱は,直接生産者である佃戸が,彼ら自身の自由で自立的な農業経営を確保するための抗租闘争の原初形態であった点とともに,反乱を指揮領導した者が無頼ごろつき)であった点が重要である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鄧茂七の乱」の意味・わかりやすい解説

鄧茂七の乱
とうもしちのらん

中国、明(みん)代の1448年から49年にかけて、福建省を中心に起こった農民反乱。その指導者が鄧茂七であったのでこの名がある。福建は大部分が山地であるが、気候が温暖なので、狭小の平野部では唐末(10世紀)以来、中原(ちゅうげん)からの移住者が増加し、農業が発達した。明代になると、租税の銀納化が進む一方、農民もサトウキビ、茶、藍(あい)、茘枝(れいし)、紙、葛布(くずぬの)などの商品作物を栽培し、商品生産を展開した。そのため商人層による農民支配がいっそう強まり、彼らによって佃戸(でんこ)(小作)制に基づく大土地所有が発達した。彼らの多くは不在地主であり、佃戸は高い小作料を自ら地主のもとへ運ぶほか、冬牲(とうせい)という副租(ふくそ)(薪(しん)、米(べい)、鶏(けい)、鴨(おう)など)を納め、さらに不在地主が納めるべき租税、徭役(ようえき)の一部をも負担した。一方、彼らは治安対策上、総小甲(そうしょうこう)制という自警団に組織されていたが、鄧茂七はその組織の総甲として衆望を集めており、佃戸の要望を代表して冬牲の廃止を主張してそれを実現させた。さらに小作料を地主側からとりにくるよう要求したが、1448年、地主側は官憲と結んで武力でこの要求を抑えようとしたため、茂七は自ら「剗平(さんぺい)王」と称し、当時銀山開発をめぐって明朝の国家統制に反抗していた鉱山労働者の武装集団とも連絡をとって反乱を起こした。この反乱は中国史上初めて佃戸層が主導権を握り、農民的要求を掲げて戦った闘争で、後の抗租運動の歴史的先駆として高く評価されている。

[谷口規矩雄]

『岩見宏・谷口規矩雄著『新書東洋史4 伝統中国の完成』(講談社現代新書)』

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