長和(読み)チョウワ

デジタル大辞泉 「長和」の意味・読み・例文・類語

ちょうわ〔チヤウワ〕【長和】

平安後期、三条天皇後一条天皇の時の年号。1012年12月25日~1017年4月23日。

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精選版 日本国語大辞典 「長和」の意味・読み・例文・類語

ちょうわ チャウワ【長和】

平安時代三条・後一条両天皇の代の年号。寛弘九年(一〇一二)一二月二五日に前年の天皇即位により改元、長和六年(一〇一七)四月二三日に寛仁(かんにん)元年となる。藤原道長の全盛時代。出典は「礼記‐冠義」の「君臣正、父子親、長幼和而后礼義立」。

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改訂新版 世界大百科事典 「長和」の意味・わかりやすい解説

長和[町] (ながわ)

長野県中央部,小県(ちいさがた)郡の町。2005年10月長門(ながと)町と和田(わだ)村が合体して成立した。人口6780(2010)。

長和町東部の旧町。小県郡所属。人口5220(2000)。町域の大半は霧ヶ峰北東麓の広大なすそ野で,千曲川の支流依田川の扇状地にわずかに水田が広がる。中心集落の長久保は江戸時代に中山道の宿駅としてにぎわったが,明治中期の信越本線開通後は沿線からはずれたためさびれた。農業が主産業であるが,かつての稲作・養蚕中心から,高原野菜・花卉栽培,畜産などに移行し,エノキダケ,シイタケの栽培も増加している。国道142号,254号線が通じ,上田市,小諸市への通勤者も多い。南端の姫木平周辺では別荘地,スキー場,ペンションなどの開発が進み,一大リゾート地となっている。

長和町西部の旧村。小県郡所属。人口2587(2000)。千曲川の支流依田川上流に位置し,西は美ヶ原茶臼山(2006m)を隔てて松本市に接する。村域の90%が山林・原野で,耕地は依田川沿いなどに限られる。中心集落の和田は中山道の宿駅として発達した。村の南西には中山道随一の難所といわれた和田峠があり,付近は石器時代から黒曜石の産地であった。新和田トンネル有料道路の開通(1978)後は諏訪地方との往来が容易になり,また美ヶ原と茅野市を結ぶビーナスライン(2002年無料開放)を利用した観光客が増えた。野菜栽培,畜産,稲作を中心とする農業が主で,エノキタケ栽培も盛んである。国道142号線が通じる。黒耀石石器資料館,中山道和田宿本陣,歴史の道資料館などの施設がある。
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日本の元号がわかる事典 「長和」の解説

ちょうわ【長和】

日本の元号(年号)。平安時代の1012年から1017年まで、三条(さんじょう)天皇、後一条(ごいちじょう)天皇の代の元号。前元号は寛弘(かんこう)。次元号は寛仁(かんにん)。1012年(寛弘9)12月25日改元。三条天皇の即位にともない行われた(代始改元)。『礼記(らいき)』を出典とする命名。長和年間は、藤原道長(みちなが)が内覧(ないらん)、摂政(せっしょう)として摂関政治を行った。1011年(寛弘8)、三条天皇は25年にわたる東宮(皇太子)を経て、36歳で即位した。親政を望む三条天皇と外孫の早期の即位を望む道長の間に確執が生じ、1016年(長和5)に三条は退位して後一条天皇が即位、外祖父の道長が摂政に就任した。三条天皇はその翌年に崩御する。

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