酒屋(酒を醸造、売買する商店)(読み)さかや

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

酒屋(酒を醸造、売買する商店)
さかや

酒を醸造、売買する商店。5世紀に中国から新技術を導入し、政府や社寺や民間で酒の自家醸造したのが始まり。商品としての酒の生産は13世紀のことである。中世酒屋造り酒屋で、酒造職人の酒作(さけつくり)を抱えていた。京都、奈良などの消費都市に多くできた。14世紀には土倉(どそう)を兼業するものもあった。公家(くげ)、幕府は酒壺(つぼ)別の酒屋役を課していた。15世紀には、堺(さかい)、西宮(にしのみや)、兵庫(神戸市兵庫区)や宮腰(みやのこし)(金沢市金石(かないわ))、江川(えがわ)(静岡県伊豆の国市)などに酒屋が生まれた。小売り専門の酒屋もでき、これは請酒屋(うけさかや)・小酒屋(こさかや)とよばれ、造り酒の酒屋は本(ほん)酒屋とよばれた。麹(こうじ)作りも分化して、専門の業者ができた。濁酒(にごりざけ)・薄濁(うすにごり)酒のほかに清澄度の高い清酒(すみさけ)もつくられ、16世紀には陶製の壺にかわって木製の桶(おけ)が使われた。また、灰汁(あく)を入れて清澄度を高める技術も始まった。児島(こじま)(倉敷市)、尾道(おのみち)、三原、道後(松山市)、高野(こうや)(和歌山県高野町)、小倉(こくら)(北九州市)などに地方的名酒がつくられた。

 17世紀になって、酒屋の業態は多様となった。原料の米は貢租米なので、醸造高は抑制されていたが、それでも酒は嗜好(しこう)品として盛んに飲まれた。かつての本酒屋である造り酒屋は都市や村落の有力な商人農民が経営したが、酒造株によって制限されていた。酒造技術も進歩し、仕込み米も麹の原料も精白米を使う諸白(もろはく)といった清酒が寒仕込みによって醸造された。酒造労働には農閑期出稼ぎの杜氏(とうじ)を主とする蔵人(くらびと)たちがあたった。池田、伊丹(いたみ)、灘(なだ)五郷(神戸市灘区)が産地となった。造り酒屋は多く高利貸を兼営した。上方(かみがた)では造り酒屋から直接小売りの酒屋に売られたが、江戸においては、全消費量の8割近くを占める上方からの下り酒は下り酒問屋に、また江戸近在の地回り酒は地回り酒問屋によってそれぞれ配給された。酒問屋は材木と同じく舟運の便のよい地域に集住していた。19世紀に冥加金(みょうがきん)の納入額は諸問屋のなかで下り酒問屋が最高であり、その致富がわかる。また、酒仲買は造り酒屋と酒問屋か小売酒屋、あるいは酒問屋と小売酒屋との取引の仲介をした。小売酒屋は消費者の徳利(とくり)などに量り売りをした。多くは通帳の掛け売りであった。また、店頭においても升(ます)などで飲ませ、江戸ではこれを升酒屋、上方では板看板(いたかんばん)酒屋とよんだ。18世紀になると村落にも小売酒屋(請酒屋ともいう)や居酒屋ができた。飲酒の普及と農間稼(のうまかせぎ)などでの現金収入が増加してきた結果である。

 1871年(明治4)酒造は政府の免許制となり、1875年に免許税を酒造営業税(酒税)とした。そして1880年には自家用酒の醸造を制限し、1899年にはいっさい禁止した。このように酒造は酒税の対象となったが、酒の流通経路は基本的には現在も変わっていない。

[遠藤元男]

『小野晃嗣著『日本産業発達史の研究』(1941・至文堂)』『柚木学著『近世灘酒経済史』(1965・ミネルヴァ書房)』

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