日本大百科全書(ニッポニカ) 「鎌田慧」の意味・わかりやすい解説
鎌田慧
かまたさとし
(1938― )
ルポライター。青森県弘前市生まれ。1954年(昭和29)青森県立弘前高校入学。57年高校卒業と同時に上京、板橋区の8ミリカメラ試作工場で機械工見習になるが3か月で退社。ガリ版印刷の見習工となる。労組結成に参加し、社会科学の本を読むようになる。60年早稲田大学文学部ロシア文学専修に入学、64年卒業。「総合芸術の会」に参加、機関誌『総合芸術』の編集者となる。64年、『総合芸術』に「ソヴェト・アヴァンギャルドの運命」を発表。67年、『新日本文学』に都電撤去問題のルポルタージュ「首切りと統制処分」を発表。68年、フリーとなる。70年、カドミウム中毒を取り上げた初の単行本『隠された公害』を発表。71年合併した新日本製鉄を取材した『死に絶えた風景』を発表。73年豊田市のトヨタ自動車で季節工として働き、この体験をもとに『自動車絶望工場』を発表。企業の広報室を通した「正門」からの取材ではなく、一労働者としてベルトコンベヤーの前に立ち、過酷な労働を身をもって経験しつつ書かれたこのルポルタージュは大きな反響を呼んだ。しかし大宅壮一賞選考委員会は、同書を候補作に挙げながらも、「取材の仕方がフェアでない」「ルポを目的とする工場潜入とわかってみれば、少なからず興ざめする」といった意見で賞を与えなかった。この「事件」は、賞とは、与えられる者だけでなく、与える者の見識や姿勢も同時に問うものとして、長く記憶されることとなった。74年これまで雑誌に発表したルポをまとめて『労働現場の叛乱』『ウラの社会を知る』として出版。75年旭硝子船橋工場で季節工として働き、同工場に出稼ぎで来ていた同僚たちを追跡取材。翌76年『逃げる民・出稼ぎ労働者』として出版。続いて『労働現場に何が起こった』『工場への逆攻』(1976)、『ガラスの檻の中で』『工場と記録』『職場に闘いの砦を』(1977)、弘前大学教授夫人殺人事件に関するルポルタージュ『血痕・冤罪の軌跡』『土と人間の記録』(1978)、『失業』『日本の兵器工場』『倒産』(1979)などを発表。79年、『新日本文学』編集長就任。80年高橋悠治(音楽家)、津野海太郎(編集者、1938― )らとミニコミ誌『水牛通信』を発刊。70年代の鎌田は労働の現場で起きている諸問題や、それが市民生活と相対したときに起きる公害問題、あるいは差別や冤罪などについて伝えてきた。
80年代になると、そこに教育問題が加わり、83年に教育問題ルポルタージュ『教育工場の子どもたち』を発表する。90年(平成2)『反骨――鈴木東民の生涯』で新田次郎賞。91年『六ヶ所村の記録』で毎日出版文化賞。97年には大杉栄をその死から説き起こした評伝『大杉栄――自由への疾走』、98年には『ドキュメント屠場』を書く。90年代後半になると、バブル崩壊後の日本社会は、ますますその歪みを大きくしていった。矛盾は常に社会で最も弱い部分に出る。『いま、非情の町で』(1998)、『家族が自殺に追い込まれるとき』(1999)、『自立する家族』(2001)、『ひとを大事にしない日本』(2002)などで報告されるのはそうした部分である。鎌田の方法は常に「正門」からではなく「通用門」から入り、状況のなかでもっとも弱い者と同じ位置にある。
[永江 朗]
『『労働現場の叛乱』(1974・ダイヤモンド社)』▽『『ウラの社会を知る』(1974・ベストセラーズ)』▽『『逃げる民・出稼ぎ労働者』(1976・日本評論社)』▽『『労働現場に何が起こった』(1976・ダイヤモンド社)』▽『『工場への逆攻』(1976・柘植書房)』▽『『ガラスの檻の中で』(1977・国際商業出版)』▽『『工場と記録』(1977・晶文社)』▽『『職場に闘いの砦を』(1977・五月社)』▽『『血痕・冤罪の軌跡』(1978・文芸春秋)』▽『『土と人間の記録』(1978・現代書館)』▽『『失業』(1979・筑摩書房)』▽『『倒産』(1979・三一書房)』▽『『大杉栄――自由への疾走』(1997・岩波書店)』▽『『いま、非情の町で』(1998・岩波書店)』▽『『家族が自殺に追い込まれるとき』(1999・講談社)』▽『『自立する家族』(2001・淡交社)』▽『『ひとを大事にしない日本』(2002・小学館)』▽『『隠された公害』(ちくま文庫)』▽『『死に絶えた風景』(現代教養文庫)』▽『『自動車絶望工場』『日本の兵器工場』『教育工場の子どもたち』『反骨――鈴木東民の生涯』『六ヶ所村の記録』(講談社文庫)』▽『『ドキュメント屠場』(岩波新書)』▽『鎌田慧編集代表『「新日本文学」の60年』(2005・七つ森書館)』