酒井抱一(読み)さかいほういつ

精選版 日本国語大辞典 「酒井抱一」の意味・読み・例文・類語

さかい‐ほういつ【酒井抱一】

江戸後期の画家。名は忠因(ただなお)。姫路藩主酒井忠以(ただざね)の弟として、江戸に生まれた。仏門に入ったが、すぐに隠退し、江戸根岸に雨華庵をいとなみ、書画俳諧に風流三昧の生活を送った。絵は、はじめ狩野派沈南蘋(しんなんぴんは)浮世絵などを学んだが、のち光琳に傾倒、光琳をもとにして独自の画風を開いた。代表作「夏秋草図屏風」。宝暦一一~文政一一年(一七六一‐一八二八

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デジタル大辞泉 「酒井抱一」の意味・読み・例文・類語

さかい‐ほういつ〔さかゐハウイツ〕【酒井抱一】

[1761~1829]江戸後期の画家。江戸の人。名は忠因ただなお。通称栄八。別号、鶯村おうそん。姫路城主酒井忠以さかいただざねの弟。尾形光琳おがたこうりんに傾倒。琳派の画風に繊細な叙情性を加味し、同派の最後を飾った。俳諧・和歌・書などにも長じた。作「夏秋草図屏風」。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「酒井抱一」の意味・わかりやすい解説

酒井抱一
さかいほういつ
(1761―1828)

江戸後期の画家。名は忠因(ただなお)。通称栄八。姫路城主酒井忠以(ただざね)の弟として江戸に生まれる。文芸を愛好する酒井家の血を継いで、画(え)はもちろん、俳諧(はいかい)、和歌、連歌、国学、書、さらに能、仕舞などの諸芸をたしなんだ。37歳で出家を志し、京都西本願寺の文如上人(ぶんにょしょうにん)のもとに剃髪したが、わずか十数日の滞在で江戸に戻り、翌年浅草千束(せんぞく)の庵(いおり)に移って閑居。抱一号はこのころを契機に用いられている。文政(ぶんせい)11年11月29日没。

 画業は初め狩野高信(かのうたかのぶ)から狩野風を学び、また宋紫石(そうしせき)について沈南蘋(しんなんぴん)の写生画風、歌川豊春(とよはる)から浮世絵、さらに土佐派、円山派などの技法を習得、親交あった谷文晁(ぶんちょう)からも影響を受けるなど、諸派の画風を次々と学んだ。のち尾形光琳(こうりん)の作品に接して深く傾倒し、独自の立場でその作風を試み、江戸時代の装飾芸術の流派「琳派(りんぱ)」の最後を飾った。1815年(文化12)には光琳百年忌を催し、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行し、また1823年(文政6)にも『乾山(けんざん)遺墨』を編するなど、光琳あるいは乾山に対する私淑ぶりがうかがえる。また光琳筆の『風神雷神図屏風(びょうぶ)』の裏面に自らの最高傑作『夏秋草図』(重要文化財、東京国立博物館)を描き付ける。色彩豊かな光琳画の装飾性に倣いながらも、繊細優美な画風をもって豊かな叙情性を追究している。ほかに『葛秋草(くずあきくさ)図屏風』(重要文化財、HOYA株式会社)、『十二ヶ月草花図』(御物)、『秋草鶉(あきくさうずら)図屏風』など、とくに草花図の優品が多い。

[村重 寧]

『千沢禎治編『日本の美術186 酒井抱一』(1981・至文堂)』


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改訂新版 世界大百科事典 「酒井抱一」の意味・わかりやすい解説

酒井抱一 (さかいほういつ)
生没年:1761-1828(宝暦11-文政11)

江戸後期の琳派の画家。幼名栄八,名は忠因(ただなお)。抱一のほか,屠竜,雨華庵と号す。姫路城主酒井忠以(ただざね)の弟として江戸に生まれ,早くから各種の文芸に才能を示した。狂歌は四方赤良(よものあから)(大田南畝)について尻焼猿人と号し,俳諧は馬場存義に学んで終世愛好し,句集に《軽挙館句藻》がある。また書も得意であった。画ははじめ浮世絵,南蘋(なんぴん)派,狩野派,円山派などを広く学び,親友であった谷文晁にも兄事した。浮世絵は歌川豊春の影響を強く受けた作品を残している。1797年(寛政9)江戸へ下行した西本願寺の文如の弟子となって剃髪得度,権大僧都に任ぜられて等覚院文詮暉真と称した。かつて酒井家より扶持を受けていたことのある尾形光琳にこのころから傾倒,琳派の再興を目ざすようになった。1809年(文化6)下谷金杉大塚村の雨華庵へ転居,以後ここを制作の本拠地とした。15年光琳百年忌に際して遺墨展を開催して顕彰,その成果を《光琳百図》にまとめ,同時に《尾形流略印譜》も出版し,これを契機として本格的に絵画制作へと向かった。また23年(文政6)尾形乾山の墓碑を巣鴨の善養寺に発見し,《乾山遺墨》を編集した。画風の特質は,光琳様式を基礎としながら,それを江戸の通人らしい洒脱繊細なものに変えて,古典性を払拭した点にある。代表作として光琳筆《風神雷神図屛風》(東京国立博物館)の裏面に描いた《夏秋草図》のほか,《秋草図屛風》,《四季花鳥図屛風》(陽明文庫),《十二ヵ月花鳥図》(宮内庁)など,著書に《鶯邨画譜》がある。抱一から鈴木其一,池田孤邨などに伝えられた画系を,とくに江戸琳派と呼ぶことが近年行われている。
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朝日日本歴史人物事典 「酒井抱一」の解説

酒井抱一

没年:文政11.11.29(1829.1.4)
生年:宝暦11.7.1(1761.8.1)
江戸後期の琳派の画家。名は忠因。号は抱一のほかに庭柏子,鶯村など。俳号は杜綾。狂名は尻焼猿人。姫路城主酒井家の次男として江戸に生まれる。寛政9(1797)年剃髪し等覚院文詮暉真と称し,文化6(1809)年暮れには,のちに雨華庵と名付けた画房を根岸に営んだ。若いころから多趣味多芸であったが,薙髪隠居後は特に風雅の道に専心し,文化人とも広く交遊する。絵は狩野派ややまと絵のほか,歌川豊春風の浮世絵美人画,新来の洋風画法,沈南蘋風の絵画,さらには京都の円山・四条派や伊藤若冲,尾形光琳などの画法に習熟した。なかでももっとも大きな感化を受けたのは,30歳代終わりから私淑した尾形光琳からで,文化12(1815)年光琳の百回忌を営み,『尾形流略印譜』や『光琳百図』を出版するなど,数々の光琳顕彰を行うと同時に,華麗な装飾画法を瀟洒にして繊細な江戸風に翻案し,優美ななかにも陰影に富んだ江戸風琳派を完成した。また文政6(1823)年尾形乾山の墓を発見し『乾山遺墨』も編んだ。代表作の「月に秋草図屏風」(個人蔵),「夏秋草図屏風」(東京国立博物館蔵),「十二ケ月花鳥図」(御物)などは,いずれも60歳代の作。終生俳諧を好み,洒落た俳画も得意とする。『軽挙館句藻』は俳諧日誌。句集『屠竜之技』(1813)と俳画集『鶯邨画譜』(1817)を刊行している。<参考文献>山根有三ほか編『琳派絵画全集 抱一派』

(仲町啓子)

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百科事典マイペディア 「酒井抱一」の意味・わかりやすい解説

酒井抱一【さかいほういつ】

江戸後期の画家,俳人。本名忠因(ただなお),抱一は号。姫路城主酒井忠以(ただざね)の弟で,江戸生れ。37歳のとき西本願寺で出家,権大僧都となったがすぐ隠退し,下谷根岸に雨華庵を営んで書画・俳諧に親しんだ。絵は狩野派をはじめ諸派に学んだのち,尾形光琳に私淑。1815年光琳の百年忌を行い,《光琳百図》《尾形流略印譜》を出版。琳派のもつ日本的な装飾画の中に繊細な感覚をもりこんだ画風で,代表作は《夏秋草図屏風》。句集に《屠竜之技(とりゅうのぎ)》がある。
→関連項目溜込原羊遊斎松平治郷

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「酒井抱一」の意味・わかりやすい解説

酒井抱一
さかいほういつ

[生]宝暦11(1761).7.1. 江戸
[没]文政11(1828).11.29. 江戸
江戸時代後期の画家。名は忠因 (ただなお) ,通称栄八。号は抱一,鶯村のほか,俳号として白鳧,濤花,杜稜,屠龍など。酒井忠仰の次男で,姫路城主,酒井忠以の弟。江戸で育つ。酒井家は代々学問芸術に厚い家柄で,抱一も若年より俳句,狂歌,能,茶事などを広くたしなんだ。病気を理由に 37歳で剃髪して等覚院文詮暉真と称し,権大僧都となる。 49歳のとき下根岸に雨華庵を営み,谷文晁ら当時の文化人たちとも親しく交遊。絵は初め狩野派を学び,次いで歌川豊春からは浮世絵,宋紫石からは沈南蘋 (しんなんぴん) の写生画風,さらに円山派,土佐派にも手を染めたが,のち尾形光琳,乾山に深く私淑。ことに光琳の画風の復興に努め,その影響のもとに独自の画風を形成。文化 12 (1815) 年の光琳百回忌にちなんで『光琳百図』『尾形流略印譜』を,文政6 (23) 年には『乾山遺墨』を刊行。文化文政期の江戸の粋人らしい繊細な情感を画面に漂わせる。主要作品『夏秋草図』 (東京国立博物館) ,『四季花鳥図』 (陽明文庫) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「酒井抱一」の解説

酒井抱一 さかい-ほういつ

1761-1829* 江戸時代中期-後期の画家,俳人。
宝暦11年7月1日生まれ。酒井忠仰(ただもち)の次男。播磨(はりま)姫路藩主酒井忠以(ただざね)の弟。37歳で出家し,文化6年江戸根岸に雨華庵をいとなむ。絵を狩野高信,宋紫石,歌川豊春にまなび,のち尾形光琳(こうりん)に傾倒。「夏秋草図屏風(びょうぶ)」など琳派風の絵をかいた。俳諧にもすぐれた。文政11年11月29日死去。68歳。江戸出身。名は忠因(ただなお)。字(あざな)は暉真。通称は栄八。別号に鶯村など。句集に「屠竜之技(とりょうのぎ)」。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「酒井抱一」の解説

酒井抱一
さかいほういつ

1761.7.1~1828.11.29

18世紀末から江戸で活躍した画家。姫路藩主酒井忠以(ただざね)の弟で,名は忠因(ただなみ)。1797年(寛政9)出家し,文詮暉真と称する。号は抱一・屠竜(杜竜)(とりょう)・庭柏子・鶯邨(おうそん)・雨華庵など。青年期に狩野派や浮世絵を学び,寛政後期から尾形光琳に私淑,江戸における新しい琳派様式である抱一派を確立した。文化人と広く交流があり,俳諧や狂歌でも活躍。代表作「夏秋草図屏風」(重文)「四季花鳥図巻」「十二カ月花鳥図」。

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367日誕生日大事典 「酒井抱一」の解説

酒井抱一 (さかいほういつ)

生年月日:1761年7月1日
江戸時代中期;後期の琳派の画家
1829年没

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世界大百科事典(旧版)内の酒井抱一の言及

【築地本願寺】より

…堂宇は火事や暴風雨などの災害にたびたびあい,現在のインド風建物は1934年の造営。境内に画家で俳人の酒井抱一や,真宗内部の教義論争〈三業惑乱(さんごうわくらん)〉に活躍した僧大瀛(だいえい)の墓などがある。【千葉 乗隆】。…

【琳派】より

…桃山時代後期に興り,近代まで続いた造形芸術上の流派。宗達光琳派とも呼ばれ,本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し,尾形光琳・乾山兄弟によって発展,酒井抱一,鈴木其一(きいつ)が江戸の地に定着させた。その特質として(1)基盤としてのやまと絵の伝統,(2)豊饒な装飾性,(3)絵画を中心として書や諸工芸をも包括する総合性,(4)家系による継承ではなく私淑による断続的継承,などの点が挙げられる。…

※「酒井抱一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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