閔妃(読み)びんひ(英語表記)Min-pi

精選版 日本国語大辞典 「閔妃」の意味・読み・例文・類語

びん‐ひ【閔妃】

朝鮮、李朝第二六代高宗の妃。閔致祿の娘。一八六六年王妃となって権勢掌握、高宗の実父大院君を追放して閔氏一族による政権を確立した。清やロシアと結んで日本侵略を阻止しようとしたために、乙未(いつび)の変で暗殺された。明成王后とも。(一八五一‐九五

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デジタル大辞泉 「閔妃」の意味・読み・例文・類語

びん‐ひ【閔妃】

[1851~1895]朝鮮李朝第26代国王高宗の妃。朝と結んで摂政大院君を退け、守旧派事大党)を重用して親清政策をとる。日清戦争後はロシアに接近して反日政策を展開したため、日本公使三浦梧楼の指揮下の日本官憲および壮士らによって殺害された。ミンピ。

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改訂新版 世界大百科事典 「閔妃」の意味・わかりやすい解説

閔妃 (びんひ)
Min-pi
生没年:1851-95

朝鮮,李朝第26代高宗の妃。驪興(れいこう)閔氏の一族,閔致禄の娘として,京畿道驪州に生まれる。1866年,大院君の夫人閔氏の推薦で王妃となったが,宮中内外に閔氏一族の勢力を扶植し,73年には大院君を失脚させた。翌年,王子坧(のちの純宗)を産んで基盤をさらに固め,閔妃とその一族は政権の中枢を独占する。閔氏政権がすすめた開国政策は国内にさまざまな対立を生み出し,82年には壬午軍乱がおこった。このとき閔妃は変装して王宮を脱出したが,清国軍介入して大院君を天津に連れ去ると,再び勢力を回復した。このころから事大=守旧派としての性格を強め,84年の甲申政変を清国軍の力を借りてのりきったあとは,袁世凱(えんせいがい)の勢力とも結んで開化派を弾圧し,守旧的な政治を続行した。94年7月,日本軍が大院君をかついで王宮を占領し,開化派の政権が成立すると(甲午改革),閔妃の一派は政権から追われた。しかし翌年,三国干渉ののちロシアと結んで巻き返し,政権を回復。このため,勢力後退で焦燥感にかられた日本の手によって殺された。

1895年,日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害された事件。三国干渉を契機として復活した閔氏政権の排日政策に対抗して勢力挽回を図った三浦は,10月8日早朝,ソウル駐在の日本守備隊および岡本柳之助安達謙蔵ら日本人壮士のグループに命じて景福宮を襲撃させた。宮殿内に乱入した彼らは閔妃を斬殺して奥庭にひきずり出し,死体を凌辱したうえ石油をかけて焼き払い,これと同時に,大院君をかつぎ出して金弘集を首班とする親日開化派政権を成立させた。三浦は朝鮮軍隊の内紛を装ったが,王宮の内部にいた外国人の目撃などから国際的な非難をあびた。そこで日本政府は,三浦以下48名を召喚して形ばかりの裁判を行い,翌年1月,証拠不十分として全員を免訴・釈放した。日本のこのような蛮行に対して,朝鮮各地で反日義兵闘争がまきおこった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「閔妃」の意味・わかりやすい解説

閔妃
びんひ / ミンピ
(1851―1895)

朝鮮王朝(李氏(りし)朝鮮)第26代高宗の妃。1866年に王妃に冊封(さくほう)された。時の執権者であった高宗の実父大院君と対立し、閔氏一族を中心に反対派を糾合、政府の要職に登用し、1873年には国王親政の名のもとに大院君を退け、自ら権力を握った。鎖国主義を改め、1876年には日本と江華条約日朝修好条規)を結んだ。1882年の壬午(じんご)軍乱で失脚したが、ふたたび政権を掌握。1884年の甲申政変では一族の有力者を失いながらも、清(しん)国軍の介入で政変を挫折(ざせつ)させた。日清戦争後、親日的な金弘集らの手で甲午改革が始まると、ロシアに接近して日本の侵略を阻止しようと図った。これを憎んだ日本官憲、浪人の手によって、1895年10月8日殺害され、死体は焼却された。

[宮田節子]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「閔妃」の解説

閔妃(びんひ)
Min-pi

1851~95

朝鮮王朝末期第26代李太王(りたいおう)(高宗)の妃。1873年兄閔升鎬(びんしょうこう)らとともに,摂政大院君(だいいんくん)失政を攻撃して引退させ,国王親政の名のもとにみずから実権を握り,一族とともに政権を専断した。内政面では守旧主義,外交面では清国に従属する事大主義をとり,日本と結ぶ独立党を押えていた。日清戦争で清国が敗退すると,ロシアと結んで政権を維持し日本を排斥しようとしたため,日本公使三浦梧楼(ごろう)の陰謀により95年10月暗殺された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「閔妃」の意味・わかりやすい解説

閔妃
びんひ
Minbi

[生]哲宗2(1851)
[没]高宗32(1895).10.8. 京城(現ソウル)
朝鮮,朝鮮王朝 (李朝) 末期の高宗の王妃閔氏。諡は明成王后。京畿道驪州郡出身。その政治力によって朝鮮王朝の政治を左右した。閔致禄の娘で,8歳で父母を失い継母のもとに育つ。早くから才色兼備をうたわれ,高宗3 (1866) 年3月 20日,高宗 15歳,閔妃 16歳で結婚。閔氏一族を登用し守旧事大 (親清) の政策をとり,政権を義父大院君や親日開化派と争った。同 32年 10月8日三浦梧楼公使らの陰謀で,日本人壮士によって虐殺された (→乙未事変 ) 。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「閔妃」の解説

閔妃
びんひ
Min-bi

1851.9.25~95.10.8

李氏朝鮮第26代国王高宗の妃。1866年王妃となり,73年高宗の実父大院君(たいいんくん)を引退させ閔氏戚族による政権独占をもたらす。壬午(じんご)・甲申(こうしん)両事変の危機を脱してから,清国・ロシアの力を背景に権力を強化した。日清戦争・甲午改革で閔氏戚族は失脚したが,三国干渉後ロシアに接近し再び権力を握った。これを不満とした駐朝公使三浦梧楼(ごろう)らによって,95年10月王宮を襲われ殺害された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「閔妃」の解説

閔妃 ミンビ

1851-1895 朝鮮王朝の第26代高宗(コジヨン)の妃。
哲宗2年9月25日生まれ。1866年16歳で妃となる。高宗の父李是応(イ-ハウン)(大院君)を失脚させ閔氏一族を登用して政権をにぎった。日清(にっしん)戦争後,ロシアとむすんで反日政策をとったため,朝鮮公使三浦梧楼が指揮する軍人,壮士らによって高宗32年8月20日(1895年10月8日)殺害された。45歳。京畿道出身。

閔妃 びんひ

ミンビ

閔妃 びんき

ミンビ

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旺文社日本史事典 三訂版 「閔妃」の解説

閔妃
びんひ

1851〜95
李氏朝鮮末期,李太王(高宗)の王妃
1866年王妃となり,'73年大院君(李太王の父)を引退させて閔氏政権を樹立。'82年壬午事変ののち,清と接近し,'84年甲申事変後は閔氏=事大党の全盛期となる。日清戦争後,勢力を失墜し,反日親露政策をとり,'95年日本公使らの扇動による日本駐留軍の手で,漢城(現ソウル)景福宮で殺害された(乙未 (いつび) の政変)。

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旺文社世界史事典 三訂版 「閔妃」の解説

閔妃
びんひ

1851〜95
李氏朝鮮の高宗の妃
1866年妃となり,のち外戚 (がいせき) 閔氏一族を率いて摂政大院君と政争をくり返した。1873年大院君を隠退させ,82年壬午 (じんご) 軍乱ののち清に接近し,84年甲申 (こうしん) 政変以後は全盛となった。1895年には三国干渉を行ったロシアと結んだが,勢力挽回をはかる日本公使三浦梧楼らによって景福宮で殺害された。

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世界大百科事典(旧版)内の閔妃の言及

【梨花女子大学校】より

…1886年アメリカのメソディスト派宣教師W.B.スクラントン夫人創設の梨花学堂に始まる。〈梨花〉の名称は閔妃(びんひ)(明成皇后)が下賜。女子教育に消極的な儒教的風土の下でその先駆となり,女性の地位向上に貢献した。…

※「閔妃」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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