阿部豊(読み)あべゆたか

改訂新版 世界大百科事典 「阿部豊」の意味・わかりやすい解説

阿部豊 (あべゆたか)
生没年:1895-1977(明治28-昭和52)

阿部ジャック,ジャッキー阿部の名で親しまれた映画監督。宮城県生れ。10代で渡米,ハリウッドで俳優修業をした後(早川雪洲書生をしていた),関東大震災の翌々年(1925)帰国。ハリウッド帰りの監督として,アメリカ的なモダニズムソフィスティケーションを〈現代劇〉に吹きこみ,しゃれた都会的センスと,〈好色趣味〉と〈音楽的諧調テンポとリズム)〉にあふれた喜劇《京子と倭文子》(1926。清水宏,伊藤大輔と競作),《足にさはった女》(1926),《彼を繞る五人の女》(1927)で一躍注目され,これらの作品によって岡田時彦を粋な二枚目スターにした。欧米帰りのシナリオ・ライター森岩雄を中心にした〈金曜会〉とともに〈日活現代劇〉のてこ入れに貢献。戦意高揚映画《燃ゆる大空》(1940),《あの旗を撃て》(1944)も撮った。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「阿部豊」の解説

阿部豊 あべ-ゆたか

1895-1977 大正-昭和時代の映画監督。
明治28年2月2日生まれ。アメリカで演劇をまなび,映画俳優となる。大正14年帰国,日活に入社し「母校の為めに」で監督としてデビュー。昭和52年1月3日死去。81歳。宮城県出身。東北中学中退。通称はジャッキー阿部。代表作に「足にさわつた女」「彼をめぐる五人の女」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の阿部豊の言及

【岡田時彦】より

…大正末期から昭和の初めにかけて,阿部豊,溝口健二,小津安二郎,清水宏らの作品に連続して主演し,鋭く繊細な近代的感覚をうたわれた二枚目スター。東京生れ。…

【活劇映画】より

時代劇映画
[戦前の活劇]
 1920年代から30年代にかけて,活劇は隆盛をきわめ,活劇スターが輩出した。学生スポーツ映画の嚆矢(こうし)《我等の若き日》やオートバイ活劇《青春の歌》(ともに1924)や牛原虚彦監督とのコンビ作《潜水王》(1925),《近代武者修業》,《陸の王者》(ともに1928)などの鈴木伝明,山本嘉次郎監督《爆弾児》(1925)や《鉄拳児》,オートバイ活劇《快走恋を賭して》(ともに1926)などの高田稔,《恋は死よりも強し》(1925),《赤熱の力》(1926),《鉄拳縦横》(1927)などの竹村信夫,田坂具隆監督《阿里山の俠児》(1927),《雲の王座》(1929)や阿部豊監督《覇者の心》(1925),《非常警戒》(1929)や内田吐夢監督《東洋武俠団》(1927)などの浅岡信夫,溝口健二監督の海洋活劇《海国男児》(1926)や田坂具隆監督《鉄腕記者》,《黒鷹丸》,また内田吐夢監督《漕艇王》(ともに1927),《太洋児・出船の港》(1929)などの広瀬恒美である。これらの映画はときに〈猛闘劇〉と呼ばれ,鈴木伝明は学生出身のスポーツ俳優第1号とされ,続く浅岡信夫は陸のスポーツ俳優,広瀬恒美は海のスポーツ俳優と称されて,浅岡信夫はみずから監督もした。…

【田中栄三】より

…トーキー以後はほとんど作品がなく,現場から退いた後は,日本映画俳優学校で多くの人材を育てた。関東大震災直後,森岩雄らと日活金曜会で企画の刷新をはかり,溝口健二《紙人形春の囁き》(1926),阿部豊《彼をめぐる五人の女》(1927)など日本映画の古典的名作として記録されることになる作品のシナリオを書いた。晩年は大学の芸術学部や撮影所の俳優養成所で演技理論と実際の指導にあたり,また,今井正《また逢う日まで》(1950),豊田四郎《雁》(1953)その他に特別出演している。…

※「阿部豊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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