開封(かいほう)(読み)かいほう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「開封(かいほう)」の意味・わかりやすい解説

開封(かいほう)
かいほう / カイフォン

中国河南(かなん)省北東部、黄河(こうが)右岸にある地級市。5市轄区、蘭考(らんこう)など4県を管轄する(2016年時点)。人口553万8000(2014)。隴海(ろうかい)線が東西に横切るほか、2016年開通の鄭徐高速鉄道(鄭州(ていしゅう)―徐州(じょしゅう))も通じる。河南省有数の工業都市で、開封水力発電所を基盤に、化学肥料、製薬工場をはじめ、酸素生成機械、計器工場などがあり、近代工業が発達している。汴(べん)刺しゅうや汴絹など伝統ある手工業も盛んである。

 中国六大古都の一つで、戦国の魏(ぎ)以来7王朝が国都を置き、東京(とうけい)、汴梁(べんりょう)、汴京(べんけい)ともよばれた。12世紀、黄河が河道を近くに変えてから、しばしば災害をもたらし、開封は六度にわたり水没した。うち二度は、戦乱の際、人為的に堤防を破壊したことによるものである。また風により黄砂(こうさ)が吹き上げられるため沙城(さじょう)(砂の町)ともよばれた。現在では堤防を補強し、黄河の水を引いて灌漑(かんがい)し、水稲栽培を増やすことによって砂を固定しているため、災害はほとんどなくなった。農産物の集散地で、師範大学など高等教育施設もある。

[駒井正一・編集部 2017年12月12日]

歴史

戦国時代に水利事業の振興で名高い魏が、紀元前362年に都して大梁(たいりょう)と称し、黄河と済水(せいすい)、淮水(わいすい)などとを結ぶ運河網をつくり、学術も栄えた。秦(しん)が魏を滅ぼしたあと荒廃し、東魏が梁州を建て、北周の時代に汴州と改名した。

 隋(ずい)が大運河を築いたとき、泗州(ししゅう)から黄河に通じる汴河(通済渠(つうせいきょ))という運河が開かれ、汴州は洛陽(らくよう)方面への補給を任務とする交通大幹線に臨むため、政治や経済の要所となった。安史(あんし)の乱以後、節度使の争いはこの汴州周辺の支配を焦点とし、唐を倒した後梁(こうりょう)は東都開封府を開き、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)を経て北宋(ほくそう)もここに都し開封と称した。以後人口は100万を超え、三重の城ができ、政治・商業都市として繁栄、孟元老(もうげんろう)の『東京夢華録(むかろく)』、張擇端(ちょうたくたん)の『清明上河図巻(せいめいじょうかずかん)』に盛時のようすが詳しく記録された。

 北宋末、金(きん)の猛攻でついに落城、金が一時都したが荒廃し、黄河の洪水、流路の移動もあって衰え、元、明(みん)、清(しん)の時代には一地方都市にとどまった。

[斯波義信 2017年12月12日]

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